つくづく思う
一ノ瀬侑吾、二四歳、研修医。
つくづく思う、俺はこの仕事に向いてない。
ついさっき、担当している患者さんの親族から罵倒された。
彼らから提案された治療プランを却下したのがその理由らしいけど、どう考えても仕方がないと思う。だって、渡された分厚い書類は意味不明、見せられた薬は誰がどう見てもビタミン剤でしかなかった。エビデンスも何もない液体を摂取し、あとは神に祈るという、怪しすぎる団体の怪しすぎる治療法を受け入れるわけにはいかないのだ。
どう考えても患者さんのためにならない。
なのに、親族はそれを受け入れない。
どうしろって言うんだよ、ああもう、休み時間までもやもやしっぱなしだし、頭が痛いし、何だよこれもうやってらんない。
パワースポット、行きたい!
ため息を吐きそうになったちょうどのタイミングで、ポケットの中の携帯が震えた。
携帯を取り出し画面をタップして、目を見張る。
「よし」
姿勢を正すと、作りなれた如才ない笑顔を顔に張り付けて、俺は速足で歩き始める。
細長い廊下をひたすら突き進み、ほこりの溜まったコンクリートの階段を駆け上がると、屋上に通じる強化ガラスの扉を開いた。
「……」
音がしないようにそっと扉を閉めて、先客の女の子が歌う歌にひたすら耳を澄ませる。
澄んだ歌声で紡がれるのは、雪のような歌だ。
さらさらと舞う粉雪。
心の中にひらりひらりと落ちてきて、その美しさに見とれているうちに、煩わしいゴミたち――迷いや悩み、悲しみやイライラ、全ての負の感情を、だ――を取り払ってくれる白い魔法。
美しい歌声に浸っているうちに、抱えていたもやもやは吹き飛んで、前向きになれる。
歌が終わるのと同時に、ぱちぱち、と拍手をする。
彼女は勢いよく振り返って……
「侑ちゃん!」
弾んだ声でそう言って駆け寄ってくる、その可愛くて可愛くて最高に可愛い女の子は、俺の恋人の椿だ。
「大丈夫? 仕事中じゃないの?」
「うん、ちょうど休み時間になったから」
俺と椿が出会ったのは、三か月ほど前。
彼女は俺が担当だった患者さん、ギンさんの孫で、弟だという雪くんと一緒に、病室にお見舞いにきていた。何やら複雑な事情があり、椿たちとギンさんはその時が初対面だったらしいのだけど、俺はちょうどのタイミングでその場に居合わせたのだ。
はっきり言って、一目ぼれだった。
初めて会った瞬間、椿のことしか考えられなくなって、彼女がどんな性格だったとしても、多額の借金を背負っていても、彼氏がいたとしても、好きでい続けてしまう、そして死ぬまで諦められない自信があった。
恋愛経験はそれなりにあったけど、今までは割と淡泊な方だったから、ああ、これが恋ってやつなのか、と目から鱗が落ちるような心地になって、同時に全身を巡る血液が煮えたぎったように熱くなって、これまた同時に昔見たあの映画のあの主人公の行動はこういう感情に基づくものだったのか、と頭の片隅で妙に冷静に思ったりした。
元々ギンさんとは親しくしていたから、面会に来る椿ともすぐに打ち解けた。
話も弾んだし、悪印象は抱かれていない自信はあったけど、どうしてもその先――具体的に言うと、デートにはなかなか誘えなかった。
だって、その気がないのに、祖母の担当医が口説いてきたら、めちゃくちゃ嫌じゃない?
普通に大問題だと思うし、一線引いた付き合い以上のことを求めるなんて、常識外れだ。
どうしても一歩を踏み出せない俺が椿と付き合えたのは、彼女のおかげだった。
そう、あれは何がきっかけかは忘れたけど、魚の話になった時、どうにか会話を広げようと、小学生時代に覚えた知識を披露していたら……
――先生って、すごくお魚に詳しいんですね。水族館とか得意ですか?
――うん、もともと水族館で蓄えた知識だしね。近くの水族館ならガイドできるよ。
――ふふ、楽しそう。
――椿ちゃんって、水族館、好き?
――はい、スナメリが特に好きなんです。
――ああ、うん。数駅行ったとこにあるよね。スナメリのいる水族館。
――えーっと、その……行きません? 一緒に。良ければ。
――行く! ぜひ! 行きたいです、その……誘ってくれて、ありがとう。
ああ、思い返すたび恥ずかしくなるというか、申し訳なくなる。あの会話の流れで椿に誘わせるとか、どれだけチキンなんだ俺。
まあとにかく、初めのデートは見事成功して――好きでもないのに魚の知識を詰め込んだ小学生時代の自分に感謝して、頑張ったことって無駄にはならないんだなあ、なんて悟りを得た――次のデートは俺から誘った。
三回目のデートで告白して、恋人になった。
すでにこれ以上ないってくらい惚れ抜いていたのに、椿が歌うのを聞いたら、簡単に限界突破した。音楽が好きな俺にとって、愛しい人が歌う素晴らしすぎる歌は、恐ろしいほどの破壊力だったのだ。
「……椿の歌が聞けて良かった」
「わざわざここで聞かなくても、いつも聞いてるでしょ?」
「そうだけど、青空の下で聞くと感慨もひとしおっていうか……それに、できるなら一回たりとも聞き逃したくないんだよ。だって、毎回毎回、違う魅力があるし、いつ聞いても最高だから」
熱っぽく口にすると、椿ははにかむ。
「ありがとう……帰ったら、侑ちゃんのために、侑ちゃんが好きな歌、歌うね」
「椿の歌を独り占めできるとか、夢みたいだ。……でも、少しだけ勿体ないとも思うんだよね。俺だけが聞いてていいのかなって。全人類に聞かせたいくらい、魅力的な歌だからさ」
長い髪の毛を手に取ると、椿は照れたように視線を彷徨わせ、ぷいと横を向いた。
「いくらなんでも、大げさすぎるよ。彼女馬鹿だよね、侑ちゃんって」
「大げさじゃないよ。椿の歌はプロ級……いや、俺はプロより上手いって思ってるし。ね、歌手になったりしないの?」
「しないよ。私は、大事な人のために歌うのが好きなの。それが幸せなの。――前にも言ったでしょ?」
椿は笑顔でそう言ったけど、大きな瞳は少しだけ寂しげだ。
前にこの話をした時に聞いたのだけど、昔、椿が家族のように思っていた男性が、自称ファンに刺されて死亡するという事件があったらしい。
椿はその出来事をきっかけに自分を見つめ直し、自分自身と、身近にいる大事な人のためだけに歌うと決めたそうだ。
才能がない俺としては、歌が好きなら、歌で生きていく方が幸せなんじゃないかって思うんだけど……まあ、椿が決めたことに口出しする権利はない。
「……そうだね。ごめん」
「どうして謝るの? 褒めてくれてるんでしょ?」
近づいてきた顔に自分の顔を寄せて、こつんと額を合わせる。
「褒めてる。俺の彼女は最高に歌が上手いし、最高に性格が良いし、最高に可愛い……だから、俺は今、世界一幸せ」
「ふふ、大げさ」
椿は明るい声で笑うと、「そうそう」と思い出したように言いながら顔を離し、鞄の中をごそごそと探る。
「侑ちゃん、これ、雪からの差し入れ」
「わ、おにぎり。すごく美味そう」
椿の弟である雪からは、出会った当初はあからさまに警戒されていた。だけど椿のフォローも会って次第に打ち解け、今では椿抜きで遊ぶくらいの親しい仲になっている。雪は家庭料理に飢えている俺を気遣って、こうして手作りの料理を作ってくれるのだ。
「えーっと、何だったかな。確か……新潟の郷土料理で、けんさん焼き、です!」
「美味しそう……早速いただこうかな。というか、お礼言いたい。休憩終わる前に、雪と会えるといいんだけど」
「……」
「ん、椿、どうかした?」
視線を感じて尋ねると、椿が拗ねたように言う。
「私も差し入れすれば良かったなあって思って……まあ、何でも焦がしちゃう私と料理上手な雪だったら、どう考えても雪の方が適任なんだけど……でも彼女は私だし」
「気持ちだけでも嬉しいし、作ってくれるなら焦げてても何でも喜んで食べるけど……差し入れ、もうもらってる気がする」
「え?」
きょとんとしている椿をじっと見つめて、口を開く。
「食事が体を満たしてくれるみたいに、椿の歌は俺の心を満たしてくれるから。何ていうか、特製の栄養剤、って感じで、差し入れ以上の差し入れっていうか……とにかく、ありがとう」
にこりと笑うと、椿は嬉しそうに口元を緩ませた。
*
「ねえ、侑ちゃん、志島神社って知ってる? この近くにあるんだけど」
椿がそう言ったのは、病院で会った日の翌日のこと。
俺の仕事も椿の大学も休みだったから、家に遊びに来てくれたのだ。




