おばけ
母の育ての母は、私たちが生まれる少し前に死んでいる。
母の実母は、母が養子に出てすぐ、行方不明になったらしい。
「そういえば、お母さんを産んだおばあちゃんの話なんて、一度も聞いたことがなかったよね」
母の養母、喜代さんの話は、母本人からも志賀さんからも、聞いたことがある。品があって優しく、それでいて気さくな、母親のお手本とでもいうべき女性だったそうだ。
でも、母の実母のことは、母も喜代さんも大好きだったこと、失踪後、母たちがいくら探しても見つからなかったということくらいしか知らない。
どんな人だったのかな?
「それどころか、引き取られるまで、どこで生まれてどこで育ったのかすらわからない」
「本当に知らないことばっかりだね」
「母子なのにね」
普通の子どもが母親のことをどこまで知っているのかはわからない。
だけど、平均寿命まで生きていて、たくさんの時間を共に過ごして、それでいておじいちゃんやおばあちゃんとも触れ合っていたのなら、ここまで知らないなんてことはないだろう。
こんなに大好きなのに。
「ねえ、雪。今からでも調べてみようか」
「無理でしょ。知ってそうな人はみんな死んでる」
さらりと言った後、雪は自分の発言を後悔するように顔を顰めた。
きっと、志賀さんのことを思い出しているのだろう。
「話を聞くことはできなくても、お母さんの見た景色を見ることはできるかもしれないよ? 生まれ育った場所を調べて、行ってみようよ」
「どうやって調べるの?」
私は瞳を閉じて、志賀さんの顔を思い浮かべた。
志賀さんは、私が歌うのが好きだと知っている。歌手になるかどうかは別として、歌わないなんてことは絶対に望まない。
そう自分に言い聞かせると、小さく深呼吸して――
「寝んねよ寝んね。大好きなあなた。何が怖いのどうしたの? 大丈夫、ちゃあんとおばけを食べたでしょう? 寒い寒い如月に、父さん海から取ってきた大きなおばけ。母さん捌いてむしゃむしゃ食べた。だからあなたは大丈夫、私の腕でお休みなさい」
雪は目を丸くして私を見つめ、それからはっとしたように真顔になった後、ゆっくりと嬉しそうに笑った。
「椿の歌、久しぶりに聞いた。やっぱりいいね。……母さんのこと、思い出した」
「ふふ、そうだよ、お母さんの子守唄」
それは幼い頃、私たちを寝かしつける時に母が歌ってくれていた歌だ。
一時期、母のことを考えないようにしていたせいで、長い間、歌詞を忘れてしまっていたのだけど、いつの間にかまた歌えるようになっていた。
何がきっかけで思い出したのかは覚えていないけど、本当に良かった。この子守唄は、私たちにとって思い出の歌なのだ。
「お母さん、『私の故郷の歌』って言ってたよね。たぶん。小さい時に母親から歌ってもらってたんだよ。これを突破口にできないかな?」
前のめりになって言うものの、雪は肩を竦め、首を横に振る。
「大学入る少し前だっけ……椿が久しぶりに歌ってくれた時、ネットで調べたけど、出てこなかったよ」
「そ、そっか」
さすが雪。私が思いつく何年も前にチャレンジしていたとは。
きっと雪のことだから、ネットだけではなく、思いつく限りのあらゆる方法で探ってみたに違いない。 それなのに、判明しなかった。
だったら時が経ったからといって、状況が変わるわけ――いや、ある。
「先輩たちに聞いてみようよ」
当時の私たちはまだ二人きりの世界にいた。
だけど今は違う。
少しだけど世界は広がって、サークルの先輩たちという信頼している仲間がいる。
「部長とか、美味しいもの求めて全国津々浦々旅してるんでしょ? もしかしたら、知ってるかもよ」
「歌なんて知ってるかなあ」
「聞いてみるだけならタダだし! よし、明日早速サークル部屋に行ってみよう」
この一か月間、先輩たちとは会っていない。
家族のように思っていた人が亡くなった、と話だけはしてあって、先輩たちは心配してくれているみたいだけど、何だかずっと無気力でサークル部屋には行けなかったのだ。
「わかった。じゃあ、久しぶりにちゃんとした服着ないとね」
「そうそう、ジャージじゃダメだよ。久しぶりに会うんだし、雪が魅力的に見える服、私が見繕ってあげる」
「その言葉……何だか初めに見学行った時、思い出すね」
「私も同じこと思ってた」
「って、そういえば、スカウト受けるかどうかって話からすっかり逸れてるけど、いいの?」
そうだった。
すっかり本題から外れてた。
「ゆっくり考えてって言われたし、とりあえずいいや。今は何をどう考えても今は答えが出そうにないし、一旦、寝かせてみよっかな」
「何だか調子が戻ってきたみたいだね」
嬉しそうに言う雪に応えるように、私はにこりと笑った。
*
「お久しぶりです! 今日から復帰します」
扉を開けると、先輩たちは私たちを見て、それぞれ「らしい」行動で出迎えてくれた。
基口部長は「ひっさしっぶりぃ!」と私たちに飛びつき、須中先輩は笑顔で片手を上げ、長崎先輩は棚からお饅頭をたくさん出して「さあさあ、たくさん食べなさい」と私たちに突き付けた。
ソファに座ってわいわいお喋りすれば、ただひたすら楽しくて、一か月会ってなかったのなんて嘘みたいにいつも通りって感じで……少しだけ、泣いてしまいそうになった。
長崎先輩からもらったお饅頭を食べながら、先月の活動について話を聞いた後、私と雪は顔を見合わせ、同時に口を開く。
「「先輩たちに聞きたいことがあるんです」」
「いいよぉ。なになにー?」
基口部長は元気にそう言って、須中先輩は軽く頷き、長崎先輩は首を傾げる。
「私たちの母――今はもう他界しているんですが、その母が歌っていた歌があるんです。ある地域でしか歌われていなかったものらしいんですが、聞いたことがあったら教えてもらえないでしょうか? 私たち、その場所に行ってみたいんです」
「無茶ぶりなお願いだってわかってます。先輩たち、色々詳しいし、部長は全国各地……辺鄙な場所にも出かけてるって聞きましたし。――とりあえず、今から椿が歌いますね」
お願いします、と頭を下げてから、私は懐かしいメロディを口ずさむ。
「寝んねよ寝んね。大好きなあなた。何が怖いのどうしたの? 大丈夫、ちゃあんとおばけを食べたでしょう? 寒い寒い如月に、おじさん海から取ってきた。母さん捌いてむしゃむしゃ食べた。だからあなたは大丈夫、私の腕でお休みなさい」
ぱちぱちぱち、と三人の拍手を受けて、ぺこりと頭を下げる。
「それで、どうでした?」
雪が尋ねると、須中先輩が肩を竦める。
「ごめん、わからない」
「……私も、知らないな」
続けて呟く長崎先輩の隣で、部長が「うーん」と唸る。
「わかんないなぁ、ごめんねぇ」
やっぱりだめか。
肩を落としそうになるけど、まあ、当然の結果だろう。
雪が言った通り、無茶ぶりだってわかっていたし……ダメもとだったのだ。
気持ちを切り替えて、ありがとうございました、とお礼を言おうとした時、
「けど、食べ物のことならわかるよ!」
基口部長はえっへん、と得意げな顔で胸を反らせた。
「「食べ物?」」
意味が分からず首を傾げると、基口部長はとろけるような笑みを浮かべる。
「すっごく美味しいんだよねえ。あの、海の泡を連想させる真っ白な見た目……口に入れた瞬間、ぷりぷりでしゃきしゃきな歯ごたえが絶品で……」
「基口、目、いってるよ。正気に戻って説明して」
須中先輩の突っ込みに、部長はきょっとんとした顔になる。
「だから、おばけだよ」
「……た、食べたことあるの?」
長崎先輩の問いに、部長は堂々と頷いた。
「うん、食べた!」
「…………」




