勝利
さよならを言う直前、椿ちゃんがそう言って俺をじっと見た。
「明後日? ああ、うん、大丈夫だけど……」
「夕方、うちに来てくれませんか? ご馳走用意して待ってますから!」
少し前なら前のめりで頷いただろうが、今は正直気が重い。
だけど、断るのは不自然だ。
それに……潤と父のことは、きちんと二人に話すべきだろう。
もし二人が望むなら、警察にも打ち明け、潤の名誉を晴らせるように尽力する。
それが、法的には父と子である俺の、せめてもの償いだ。
「わかった。楽しみにしてるよ」
無理やり作った笑顔を向けると、二人はほっとしたように微笑んだ。
*
「志賀さん、たくさん食べてくださいね」
雪くんが用意してくれた料理はどれも絶品で、味が美味しいだけではなく、体が喜んでいる感じがする。
「最近、ろくなもの食べてないんじゃないですか? やつれてるし、顔色悪いし……」
言いながら、雪くんは俺の皿にどんどんおかずをよそっていく。
「私たちはまだ学生だし、志賀さんの苦労はわからないですけど、何かできませんか? 心配なんです」
「ありがとう」
真剣な瞳で俺を見つめる椿ちゃんも、その隣でこくこく頷く雪くんも、本当に良い子だ。
潤から愛されていなかったとしても、彼女のお陰で二人と出会えた。
それはきっと幸運だった。
俺は一旦瞼を閉じて、小さく深呼吸してから、目を開く。
二人の真っ直ぐな眼差しを正面から受け止めて、ゆっくりと口を開いた。
「潤――君たちの母親と俺の父の関係がわかった。……聞いてくれないか?」
二人は驚いたような顔をしていたけど、素直に頷いてくれた。
俺は小さく息を吐くと、事の経緯を順を追って説明する。
喜代さんが語った潤の母親のこと。
俺と潤の出会い。
潤の思惑。
父との関係。
勝手に祖父母診断をしたことへの謝罪。
診断書からわかった事実。
そこから推測できる、あの事件の真相。
そして最後に残った疑問、どうして学生時代、潤は父に復讐しなかったのか。
不確定なことから事実まで、全てを話し終わると、二人は何とも言えない顔で黙り込んだ。
「この件を明らかにすれば、世間の潤のイメージは良くなると思う。だけどかなり個人的な事情だし、騒ぎになるのは確実だから、二人の意見を聞いてから対応を決めたい。……あとは、何か俺に言いたいこととか、聞きたいことはある?」
失望も罵倒も、二人の感情は全て受け止めるつもりだった。
だけど、二人の口から出たのは予想もしなかったことだ。
「真実は僕たちが知っていたら、それでいいんじゃないかなって思います。あとは……」
「志賀さんが疑問って言ってたところ、あれ、本当にわからないんですか? 私たちにはわかりますけど」
「え?」
目を見開くと、二人は顔を合わせて微笑む。
「お母さんは志賀さんを好きになったから、志賀さんが『愛した』父親に危害を加えられなかったんだと思います!」
椿ちゃんが断言する。
「……俺、振られてるんだよ」
「父親、に複雑な感情があって、将来を望めるような器用さはなかったんじゃないですかね。僕だったら、そうですけど……」
雪くんが躊躇うようにそう言って、俺をじっと見る。
「志賀さんって、母さんが志賀さんのこと、最後まで好きじゃなかったって思ってます?」
「ああ、えっと……うん」
「そんなわけないじゃないですか!」
否定したのは椿ちゃんだ。
「それは……永久にわからないことだよ」
潤は死んだ。
心を覗くことはもうできない。
「わかりますよ」
「どうして?」
「だって、お母さんの歌……リリースされていない歌の中に恋の歌があるでしょう?」
「そうだね」
家族の歌がほとんどだけど、恋愛ソングと呼べるものもある。
ああ、そうか。潤はあの、宇都宮和樹とも恋したんだもんなあ。
「あれ、ぜんぶ志賀さんに宛てた歌じゃないですか。今まで気づかなかったんですか?」
「……」
呆けてしまった俺を見て、雪くんが苦笑いする。
「あんなにあからさまなのに」
「そ、そうかな」
「そうですよ。今から歌うので、しっかり聞いててくださいね」
椿ちゃんが立ち上がり、口を開く。
紡がれたメロディは雪のように俺の心に染み入った。
*
あの愛が本物だった。
それだけで、世界がきれいに見えるから不思議なものだ。
俺は浮足立った気持ちで、今夜も椿ちゃんのバイト先へと向かう。
今日は雪くんが来られないから、俺は一人で椿ちゃんを家に送り届ける予定だった。
先にバーを出て、着替えが終わって外に出てくる椿ちゃんを路地で待つ。
「志賀さん、いつもありがとうございます。でも、無理しないでいいのに」
手を振りながら、こちらに向かって歩いて来る椿ちゃんに微笑んだ。
「好きでやってることだしね。歌姫が夜道を一人なんて危ないよ」
「大丈夫で――っ」
言葉が途切れたのは、一人の男が駆け寄ったからだ。
真っ黒なパーカーのフードを被っていて、手にはナイフをもっている。
「椿ちゃん!」
何かを考える余裕なんてなかった。
椿ちゃんを庇うように前に出て――
「っ」
腹が熱く――とんでもなく、痛い。
だけど、男を必死の思いで捕まえて、羽交い締めにする。
「誰か……誰か!」
椿ちゃんの叫ぶ声が聞こえた。
人が集まってくる気配がして、誰かが俺から男を引き取った。
ほっとしたのと同時に力が抜けて道路に倒れると、椿ちゃんが俺に駆け寄り、優しく体を抱きしめてくれる。
「志賀さん、死なないで……志賀さん!」
ああ、彼女は泣いている。
父の葬儀で、俺は泣かなかった。
他の誰も泣いていなかった。
でも父の息子である俺の前で、椿ちゃんは顔をくしゃくしゃにして、涙を流してくれている。
「椿ちゃん、ありがとう」
「どうして、お礼なんか……お礼を言うのは私の方です」
飛び出したのは無意識だった。
無意識に、君を強く守りたいと思った。
自分よりも、はるかに大事だった。
愛していた。
血の繋がりのない君を、実の娘のように思っていた。本当に、心から、そう思っていた。
俺は鈍いから、こういうことでもないとわからないのだ。
「……ありが、とう」
意識は半ば薄れ、声はカラカラだ。
だから、微笑む。
精一杯の感謝を込めて。
愛させてくれて、ありがとう。
俺は父に勝った。
それが誇らしい。
産まれるはずのない、奇跡の愛を産んだのだ。
「志賀さん、嫌です……志賀さん!」
「……つば、き、ちゃん……歌って……お願い」
「っ、はい……」
椿ちゃんは頷いて、泣きながら歌ってくれる。
「どんなに絶望的な状況でも……あなたが隣で、その屈託ない顔で笑ってくれたなら、何でもできるような気がするの。……そんな人、もう出会えない。恋が終わってしまっても、二度と会えなくても、あなたはきっと……私の、運命の人」
――椿ちゃんの歌、すごく良かった。なんて言うか、今わの際に聞きたいくらい。きっと幸せに死ねる。
初めて椿ちゃんの歌を聞いた時、俺はそう言ったけど、あれはまさしく真実だった。
だって今、俺はすごく、すごく、幸せなのだ。
負けを確信していた父に勝った。
大事な人が俺のために泣いてくれている。
それに……きっとこれから、潤に会える。
愛しい人の笑顔を思い浮かべながら、俺は静かに瞼を閉じた。




