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スノーカメリア  作者: 古浜夕
有佐椿
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36/38

もう二度と会うことはない彼

「わかんない……三杯までは覚えてるけど。雪は?」

「僕はちゃんと一杯だけ。もう、志賀さんに怒られても知らないからね」

 雪は大きなため息を吐くと、私をじっと見る。

「そこのコンビニで水買ってくるから、座ってて」

「お尻が痛いよう」

「立っててもいいし、座る場所変えてもいいから。とにかく、公園内にいるように。わかった?」

「はーい」

 立ち上がって、寂しい公園をぐるりと見渡していると、ざわざわとした街の喧騒に混じって、音楽が聞こえた。

 公園の奥、私たちが通ってきたのとは逆の路地で、誰かが歌っているようだ。

ギターと人の声、ストリートミュージシャンかな。

 引き寄せられるように近づいて、しばらくの間、彼の歌に聞き入った。

 背後にある公園の中から見つめる私には気づいていないようで、彼が後ろを気にする様子はない。

 彼はただ前方を見つめて歌っているけど、誰も足を止めない。それどころか、彼を見て嘲笑したり、「あんなんでよく歌えるなあ」と話している人もいる。

 それでも彼は、必死に歌い続ける。

 確かに彼の歌は上手いとは言えず、むしろ下手と言ってもいいような、稚拙な歌だ。

 けれど、彼が一生懸命なこと、そして歌への溢れるほどの愛情はひしひしと伝わってきた。

たまらず自分も歌ってしまいたくなるような、そんな歌だ。

 好きだな、と私はそう思った。

 上手いばかりが歌じゃない。

 私の心には確かに響く。

 それで十分だ。

 一曲を歌い終えた後、ぱちぱち、と拍手をすると、彼は驚いたように振り返った。

「え、え……?」

 暗くて彼の顔は見えないけれど、驚いているのはわかる。

 当然だよね。後ろから突然現れて、拍手する女なんて、お化けかもって思われてもおかしくない。

「かん、そこの缶、取って下さーい」

 我ながら酔っ払い丸出しの声でそう言うと、彼はギターケースの中に置いていたらしい缶――何も入っていなかったけど、おそらくお金を入れる用のもの――を手に取り、私に差し出した。

 私は鞄の中から財布を取り出すと、ひっくり返して小銭を全部中に入れる。

「い、いいんですか? 俺の歌に、金なんて……」

「最高でしたから」

「本当に?」

「はい!」

 頷くと、彼は私に一歩近づいた。

「ありがとうございます! 本当に本当に、一生かけてありがとう言い続けたいくらいに、感謝してます!」

 弾んだ声で言われて、思わず後ずさる。

「そ、そんなに……」

「いや、あなたは俺の希望です。初めてなんです、好きって言ってもらえたの! 今まで歌で褒められたことなくて、むしろ罵倒されたり蔑まれたり睨まれたりで、正直、俺の歌って人に害を与えるものかもって、心が折れかけていたんです。でも、あなたのおかげで、まだ続けられそうです」

 彼はそこで我に返ったように黙り込み、気まずそうに頭を掻いた。

「すみません、テンション上がってしまって……」

「ふふ、続けてくださいね、歌。私、すっかりファンになっちゃいましたから。いつかどこかで、また聞けると嬉しいです」

「フ、ファン……っ、本当にありがとうございます。今後歌う時はあなたを思って歌いますね」

 その言葉を理解するのに数秒かかって、それから顔に熱が集まってくる。

 だって、何だか告白されてるみたいじゃない?

 いや、酔ってるからかな、酔ってるから変な勘違いしちゃってるのかな。

「……」

「あ、ああ、違うんです! 人混みの中にあなたがいるかもって思えば、それであなたが喜んでくれてるかもって思えば、心が強くいられますから」

 彼はぶんぶんと首を振り、言い訳するように言った。

 相変わらず顔は見えないけど、照れているのが伝わってきて、何だかおかしい。

「ふふ、そうなんですね。そうだったんだ……へえ」

 というか、彼だけじゃなくて私もおかしい。

 勘違いしたのが恥ずかしくて、少しだけほっとして、だけど残念なような気もして。

 顔が、とてつもなく熱い。

 酔ってるからという以外の理由もありそうな気がする。

「そう、そうなんです。とにかく、あなたに届けたいって、そういう気持ちで歌うことにします」

 彼はこほんと咳をして、笑った、ような気がした。

 その笑顔をちゃんと見たくて、さっき自分で言ったファンになったっていうのは何の誇張でもなく本心だったと気づいた。

 また、会いたい。

 今度はちゃんと顔の見える場所で、今みたいにお喋りとかして、一緒に歌ったりなんかもして、そうしたら、何かが芽生えちゃうかもしれない。

 何かって何だろう? 

 でも、今までずっと心の中でもやもやし続けてきたもの、いくら考えても答えが見つからなくて夜中に眠れなくなっていた「それ」がわかるかもしれない。

 今度一緒に歌いませんか?

 そう誘ったら不自然かな。

 次はどこで歌うんですか?

 そっちの方がいいかな。

 あれこれ考えていたら、はち切れそうになっていた胸がなんだか気持ち悪くなってきて……

「ううっ」

 思わずしゃがみ込んで、口を押える。

 やばい。

 やばいやばいやばい。

「大丈夫ですか?」

「っ」

 口から生暖かいものが噴き出た。

 はっきりと言えば、戻した。

 嘔吐した。

 芽生えかけていたものが一瞬で消え失せて、心が無になった。

 最悪だ。

「わっ! そんなところで何してるのさ! というか、大丈夫!?」

 背後から雪の声が聞こえた。

「……すみません、この子、酔ってて。絡んでましたよね」

 駆けつけてくれたらしい雪は私の背中を摩りながら、申し訳なさそうな声でストリートミュージシャンの彼に謝っている。

「えっと、いえ、絡まれたってわけじゃ……」

「本当にすみません。ほら、ちゃんと謝って――」

 軽く背中を叩かれて、慌てて頭を下げる。

「す、すみません……」

「いえ、大丈夫です。気にしないでください」

 優しい声でそう言ってくれる彼に何度も頭を下げた後、私と雪はそそくさとその場を立ち去った。

 公園を出たタイミングで後ろを振り返ると、彼はさっきとは別の歌――やっぱり上手いとは言えずだけど熱っぽい、好きだと思える歌だった――を歌っていた。

 彼の顔は最後まで見えなかった。

 ああ、せっかく会えたのに。

 もう少し一緒にいられたら、何かが芽生えそうだったのに。

 あんな別れ方をして、もう彼に合わせる顔がない。

 会う機会もないけど。

 お酒なんて飲まなければ良かったな。

 でもお酒を飲まなかったら、公園に立ち止まることもなかったし、そもそも会えなかったのか。

 じゃあ、会えて、少しだけでもお喋りできた今の方がまだ良かったのかも。

 いや、良いわけないよ。だって、嘔吐したとこ見られたんだよ? 絶対に引かれてるでしょ。引かれるくらいなら、会わない方がましでしょ。

 えーと、ああ、どっちだろう?

 どっちでもいいか。

 とにかく、これで彼とはさよならだ。

「椿、大丈夫?」

「大丈夫じゃないかも」 

 小さく息を吐いて、彼と交えた少ない会話を思い出す。

 ――今後歌う時はあなたを思って歌いますね。

 ――え?

 ――あ、ああ、違うんです! 人混みの中にあなたがいるかもって思えば、それであなたが喜んでくれてるかもって思えば、心が強くいられますから。

 ――ふふ、そうなんですね。そうだったんだ……へえ。

 ――そう、そうなんです。とにかく、あなたに届けたいって、そういう気持ちで歌うことにします。

 最悪な女って思われたに違いないけど、彼は私に歌を届けたいと、思ってくれるかな?

 ん?

 引っかかるものがあって、頭の中で彼の言葉をもう一度繰り返す。


 ――とにかく、あなたに届けたいって、そういう気持ちで歌うことにします。


 ああ。

 ああ、わかった。

 そういうことか!

「雪!」

「わ、何さ」

 思ったより大きな声が出て、隣の雪がびくりと肩を振るわせる。

「私、わかったかも」

「何を?」

「お母さんが歌手になった理由」

「え?」

 雪はぴたりと立ち止まり、驚いた顔で振り向いた。

「お母さん、自分を産んでくれた実の母親に、歌を届けたかったんだよ」

 ――潤ちゃんはお母さんに歌を聞いてもらうのが大好きだった。そしてお母さんも、潤ちゃんの歌を聞くのが大好きだったの。この子の歌をこうして聞けるのは母親の特権だって、ずっとずっと聞いていたいって笑ってたわ。

 ずっと聞いていたい。

 母はきっと、実母のその願いを叶えたかったのだ。

 だけど、実母の行方は知れず、どこにいるのかわからない。

 だから歌手になりたいと思った。

 歌手になって、大勢に届ければ、その中に実母がいるかもしれないから。

「……お母さんらしいね」

 ぽつりと呟いた雪は、母そっくりの柔らかな笑みを浮かべていた。

「うん、私もそう思う」

 頷いて、私は先ほどより軽い足取りで歩き始める。

「待ってよ、椿。スキップは危なくない? 酔いはもう回ってないの?」

「大丈夫。吐いたからか、スッキリした」

「もう……反省しなよ。僕ならまだしも、無関係の人に迷惑かけてるんだからね」

「してるよ。本当に最悪だった。……今後一生、お酒は一杯までにする。志賀さんの言いつけは絶対に破らない」

 真面目な声でそう誓うと、雪がぽんと肩を叩いてくれる。

「ねえ、雪、私……歌手にはならない。スカウトは断ろうと思う」

「いいの?」

「うん」

 私はにっこり笑って雪を見る。

「お母さんは、歌を届けたい人がどこにいるかわからないから、歌手になった。でも私が届けたい人はみんな、近くにいる」

 雪。

 サークルの先輩たち。

 母と志賀さんも、きっと近くにいてくれる。 

 だから――

「私の歌、これからも聞いてね。それが私の幸せだから」

 彼――もう二度と会うことはないだろう彼。

 名前も知らず、顔さえわからないあなた。

 あなたの言葉がきっかけで、母の心が少しだけわかりました。

 そしてそれは、私の未来を決めました。

 あなたとの間に何かが芽生えることはなかったけど……私は最悪な女でしかなかったかもしれないけど……でも、私にとってあなたはきっと、運命の人でした。

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