第十話 クロードの世界
物心ついた頃から、クロード・ルヴェリエの世界はまるで薄いヴェールの向こうに広がっているようだった。
隣で声を上げて誰かが笑った。
つられたように大声で肩に手をまわしながら小突きあう学院生たち。
頭を抱えて術式を囲む者達。
苛立ちから声を荒げ、険悪な雰囲気の中で頭を寄せ合っている者もいる。
目の前に並ぶ顔、顔、顔……。
そのどれもに、感情をのせて。
笑い、涙し、怒り、悲しむ。
そんな当たり前の日常に現実味を感じなくなったのはいつの頃からだったか。
クロードはルヴェリエ家の長子として、幼いころから魔術を学んできた。
自分もいずれ父のように王国魔術士になるんだと、ただ言われるがままに淡々と。
そんな自らの人生に何の疑問も不満も抱いたことはなかった。
『天才』『エリート』……幼いころから頭一つどころか、二つも三つも抜きんでた才能を持つクロードを評して人々はそう呼んだ。
魔術書を読めば、すぐさま理論がわかる。
術式を見れば、それを書いて発動させられる。
複雑な詠唱も、一度目を通せば記憶できる。
『よくやった。それでこそルヴェリエの子だ』
『相変わらずすごいな、また全問正解だったって⁈』
『いやぁ、君に教えられることはもうないな』
初めは嬉しかった周囲の大人や同級生たちからの称賛や賛辞も、毎日毎日、何年も……繰り返されるうち、何の意味も持たない、ただの音になっていった。
ワカラナイが無い
デキナイが無い
ウレシイが無い
カナシイが無い
そしてクロードの世界には、やがて何も無くなった。
わからないという葛藤。
出来た時の喜び。
失敗した時の悲しみ。
人々がなぜあれほど些細なことにまで感情を動かし、表情をくるくると変えるのか。
いつの日からか、クロードには“わからない”が“わからな”くなっていた。
そんなクロードの何事にも動じない姿は、ある者には畏怖を、ある者にはミステリアスな存在に対する憧憬を抱かせ、自然と周囲から孤立した存在になっていった。
無論、クロードはそのことに対してすら“何も”感じていない。
クロードにとって人とは、世界とは、そういうものだった。
疑問を感じるまでもなく。
直接触れることのない、薄いヴェールの向こうに広がっている世界。
そんなクロードの何も映らない世界に、突然ノイズが生じ始めた。
「クロード様ぁ……やっぱりこの魔法陣、効果ごとに分けませんか?」
「何故だ?」
「わたしの技術力では、一度に違う性質の魔力を調整しながら流すのは無理だからです!」
「……却下だな。効率が悪い」
「また効率って……」
口をとがらせながらリナリアがぶつぶつと呟く。
課題試験の封印を解くための魔法陣を描き上げたのはいつの事だったか……。いつものように一人で進める課題なら、とうに終えている頃だ。
しかし今回は……。
目の前で唸っているリナリアを、不思議な思いで見つめる。
いったい何故自分は、不効率で理解不能なこの女子学生をパートナーにと望んだのだろう。
実力、知識、家柄……申し分ない力を手にし、効率よく課題を終えられる相手など、他にいくらでもいたはずなのに。
何故……?
この問い自体、自分の中に生まれたのはいつぶりの事だろうか。
物心ついた頃から、何事においても疑問が浮かぶまでもなく、あらゆる問題を即座に解決し、厄介なことは身に降りかかる前に回避してきた——何の苦も労せず。それがどうしたことだろう。よりにもよってこんな……。
目の前でもがく効率の悪い、理解も出来ない厄介な人間をまじまじと見る。
この人間を選んでしまった自分がわからない、そして何故いまだに手を離せずにいるのかも……。
「クロード様、この魔法陣は封印を破壊する為のものですよね?これを分解して緩解、弱体化、昇華の三段階にするのはどうでしょう?」
「……非効率な。無意味だ。前にも言ったが、君の技術力なら十分今の魔法陣に対応できるはずだ。遠慮せずに最初から最大量で臨めば」
「——だから、それじゃあ魔法陣と封印に負担が」
埒が明かない。足を引っ張ってしまうなどと言いながら、自分の考えを曲げようともしない。時間の無駄、非効率。ならば先に進む為に今出来ることは……。クロードはいつものように頭の中で自動的に最適解を計算し始めた。——ここはこちらが一旦折れた方が良さそうだ。自分の理屈が通用しないことがわかれば、リナリアも納得するほかないだろう。それに……。
「……わかった」
「君の言う通りに魔法陣を描き直す」
リナリアが意外だとでも言うかのように目を丸くしてクロードを凝視する。
「……だがもしそれで上手くいかなかったら、元の魔法陣を使う。その時は、最初から最大量で臨め。遠慮はするな」
それに……。
俺自身も見てみたいのかもしれない。
リナリアの目に映る、非効率で無駄でノイズだらけの……ヴェールの向こうの世界を。
まったく不可解だが。




