恩は売る主義
ここ数年繰り返している問いの答えは、今日もまた見つけられそうにない。
「その時、部長のことを思い出しました。部長の名前と、料理関連のサークルだってことは覚えてたので、大学のサークル情報をネットで探して、郷土料理研究会を見つけたんです」
「そうだったんだ。……実は少し変だなって思ってたんだよね。うち、勧誘もほとんどしてないし、二年生三人だけの極小サークルだったからさ」
「郷土料理っていう言葉に惹かれたのもあるけど、私にとっては部長ともっと話したいっていうのが一番の目的でした。だからこうして仲良くしてもらえて、すごく嬉しいんです」
「私も椿ちゃんと仲良くなれて、すごく嬉しいよ。これからもよろしくねぇ」
「はい!」
その後も私と部長は他愛のないお喋りをしながら、のんびりとみんなのもとまで歩いた。
「それでは、今日の昼から夜にかけては自由行動でーす! 好きなことを好きなように調べて、楽しんでください。あ、明日の朝にはちゃんと旅館に戻って来ててね。それでは解散!」
芝生広場に戻った後、部長はパンと手を叩き、瞬く間にその場を去って行った。先程聞いた話によると、フェリーで巌流島に行くらしい。
「じゃあ、俺も行くね。関門海峡渡って北九州に行く予定なんだ」
「私も同じ。途中まで一緒行こっか」
須中先輩と長崎先輩もそう言って、歩き始める。
この「自由行動」はサークル旅行では恒例のひと時だから、みんな前もってやることを決めてくる。
雪と私も、母の故郷であるこの土地を満喫する、と決めていたのだけど……
「ねえ、椿、何する?」
「何しよっか?」
具体的に何をどうすれば満喫できるのか、愚かな私たちは全く考えていなかった。
「とりあえず、街でも歩く?」
山口に来るのは初めてだ。きっと街を歩くだけでも楽しいだろう。
そんな予想の通り、海沿いから離れて街の方まで歩くと、立ち並ぶレトロな建物に心が湧き立った。
「へえ、これ、郵便局なんだ。普通に開いてる」
「普段使う郵便局がここだったら、テンション上がりっぱなしだね」
街中は市場に比べると観光客は多くなく、地元民の穏やかな生活が感じられる。
歴史ある建物とよくある近代的なスーパー、どちらともが風景にすっかり馴染んでいた。
「お母さんも、ここ、使ったことがあるのかな?」
「暮らしてたの、小さい時だけだろうからなあ。でも、立ち寄ったことくらいはあるかも」
そこにいたかもしれない母に思いを馳せながら、自然と鼻歌を歌ってしまう。
「寝んねよ 寝んね。大好きなあなた。何が怖いのどうしたの? 大丈夫、ちゃあんとおばけを食べたでしょう? 寒い寒い如月に、おじさん海から取ってきた。母さん捌いてむしゃむしゃ食べた。だからあなたは大丈夫、私の腕でお休みなさい」
気づけば隣を歩く雪も、普段は絶対にやらないハミングをしていた。
ああ、この場所に来ることができて、本当に良かった、そんなことを思った時――
「あの、あなた……三上さんのご親戚?」
声を掛けられ顔を向けると、そこには見知らぬ老年の女性が経っていた。
「三上、ですか?」
尋ね返すと、女性は恐縮したように「ごめんね」と謝る。
「今、歌ってた歌に聞き覚えがあったものだから……それに、お顔もそっくりで……」
ちらりと雪に視線を送る女性を見て、はっとした。
「それ、もしかして、潤って女の子ですか?」
恐る恐る尋ねると、女性は大きく頷く。
「そうそう、潤ちゃんとそのお母さん。……有名になってしまったけど、昔はこの辺りに住んでたのよ。やっぱりご親戚?」
子どもです、と言おうとして、母がそれを公表していないのを思い出し、言葉を変える。
「はい、親戚です」
女性は懐かしそうに目を細め、「そう、そうなの」と頷いた後、我に返ったように「ごめんね」と謝った。
「昔馴染みだったものだから、嬉しくて。立ち止まらせて悪かったわ。じゃあもう、私行くわね」
「あの、待ってください! 良かったら、少しお話を聞かせてくださいませんか?」
踵を返そうとした女性を雪が引き留め、私も同意する。
「おかあ……いえ、潤さんとそのお母さんのこと、知りたいんです。二人とももう他界していて、ですが私たちにとっては大事な人で……」
熱意が伝わったのかはわからないが、女性はにこりと微笑んで、頷いてくれた。
「もちろんいいわよ。二人とは仲良くさせてもらってたから。思い出話ならいくらでもできるわ」
女性の名前は新垣さん、かつて母たちの隣に住んでいたらしい。
彼女は近くの自宅に私たちを招き、珈琲と和菓子でもてなしてくれた。
お礼を言って珈琲に口をつけると、新垣さんは満足げに笑って、ゆっくりと話し始める。
「潤ちゃんとお母さんはとっても仲の良い母子だったわ」
娘が可愛くて仕方がない母親と、ママっ子でいつもぴったりと引っ付いている娘、手を繋いで買い物をし、公園でたっぷり遊んで、たまの休みには海に出かける。
普通の、ありふれた、だけどとっておきの幸せを満喫する母子――新垣さんが語ったのは、大抵はそんな話だったけど、中には少し変わった、いかにも母らしいエピソードもあった。
「潤ちゃんはね、小さい頃から歌が大好きだったの。当時はあんなに有名になるなんて思っていなかったけど、『歌手になれるよ』って本気で言っちゃうくらい素敵な声をしていて……いつも歌っていたわ。お母さんが働いている間、潤ちゃんは預けられていたんだけど、その報告、どんなことがあったのか、どんな気持ちになったのか、それも歌って教えていたらしいのよ」
当時を思い出したのか、女性がふふっと笑い、雪が「何となく想像できます」と、私を見た。
温かなその視線は「椿にそっくりだね」と告げている。
まあ確かに、喋るより先に歌ってしまうその気持ちが、私にはよくわかる。
「潤ちゃんはお母さんに歌を聞いてもらうのが大好きだった。そしてお母さんも、潤ちゃんの歌を聞くのが大好きだったの。この子の歌をこうして聞けるのは母親の特権だって、この子が大人になってもずっとずっと聞いていたいって笑ってたわ」
それを聞いて、今度は祖母の方に共感してしまう。
母の歌を聞けるのは、私たちにとって、子どもの特権だったから。
ずっとずっと聞いていたい、私たちもそう思っていた。
「ああ、こうして話していると、当時を思い出すわ。まだまだ話したいことがあって――」
その後、日が暮れるまで母たちの話を聞いてから、新垣さんの家を出た。
先輩たちが待つ旅館に向かう間、私と雪はオレンジ色の電灯が照らす薄暗い街を、手を繋いで歩く。
「この街のことを知りたいってだけだったのに、思わぬ収穫だったね」
シャッターが下り始めた商店街を眺めながら、雪が呟く。
「うん。お母さんの子どもの頃なんて、きっと志賀さんも知らないよ」
「だろうね」
雪はそこで言葉を切ってから、ちらりと私を見る。
「だから、帰ったら……話に行こうかな。会って、お土産を渡して、母さんの話をする」
母に似た優しい瞳は切なげではあるけど、穏やかで、確かな光が宿っている。
雪は今まで、どんな顔をして志賀さんと会えばいいのかわからず、あの場所に行けなかったのだと思う。
だけど、志賀さんが私たちの幸せを願っていることを知った。サークル旅行で本気で笑うことができた。
そんな前を向いている自分を見せたいと、雪は今、そう思っている。
私も同じで、今の自分たちを志賀さんに見せたい。
雪の気持ちは十分すぎるほどわかる。
「うん。行こう」
さりげなさを装って言ってから、私は笑みを作った。
「お土産、何にしよっか?」
「うーん、チョコレートは? 志賀さん、好きだったし。お酒のつまみにしてたから、ぴったりじゃない?」
「そうだね。駅で見たけど、夏ミカンチョコとかどう?」
「いいかも。マスターにも買ってこっか? 僕は久しぶりに会うし、手土産替わりに」
「うん。そうだね。マスターも甘党だし、喜ぶと思うよ」
繋いだを手をぶんぶん振ると、雪は応じるようにぎゅっと握った。
*
旅行から戻った翌日、私と雪はミュージックバーヨシカワに向かった。
事前に連絡すると、マスターは定休日にも関わらず、お店の中に私たちを入れてくれて、さらには特製カクテルまでご馳走してくれた。志賀さんの席にはいつも飲んでいた焼酎のロック、カウンターの上にお土産のチョコレートを広げると、マスターは「ごゆっくり」と言って、静かに席を外す。
マスターにお礼を言ってから、私たちは志賀さんに、旅行の話や母の過去を話した。
そのうちマスターが戻ってきて、お酒をさらに注いでくれる。
「マスターにとって志賀さんは、どんな人だったんですか?」
すでに少しだけ酔いが回っていた私が尋ねると、マスターは志賀さんの席に目を向け、ゆっくりと口を開く。
「……志賀くんは恩人だった。彼がいなきゃ、この店はとっくの昔に潰れてた。ちっとも客が入らない時代があったんだけどさ、その時、すでに常連だった彼は『薄め』で注文した酒を馬鹿みたいにたくさん飲んで、楽しんだからって色付けて支払ってくれて……ああ、いつか恩を返そうって思ってたのに、こんなに早くいなくなるなんてなあ」
独り言のようにマスターが呟くと、雪が同意するように頷く。
「志賀さんは僕たちにとっても恩人でした。恩返したいんですけど……もう、どうしてくれるんですか」
マスターが注いでくれたお酒をごくごくと飲むと、かっと顔が熱くなった。
志賀さんがかつて口にした、アルコールは一杯まで、を超えてしまったけれど、今日くらいは許してほしい。
大好きな志賀さんと久しぶりにお酒を飲んでいるのだから。
「志賀さん……『恩は返さなくてもいいって思いながら売る主義だ』って、そう言いましたよね。……でも、それならせめて、歌わせてください!」
立ち上がり、ふらふらとステージに向かうと、マイクは使わず大声で、志賀さんの好きだった母の歌を歌う。
マスターと雪が静かに瞳を閉じていた。
きっと、志賀さんを思っているのだろう。
歌い終わった後、ぱちぱち、と拍手が鳴った。
「……君の歌は、やっぱり大勢が聞くべき歌だよ……」
マスターがぽつりと言って、私は聞こえない振りをした。
だって、まだ決断できていない。
私がどうしたいのか、未だにわかっていないのだ。
いつかわかる日がくるのだろうか?
マスターに、門前さんに、そして雪と志賀さんに、自分の決断を告げることができるのだろうか?
答えはまだ、でない。
私は誤魔化すように笑って、一礼する。
「それでは、歌います。今日は志賀さんの好きな曲メドレーです」
*
バーを出た時には日が落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。
繁華街から家までの道のりをふらふらと歩いていると、雪が途中で私を公園に引っ張り、花壇の石垣に座らせる。
「椿……知らない間にどれだけ飲んだんだよ」




