どう思う?
「……歌手、として……」
――この仕事、天職かもしれないなあ。歌って食べていけるなら、幸せなことだよね。
真っ暗な夜道を、雪と志賀さんと三人で歩きながら、そう笑った日のことを思い出す。
幸せだった、幸せすぎた、もう二度と訪れることのない夜のことを。
あの夜の、テンションが上がりきった私なら、もしかしたら何を考えることもなく、彼の申し出に頷いていたかもしれない。
だけど今は……
何も言えずにいると、マスターが気まずそうに口を挟む。
「……事件のことは話してあるよ。危険がないように気を付けてくれるって」
「それは有難いですが、でも……そういう問題じゃないんです」
口にして改めて思う。
私のせいで、私の歌のせいで、志賀さんが死んだ。
私は昔、雪から「自分の前以外では歌うな」と言われたことがある。面倒事に巻き込まれるから、と。
私はそれを拒否した。
誰かの前で歌えない寂しさに比べたら、面倒事に巻き込まれるくらい何ともない、そう思っていた。巻き込まれるのはあくまで自分だし、どうとでもしてみせるって、安易に考えていたのだ。
だけど、面倒事には私だけではなく志賀さんも巻き込まれ、どうともならなかった。
志賀さんは死んだ。
もう戻ってこない。
そして私は今、その責任の重さに押しつぶされかけている。
過去にした自分の決断に後悔しながら、そもそもどうしてそんな決断をしたのか――当時の私だったら、雪からの「双子のお願い」に従うのが普通だったのに――も思い出せずに、歌に対する嫌悪感すら抱き始めている。
歌が大好きだった。
歌っていると気持ちよくて、聞いてくれている人も気持ちよくなってしてくれて、良いこと尽くしだと思っていた。
だけど、違った。
志賀さんは死んだのだ。
その事実は私の心を黒く染める。
もう透明な心では歌えない。黒く濁った心は何の光も通さず、白い歌は生み出せない。
そう思ったら、歌う気にはなれなかった。
「うん、気持ちはわかるよ。志賀くんが亡くなったのは、僕にとってもショッキングな出来事だったからね」
マスターは静かに頷く。
確か、マスターと志賀さんとの付き合いはとても長いはずだ。志賀さんの葬儀では大勢が泣いていたけど、中でもマスターは酷かった。声を上げて号泣して、涙と鼻水が混じりあったものが顎髭に絡みまくって、淡々と事を進めていた志賀さんの親族が嫌そうな顔をしていたけど、そんなことは気にならないとばかりに終始涙を流していた。
「椿ちゃんは歌いたがらないかもしれないって、こんな話をしても戸惑わせるだけだってわかってた。だから、椿ちゃんに門前さんを紹介するの、正直、迷ったんだ。……でもね、こう思った。志賀くんは自分が原因で椿ちゃんの夢が絶たれることになったら、絶対に悲しむって」
マスターはにこりと笑って、志賀さんがいつも座っていた、一番端っこの席を見た。
椅子の前には「予約席」のプレートがある。
志賀さんの魂はまだこの街にいる。夜になるとこの店に来て、音楽に耳を傾けながら、お酒を飲んでいる。
他の大勢と同じで、マスターもきっとそう思っているのだろう。
「椿ちゃん、『歌って人を喜ばせるこの仕事、天職かもしれない』って、そう話したんだろう? 志賀くん、椿ちゃんが夢を叶えるために何かできないかって、俺に相談してたんだ」
「志賀さん……」
そうだ、彼はそういう人だ。
私を愛し、幸せを願ってくれていた。
「ほら、彼……今まで過去の女性を心の支えにしてただろう? でも、ここ何年かは君たちも同じように支えになっていたんだと思う。――亡くなるちょうど前の日、椿ちゃんはバイトに入ってなかったけど、志賀くんが一人で店に来て、こう言ってたんだ。『幸せな思い出があるだけで十分だと思ってたけど、幸せな未来を願える相手がいるっていうのはそれ以上に幸せなことだね』って。『椿ちゃんと雪くんが、俺との関わりで幸せになってくれることが、俺にとっての幸せだ』って」
志賀さんはいつも私に向けていたのと同じ、見ている人に元気をくれる、晴れやかな笑顔でそう語ったのだろう。
その姿を想像しながら、私は思わず目を瞑った。
志賀さん……あなたの存在が、私と雪の支えになっていました。
間違ったことをしても、失敗したとしても、あなたが優しく迎えてくれると、甘えさせてくれると、そう思えることで、色々なことに挑戦できました。
お父さんがいたらこんな感じだろうなって、あなたが本当の父親だったら良かったのにって……そう思っていました。
大丈夫、大丈夫、椿ちゃんならできるから。
そんな声が聞こえた気がして、ゆっくりと目を開けると、マスターが私をじっと見つめていた。
「だから、自分の心に素直に従ってほしい。それを志賀くんも願ってるよ」
マスターの言う通りだ。
私は自分が幸せになれる選択をするべきだ。
でも――
「少し、考えさせてください」
正直、自分の気持ちがよくわからない。
バイト先で歌うのは楽しかったけど、ただそれだけで歌手になりたいと望むのは違う気がした。
だって、アルバイトとして、ただマスターの指示に従って歌うのとはわけが違う。自分が商品になるには、今まで普通に持っていたたくさんのものを捨てなきゃいけない。母は私たちと大っぴらに旅行に行くことすらできず、別荘を買ったのだ。
母の苦労を知っているからこそ、憧れだけでは無邪気に選べない。
だけど、そんな苦労をしてでも、歌うことを選びたいと思えたなら……やっぱり挑戦してみるべきなのだろう。
「もちろんです。ゆっくり考えてください。いいお返事を期待しています」
如才ない笑顔で頷いた門前さんは、少しだけ真剣な顔になって付け加える。
「あなたの歌を多くの人に届けたいんです」
*
「相談、のってほしいんだけど……」
家に帰ると、リビングのソファに雪と並んで腰かけて、バーでの出来事、門前さんからの申し出やマスターから聞いた志賀さんのことを話した。
志賀さんの話の時だけ、雪は何かを考えるように俯いていたけど、それ以外は驚いた顔はせず、冷静に受け入れてくれた。
「雪はどう思う? 私にどうしてほしいとか、ある?」
「椿が自分で好きに決めたらいい。椿の幸せは椿にしかわからないし、その幸せを掴めるのも椿だけだから」
昔の雪だったら、絶対に「やめろ」と止めていたのに。
自分たちは二人で一つなのだと、そう信じていた昔と違い、今はお互いの間に確かな境界線がある。少しだけ寂しくて、だけど同時に誇らしさを感じながら、さらに尋ねる。
「ねえ、雪……お母さんってどうして歌手になったんだと思う?」
それは、バーからの帰り道でふいに浮かんだ疑問だった。
「さあ、知らないけど、普通に考えたら、歌が好きだからじゃないの?」
「それはそうだと思うんだけど……他に何かないのかな?」
「他に? どうして?」
「だって、お母さんの性格、雪とそっくりだから。雪なら絶対に歌手なんてならないでしょう?」
尋ねると、雪は深く頷いた。
「確かに。しかも母さん、自分でオーディション受けたんだよね。椿みたいにスカウトされて押し切られて……なら、まだわかるけど、自分で進んで歌手になろうって思ってたってことだもんね」
昔、週刊誌で一緒に読んだのを雪も覚えていたらしい。
私が引っかかっていたのもそこだった。
雪も母も、目立つことを嫌う性格だ。
自分の落ち着ける環境で、ひっそりと好きなことを楽しむのを好む。
「うん、改めて考えたら、お母さんらしくはないなって」
生まれた時から母は歌手だったから、そう深く考えたことはなかったけど、少し前に母の人生を辿ったばかりだからか、違和感がある。
「らしくないとは俺も思う。でも、わからない。そもそも僕たち、母さんのこと知らなすぎるし」
幼かった私たちは、自分たちのことを話すばかりで、母のことを聞かなかった。
もっともっと、聞けばよかったな。
今更こんなこと思っても、どうしようもないけど。
「……知りたかった」
ポロリと漏れた本音に、雪が苦笑いする。
「そうだね」




