きっかけは?
部長から声を掛けられてはっとする。
「歌、ですか?」
「うん、いつかこの時間を思い出したいなって時に、聞きたい! って思ったんだぁ」
思わずじんとくる。
部長も私と同じ気持ちで、今を幸せに思ってくれてるって、伝わってきたから。
「何の歌がいいですか?」
「うーんとね、海の歌がいいなあ」
「それじゃあ……」
海の歌、海の歌か……。
少しだけ考えて歌ったのは、昔から大好きだった海の映画の歌だった。
「Under the sea, under the sea
Darling, it’s better down where it’s wetter, take it from me
Up on the shore they work all day
Out in the sun they slave away
While we devoting full time to floating
Under the sea」
素晴らしいアンダーザシー!
ダーリン、私の言うことを信じて?
あっちじゃ働くだけ、朝から晩まで。
こっちじゃずっと遊んでラッキー!
アンダーザシー!
歌い終わると、大きな拍手が鳴った。
サークルのメンバーだけではなく、近くでお寿司を食べていた数人が私を見つめ、手を叩いてくれているのだ。
「声、大きすぎた?」
トーンを落として、近くにいた雪に尋ねると、雪は首を横に振る。
「大きくなかったよ。でも、椿の声ってよく通るし、人を惹きつけるんだよね。もっと聞きたいって思って、耳を澄ませちゃったんだと思う」
「うん、歌、すごく良かったよ」
「同感。なかなか味わい深い選曲だったしね」
長崎先輩が深く頷いた後、須中先輩が笑う。
「味わい深い……? 海の歌ですよ?」
「寿司食べた後の、魚視点の歌だったからね」
「あ、確かに……」
苦笑していると、部長が私にぎゅっと抱き着いた。
「思い出の曲になりましたぁ。ありがと!」
楽しげにそう言ってから、部長はすくと立ち上がる。
「どこか行くんですか?」
「うん、みんなはまだゆっくりしてるでしょ? 私、あっちの石碑を見てくる!」
「あの、私も行っていいですか」
そう尋ねると、部長は「もちろん」と頷き、すたすたと歩き出した。
「ありがとうございます。視線を感じて、何だか気まずくて」
「椿ちゃん、上手だったからねえ。近くの団体さん、プロかなぁって、噂してたよ」
のほほんと言いながら部長はずんずんと進み、海沿いの道を少し歩いて、お店が立ち並ぶ通りを過ぎた後、ようやくぴたりと足を止めた。
目の前には先ほど部長が言った通り、石碑がある。
「えーっと、ザビエル上陸記念碑……ザビエルってあのザビエルですよね? 教科書載ってる人」
「えーっと、想像してるの、おでこつるっぱげのおじさん?」
「は、はい……」
「じゃあ、せいかーい!」
部長は背伸びをして、私の頭をなでなでしてから、石碑について解説してくれる。
「ザビエルはね、九州から京都に行く途中で、下関に立ち寄ったんだって。一旦、大内義孝を訪ねてから、布教の許可をもらって、数か月間は山口で宣教活動をしたらしいよ」
「へえ、初めて知りました」
部長は携帯を取り出し写真を撮ってから、「行こっか」と再び歩き始める。
「部長って本当に物知りですよねえ」
「好奇心だけはあるから、知識は自然と溜まるの。だって、世の中面白いものばかりだもん!」
部長は心の底から嬉しそうに、にっこりと笑う。
「ふふ、部長がそういう人だから、私、このサークルに入りたかったんです」
「そうなの? 雪くんが郷土料理好きだからじゃなくて?」
「それもありますが……お料理サークルなら、たくさんあるでしょう? でも私は、部長のサークルが良いなって思ったんです」
実は、私が部長と初めて会ったのは、雪と一緒にサークル見学に行ったあの日ではない。
四月に参加した歌唱サークルの説明会で、私は部長に出会ったのだ。
*
大学に入学してすぐは、サークルの勧誘が頻繁に行われていた。
新入生と見るやチラシを手渡され、説明会に誘われる。
雪はどこにも所属しないだろうけど、私は何かに入りたい。
そう思って選んだのは、歌唱サークル「ビクトリア」だった。
説明会に行き、歓迎されて、体験会に参加した。ビクトリアは比較的大きなサークルで、私以外にも大勢の新入生が参加しているようだった。
先輩たちは新入生の対応に慣れているらしく、スライドで日々の活動やこれまでの功績がわかりやすく紹介された。その後はグループに分かれてーー「歌ってみよう」という名目のテストが行われた。
私のグループを担当してくれた先輩は、三年生の綺麗なお姉さんで、彼女は楽譜を配り、新入生を歌わせて、上手かった数人にだけ、愛想よく話しかけた。
自分が望まれざる客だと自覚した学生は自然と黙り込み、当然サークルには入らない。たぶん、そういう仕組みだったのだろう。
当時の私はそんなこと全く知らなかったのだけど、それでも私と、他の二人にだけ話しかける先輩に違和感を覚えていた。私を含めた三人には優しく教えてくれるのに、他の学生にはやけに素っ気ないのだ。すげない対応をされた学生は口数が少なくなり、居心地悪そうにしていたけど、中には全く気にも留めない者もいた。
初めに自己紹介したから、名前は知っていた。
基口日向さん、一年生ばかりのメンバーの中で、彼女だけは二年生だという。
背が低くて童顔で、その上舌足らずな喋り方だから、年上には見えない。
「ビクトリアって、サークル内でチーム作って活動するって聞きました。チーム作りって自由なんですか?」
「うん、まあね」
「私、初心者なんですけど、チームに入れますか? 上手くなれるように指導とかしてもらえたら、嬉しいんですが」
「……どうかなあ。元々上手ければ、すぐに決まるんだけどねえ」
冷笑と共に囁いたあまりに嫌味な先輩を見て、私は絶対にこのサークルに入らないことを決めたのだけど、嫌味を言われた張本人はあっけらかんとして笑っていた。
「あはは、じゃあ私は、決まらないかもしれませんねぇ! じゃあじゃあ、もし決まらなかったら、他のチームの見学とかできるんですか?」
「さあ」
「それじゃあ、他の人の歌を聞きながら、ここのサークル部屋でご飯食べたりすることって許されます?」
「はあ? 何言ってんの?」
何だか雲行きが怪しくなってきて、私を含めたグループのメンバーは体を小さくして成り行きを見守った。
「私、郷土料理研究会ってサークルにも入ってまして、というか、サークル長でして、食べ物と歌の関係にも興味があるんです! 食について調べている途中で知ったんですが、食が進む音楽、進まない音楽って言うものがあるらしく……音楽ってすごいなぁって、興味がむくむく湧いてしまって……」
「……」
「ですので、まず第一に歌いたいのですが、その次には歌と食の合わせ技で楽しむことができたら嬉しいなと。ああ、でもだめならもちろんやりません。すみません、私、興味があることは何でも挑戦したい性質なので――」
話し続ける基口さんの声を遮ったのは、うんざりしたような先輩の声だった。
「はっきり言うけど、あなたみたいな音痴は、うちのサークルにはいらないから」
きっぱり言われて、基口さんは肩を竦める。
「そうですか。歌というものに興味があったんですが……」
「無理。もう行きなよ」
先輩はため息交じりにそう言うと、視線を出口に向ける。
「はい」
基口さんは出口まで行くと、礼儀正しく一礼して、部屋を出た。
私は思わず後を追う。
「あの、私も行きます。サークルには入りません」
「ちょっと待って、あなたは……っ」
引き留める声が聞こえたけれど、そんなの構わない。
それより、基口さんはどうしているだろう?
ショックを受けているようには見えなかったけど、あんな対応をされて、何も思わないはずがない。深入りするのは苦手だけど、すぐ近くで傷ついた人を放っておけるほど、薄情にはなりたくない。
だって、雪なら絶対に無言で助けるし。
私はそういう雪を尊敬していて、ああなりたいといつも思っているのだ。
廊下を少し走ると、基口さんはすぐそこ、数学研究会の部室の前に立っていた。
声を掛けようとして寸前で止めたのは、彼女の表情が真剣だったから。
彼女は必死な形相で手元の手帳に何やら書き込んでいる。
何してるんだろう?
気になってゆっくりと近づいて、基口さんの行動をようやく理解した。どうやら彼女は、数学研究会のドアに張り付けてある問題を手帳に書き写し、計算しているらしい。
その横顔には少しの陰りも見られず、ビクトリアでの嫌味などすっかり忘れているかのようだった。
すごいな。
素直にそう感心した。
はっきりとした自覚があるが、私の興味の幅はとても狭い。
一方、目の前の基口さんは私とは真逆の人物であることは明白だ。
何しろ、料理関係のサークルに入っていて、音楽にも興味があって、数学にも熱心なのだから。
彼女は近くにいる私に気づくことなく、ただらんらんとした瞳で手帳を凝視している。
声を掛けたら邪魔になるだろうと判断して、私はそおっと彼女の後ろを通り過ぎた。
*
ビクトリアでの一件を話すと、部長は目を丸くする。
「私も覚えてるよぉ。椿ちゃん、すんごく歌が上手かったから。だけど、椿ちゃんも覚えててくれて、しかもついてきてくれてたなんて知らなかった!」
お互いがお互いを覚えていて、けれど相手は覚えていないだろうと思い込んでいたのか。
何だかおかしくなって、顔を見合わせて笑う。
「ですがあの時は、郷土料理研究会に入ることになるとも、部長とまた会うことになるとも思わなかったんです。……ただ少し後に、雪と一緒にサークルに入りたいなって考えて……」
そう思ったのは、雪が寂しそうにしていたからだけど、そもそもどうしてそんなことになったのかは思い出せない。
考えると、頭の中に靄がかかったように全てが曖昧になるのだ。
雪が寂しそうにしていたのは、私が変わったからだ。
ある時、私は変わった。
そのきっかけは、何?




