家族
元バイト先のマスターから電話があったのは、志賀さんの葬儀から一か月ほど経ってのことだった。
ダイニングチェアに座ってぼんやりと窓の外を見ていた私は、暇だったはずなのに、面倒だな、と思った。だけどすぐに、お世話になったマスターにそんなことを思う自分に恥ずかしくなって、慌てて電話を取る。
『椿ちゃん、久しぶり。突然ごめんね。実は、話があるんだよ』
「お久しぶりです。……話、ですか?」
『ああ、僕からってわけじゃなくて、うちの常連さんからなんだ。……良かったら、一度、会ってもらえないかな? 僕も同伴するから、昼間にうちでどう?』
音楽に限りない情熱を注いでいるマスターのことは好きだし、尊敬している。それに、突然辞めてしまったことに対する申し訳なさも感じていた。
初対面の人と話す気分にはなれなかったけど、大学に通う以外は全く外出せず、食べて寝て、ただそれだけの生活を一か月続けている自分にそろそろ活を入れなければと思っていたところだ。そのきっかけとして、バーに行くのはありかもしれない。
「……わかりました。いつがいいですか?」
『いつでもいいよ』
「じゃあ、今週末でお願いします」
約束をして電話を切ると、キッチンで料理をしていた雪が私を見る。
「バーに行くの?」
「うん、何か話があるんだって。雪も行く?」
一時期あのバーに頻繁に通っていた雪はマスターとも親しいし、連れて行っても問題ないだろう。それに私と同じで大学以外は家に引き籠っているから、外に連れ出すのはありかもしれない。
だけど雪は静かに首を振った。
「僕はいいや。あの場所には……まだ行きたくない」
「そっか、そうだよね」
一か月前、繁華街の路地の奥、ミュージックバーヨシカワの前で志賀さんは殺された。
加害者は自称、私のファンの男性で、仕事中に私を何度も口説こうとするので、少し前にマスターから出禁にされていた。それで彼は店の前で待っていて……襲われそうになったところを志賀さんが庇ってくれたのだ。
お腹を刺されて、志賀さんはそのまま死んだ。
私を責めることはなく、何故だか「ありがとう」と笑って。
自宅でゼミのレポートを作成中だった雪は、私からの連絡を受けてすぐに病院に駆けつけたけど、その時にはもう志賀さんは息を引き取っていた。
志賀さんの葬儀――喪主だった親族は淡々と進行し、だけど集まったたくさんの人、彼の仕事仲間や学生時代の友人、どう関係があったのかわからない人々の多くが大泣きしていた――から帰る途中で、「僕も一緒に行けばよかった」と、雪は掠れた声で呟いた。
雪と志賀さんはどちらかが必ず私を迎えに行く、という約束をしていたらしいけど、大抵の場合、二人は一緒にバーに通い、お客さんとしてお酒を楽しんで、バイト終わりの私を家まで送ってくれていた。
あの日に限って、志賀さんは一人だった。
もっとも、あそこに雪がいたからといって、志賀さんを救うことができたかはわからない。何しろ、あっという間の出来事だったから。
だけど後悔する雪の気持ちはわかるし、あの場所に行きたくないのもわかる。
私だってトラウマはあるけど……あそこは、あのバーは、私にとって楽しい思い出が詰まった場所でもあるから。
私の歌を、お客さんと、お客さんに混じった雪と志賀さんが聞いてくれた。
歌っている間、二人は一言も喋らなかった。初めはステージにいる私を真っ直ぐに見つめ、やがてその瞳から私が消える。現実を映していない、優しくて、少し寂しい瞳。二人は私の歌を聞きながら、自分の心と向き合っている。
私は歌う時、いつも「雪」をイメージするようにしている。
たぶんそのきっかけは大好きな雪の名前からなのだけど、今は誰のどんな色にでも染まれるように、真っ白な雪のような歌を歌いたいと思っている。
雪の結晶は透明だけれど、中の空気が光を乱反射することで、白く見えるらしい。光にはたくさんの色が混じりあうと白く見えるという性質があるのだそうだ。
雪のように透明な心で、あらゆる感情を織り交ぜて、白を思わせる歌を。
歌い続けていると、やがて二人の瞳の中に私が戻ってくる。
何かを得た、そういう顔になる。
その瞬間が、私は好きだった。
とてもとても、たまらなく好きだった。
「じゃあ、一人で行くよ。昼間だし、危ないことはないでしょ」
「ていうか、電話で話せばいいのに」
「会わせたい人がいるんだって。気分転換に、ぶらぶらしてくる」
「まあ、椿は家にいてもぼーっとしてるだけだし、外に出た方がいいかもね」
「何それ、確かに雪みたいに美味しい料理は作れないけどさ」
「いや、そういう意味じゃなくて……最近さ、気を紛らわすこともできてないでしょ」
雪が言いたいことはわかる。
私は志賀さんが死んでから、歌を歌っていない。
歌いたくない、とも、歌えない、とも違う。
歌おうと思えば歌えるのだけど、どうしても歌う気にならないのだ。
「志賀さんがいたら、色々アドバイスしてくれそうだけど……僕には良い考えが思いつかないから」
幼い頃から、雪と二人で生きてきた。
志賀さんは、母以来初めての、頼りにできる大人だった。
あのあっけらかんとした明るい笑顔を見れば、何とかなる、ならなくてもこの人が何とかしてくれる、無条件にそう思わせてくれる人だった。
傍にいるとほっとできた。
家族のように、思っていた。
「……そうだ、今日はあの場所にお花を供えて来ようかなあ」
バイトを止めることを告げるためバーに行った時、店の前にお花やらお菓子やらがたくさん置かれていた。マスターに曰く、志賀さんの知り合いが毎日のようにやってきて、好きだったものを置いていくらしい。
志賀さんがあの場所で死んだから、という以上に、おそらくみんな、まだ志賀さんが街にいるような気がしてるんだと思う。
志賀さんの骨は実家のある九州にあって、お墓も当然、実家の近くだ。だけど、この街が好きで毎晩のように通っていた志賀さんの魂が、最近はほとんど帰っていなかったという故郷にいるはずがない。みんな、そして、きっと雪も、もちろん私も、そう思っている。
「何がいいと思う?」
「ユキツバキ、かな」
「そっか。そうだね」
美しく可憐な、母が好きだった花。
私たちの生まれた時に、ちょうど咲いていた花。
花言葉は「変わらない愛情」
家族に向けるに相応しい花だ。
*
商店街の花屋で買ったユキツバキを置いてから店に入ると、マスターから促されてカウンター席に腰掛けた。
隣に座っていたのは店の常連さんで、有名なレコード会社に勤めているらしい門前さんという男性だ。 マスターから紹介されて、自分でも簡単に自己紹介した後、門前さんは改まった声を出す。
「椿さん……あなたの声に惚れました。歌手としてデビューしてみませんか?」




