最後のデート
一瞬の静けさの後、頭が真っ白になり――はっとした瞬間、驚くほどの騒音に包まれる。
喋り声と足音、それから、安っぽい響きの通りゃんせ。
閉じていた瞳を見開くと、そこは知らない街の交差点だった。
俺、どうしたんだっけ?
というか、ここはどこ?
キョロキョロと辺りを見回すけど、状況を把握することはできない。
人の波に押されるまま、横断歩道を渡り切った瞬間、
「椿?」
目の前にあるバス停のベンチに座っているのは、愛しい恋人。
大好きな黒髪は何故だか短くなっていて、何だか若々しく感じるけど、見間違うはずがない。
ピンクのヘッドホンを耳に着けて、ご機嫌そうにふんふんと鼻歌を……って、え?
「ちょ、椿! 歌えるの?」
思わず駆け寄り肩を掴んでそう言うと、椿は驚いたように俺を見て、
「え!」
と、真っ赤な顔で叫んだ後、怪訝そうな顔になった。
「どうして、私の名前?」
「何言ってんの? それに髪切った? 俺、結構、椿の長い髪好きだったんだけど」
「……ロングにしてたの、小一の時までなんですけど、その時に会ってました?」
窺うように俺を見る椿を見て、思わず黙り込む。
フラッシュバックのように、さっきまでの出来事が頭に浮かんだのだ。
そうだ。俺は今まで、パワースポットらしい神社にいた。
――雪。彼女の弟が死んだあの事件を、なかったことにする。
突然現れた不思議な少女に、椿が幸せになる方法を尋ねられ、こう答えたのだ。
――いってらっしゃい。
去り際に見た、あの妖艶な笑顔。
そして、暗転。
見知らぬ街。
出会った椿。
ご機嫌な鼻歌。
小一以来、髪を伸ばしていないという言葉。
何より、俺を知らないこと。
「どうしたんですか?」
心配そうに尋ねてきた椿に、俺は恐る恐るこう質問した。
「……ごめん、今日って、何年の何月何日だっけ?」
椿はきょとんとした顔で俺を見つめ、それから訝しげに口にする。
「×××年の、三月十日ですけど……」
告げられたのは三年前、雪が死んだ年。
やはり、俺は過去に飛ばされたのだ。
元気そうな椿の様子から察するに、おそらく雪はまだ無事なのだろうが、いつそれが起こったとしてもおかしくない。
これから俺はどんな手段を使っても、雪を止めなければならない。
猶予はどのくらいあるのだろう?
雪が死んだ正確な日付を聞いておけばよかった、そんな後悔が浮かぶけど、今更思ってもどうしようもない。
「あの、大丈夫ですか?」
いきなり黙り込んだ俺のことが心配になったのか、椿が顔を覗き込む。
突然現れた、初対面なのにどうしてか名前を知っている親しげな男、今の椿からしてみれば、どこからどう見ても不審者なのに、優しいものだ。
無防備なほどの純真な優しさは、恋人として愛していたところの一つだ。……傍にいて、ずっと守っていきたいと思っていた。
だけど、もうできない。
雪を救えば、椿と俺が出会うことはないのだから。
でもそれでも椿を救うと、俺は既に決めている。
溢れるほどの愛おしさと、同じくらいの切なさが湧き上がる。
小さく深呼吸すると、作り慣れた如才ない笑顔――患者さんと打ち解けるために鍛えぬいた、好感度の高い表情だ――を張り付けた。
「雪のことなんだけどさ……」
「あなた、雪の知り合いだったんですか?」
椿は驚いたように言うと、少しだけ、何かを考え込むような顔になる。
そうだよね、明らかに不審者だもんね、俺。
「雪と知り合ったのは最近なんだけど、何だか意気投合して、急激に仲良くなったんだよね。で、その、君のことは雪からよく聞いてたから、何だか知ってる気になっちゃって……」
言い訳のように口にしていると、椿の顔が徐々に綻んでいく。
「馴れ馴れしくて、ごめんね」
「全然いいですよ。雪の親しい方なら、むしろ大歓迎です!」
椿はそう言って、ついに満面の笑みを作った。
良かった。警戒が解けたみたいだ。
今の状況を鑑みればありがたいことではあるのだけど、椿の今後を考えると複雑な気持ちになって、思わずため息がこぼれそうになる。
「雪から聞いたんだけど、今度、一緒にドライブするんだって?」
「今度っていうか、今日ですね。これから、雪と待ち合わせなんです」
「え!」
よりによって、当日?
キャンセルしてもらおうにも、どうしたらいいのかわからない。
状況を説明しても信じてもらえるはずはないし、椿はどんな言葉で言いくるめたとしても大事な雪との約束をドタキャンするような女の子じゃない。
それなら――
「ね、椿……ちゃん」
「何ですか?」
「俺、雪から話を聞くうちに君のことが好きになっちゃって……」
「……え、それって……告白ですか?」
椿の顔が真っ赤に染まる。
こんな状況だというのに、新鮮な反応にきゅんときて、このまま本当に告白してしまいたくなってしまう。
……だけど、だめだ。
俺は椿を幸せにする、そう決めてここに来たんだから。
甘い誘惑を振り切って、首を横に振る。
「そうしたい気持ちは山々なんだけど、来週からイギリスに留学することになってるんだ。だから、最後にどうしても思い出がほしくて……今日一日だけ、俺に付き合ってくれない?」
「は?」
椿はさっきまでの乙女な表情を一変させ、怪訝な顔で俺を見る。
「今から雪とドライブって言いましたよね?」
「知ってる。だけど、俺には今日しかないんだ。雪の予定をキャンセルしてほしい。変なこととかしないし、ただこう、軽めのデート的なことしてくれるだけで良いから。……あ、不安だったら、免許書とか保険証とか身分を証明するあれこれ全部差し出してもいいよ」
ポケットの中にあった財布を差し出すと、椿はいらない、と手で制す。
「必要ないし、そもそも無理です」
わかってる。
だけど俺には奥の手があった。
「子守唄、探してるんでしょ? 付き合ってくれたら、今ここで歌ってあげる」
椿はこの歌を聞いた時「何年探しても、手掛かりすら見つけられなかった」と言っていた。
つまり今目の前にいる彼女は必死になって子守唄を探している最中ってことだ。
雪とのドライブはいつでもいける。――少なくとも今、彼女はそう思っている。
対して、今日を逃せば、俺から手がかりは得られない。
だとすれば、椿が取る選択は決まっている。
「……本当に、知ってるんですか……どうして……」
椿の掠れた声に、彼女が今、心の底から驚いていることがわかる。
そういえば、あの歌が彼女にとってどんな意味を持つのか、まだ教えてもらっていない。きっと、もう二度とその理由を知ることはない。
だけどそれでいい。
椿が今ここで頷いてくれるなら、あの歌は確かに「運命の子守唄」だったのだ。
「雪から聞いたんだ。それで、ちょっとした偶然があって、知ることができて……あ、もちろん雪にも教えてないから、彼から聞こうとしても無駄だよ」
椿は俺を見つめた後、小さく頷いた。
「……わかりました。付き合います」
「ありがとう」
「雪に連絡しても構いませんよね?」
「もちろん。ただ、俺のことは伏せてほしいんだ。その、雪が楽しみにしてたの知ってるからさ、怒られたくなくて……俺が日本を発ったら、ばらしてくれていい」
「もう」
困ったな、という風に笑うと、椿はポケットから携帯を取り出し、画面をタップする。
そのまま耳に押し当てて、
「ゆーき、あのね、申し訳ないんだけど……今日、行けなくなっちゃったんだ。――ううん、体調が悪いとかじゃない。あのね、例の子守唄の手がかりが掴めそうで……えっと、友達が知ってるかもなの。それで、どうしても今日じゃなきゃだめらしくて……うう、本当にごめん!」
最後に「ありがとう。また連絡するね」と優しい声で告げて、椿は携帯を再びポケットにしまう。
「これでいいですか?」
「ありがとう。……ごめんね、じゃあ、子守唄だけど……」
歌おうと口を開きかけたところで、とんでもないことを思い出した。
椿は例の事故を、雪が心中を望んだからだと推測していた。
もしそれが本当だとしたら、今回事故を避けることができても、雪は別の方法で心中を試みるかもしれない。
そんな男に、本当に椿を託すのか?
それなら、俺の方が――
一瞬、頭の中に浮かんだ疑問は、頭を振ってかき消した。
椿を利用していたのかもしれない俺が思っていいことじゃない。
どんな事情があったかは知らないが、椿が向き合えば、雪はきっと考えを改めてくれるだろう。
となると、雪と二人でしっかり話し合うよう、デート中に椿を説得しなければ。
「どうかしたんですか? あなた……って、そういえば名前、聞いてませんでした」
「あ、えーっと……侑吾」
本名を教えていいものか、少しだけ考えたけど、この世界で俺と彼女が遭遇する可能性はゼロに近いからいいだろう。それでも何となく気になってしまったから、あえて名前だけを伝える。
「じゃあ、侑吾さんって呼んだらいいですか?」
「……君さえ良ければなんだけど……侑ちゃんって呼んでくれない?」
「……」
うわー、絶対に癖を押し付けてるって思われてる。
気まずい沈黙の後、「ごめん」と謝ると、椿はぷっと噴き出した。
「いや、別にいいですよ。侑ちゃん」
その声の感じが、恋人だった椿のままで、思わず泣き出しそうになった。
「ありがとう。そ、それじゃあ歌うね」
これ以上気持ち悪い男だと思われたくなくて、しんみりしてしまっていたのを慌てて誤魔化す。
上手いとは言えない歌声でメロディを紡ぐと、椿はぽかんと口を開けた。
「あの歌だ」
呆然と呟くと、椿ははっとしたように笑顔を作る。
「っ、ありがとうございます……ちゃんと、歌いたかったんです。でも、どうしても歌詞を思い出せなくて……」
「お役に立てたなら、何より」
「歌ってもいいですか?」
「うん、どうぞ」
頷くと、椿は息を吸って――
「寝んねよ 寝んね。大好きなあなた。何が怖いのどうしたの? 大丈夫、ちゃあんとおばけを食べたでしょう? 寒い寒い如月に、おじさん海から取ってきた。母さん捌いてむしゃむしゃ食べた。だからあなたは大丈夫、私の腕でお休みなさい」
――雪が降った。
そして、それに気づいたのは俺だけじゃなかった。
そう大きくない歌声、しかも歌っているのはわけがわからない変な歌詞の子守唄だというのに、周囲の数人が驚いたようにこちらを見た。
椿はその視線に気づいていないようで、俺だけを見て小さく笑う。
「ふふ、雪に早く聞かせてあげたいな」
声が出なかった。
何のしがらみもなく歌を歌っている椿は、思っていた以上に幸せそうだったから。
この笑顔を見ることができて、本当に良かった。
しみじみと思っていると、椿が首を傾げる。
「侑ちゃん?」
「……あ、うん、俺とのデートの後に歌ってあげて」
「はい。それで、どこ行きます?」




