雪
恋人になって一年の間に数回、思わずといった調子でメロディを口ずさもうとして、顔面蒼白になってしまった椿を見た。
その場にしゃがみ込み、口を押えて、小さく震える彼女を見て、気づいた。PTSD、心的外傷後ストレス障害だ。
具体的な病名が浮かんだのは、俺が医学に関わるものだったからかもしれないけど、尋常じゃないその様子を見れば、誰にでも、彼女に何かしらのトラウマがあるのだとわかったはずだ。
「だから……無理だよ」
苦々しげに笑う椿をそっと抱きしめる。
彼女が歌を愛しているのは、出会った瞬間、すでに悟っていたように思う。
そうじゃないと、歌えないくらいの歌だったから。
そしてその大好きな歌で人に影響を与えるのも――というと、大層なことに思えるけど、自分の得意とするものが褒められると嬉しいほとんどの人間と同じように、歌を他者から評価され、認められることを誇らしく思っているのも、すぐにわかった。
歌手という仕事が簡単になれるものでもないとは理解しつつ、自分ならできるのではないかというほんの少しの自信があるのも知っている。きっとそういう全部を含めて、椿には才能がある。
大好きなことがあり、それを突き詰めた先を夢見たことがある。そして叶えることができるほどの才能があるのなら……挑戦しないなんていう選択肢はないんじゃないか。
幸せはきっとその先にある。
そんなことを思うのは、今まで俺が「好きなこと」に対して夢を抱けるような才能を持ったことがないからだ。
いや、才能というと大仰すぎるかな。プロになる云々じゃなくて、もっと頑張ったらどうにかなるって感じられることすら、俺にはない。
物心ついた時からずっと、得意なのは「好き」以外のものだった。
幼い頃、可愛がりたいと思う小動物からは避けられるのに、なぜか植物を育てるのが上手いともてはやされた。学生時代、唯一、楽しんで授業を受けていた国語の点数は五教科中最低だった。
そして、生涯を捧げたいほどに好きだった音楽は歌も楽器も何をやってもうまくいかなかった。
正直、好きこそものの上手なれ、という諺はクソだと思っている。
いや、一応弁解しておくと、音楽に関して、多少は上手くはなったのだ。どうしても諦められなくてがむしゃらに練習し、人より何十倍かの時間をかけた結果……普通に下手、程度には上達した。
だけどそれだけだった。
俺の音楽を褒めてくれたのは、これまでの人生の中でたった一人。
学生時代、夜道で一人、弾き語りをしていた時に遭遇した酔っ払いの女の子だけだ。彼女は財布をひっくり返して小銭全てを提供し、俺の歌が好きだと言ってくれた。だけど有頂天になっていた俺の前でゲロを吐き――呆気に取られている間にいなくなった。
とんでもない体験だったけど、彼女には感謝している。
俺の音楽を褒めてくれたから。
たぶん、あれがなかったら一生褒められることなんてなかった。
俺にはそれくらい、才能がない。
天才は一パーセントのひらめきと九九パーセントの努力である、っていうのはエジソンの有名な言葉で、努力が大事って意味でよく使われるけど、この言葉の本当の意味は、ひらめきがないとどうしようもないってことらしい。そして、ひらめきを産むのは才能だ。どんなに努力したとしても、才能がないと何にもならないのだ。
幸か不幸か、それなりの客観性がある俺は、自分の才能のなさに気づくことができた。
だから小学校では、小動物は遠目で見るだけで我慢し、植物係になって鉢植えの世話を積極的に引き受けた。中高では、好きな国語はほどほどに得意な理数系に力を入れて成績を伸ばした。大好きだった音楽は趣味と割り切り、無謀な野望は抱かないまま諦めた。
おかげで順風満帆とも言える人生を歩んでいるけど、もし才能があったなら……全てを捨ててでも、夢に向かって突き進んでいただろう。
苦労は計り知れないと思うけど、そんな自分の方がきっと幸せだった。
どうしても欲しいものが絶対手に入らない人生を惰性で歩き続けるのは、これ以上ないほど虚しいから。
自分の未来を自分で信じられるのなら、夢というものは、何を犠牲にしてでも追う価値があると、俺は思うのだ。
だったら、それを阻む壁――椿の場合、トラウマだ――があるのなら、乗り越えればいい。
そりゃあ、そんなに簡単なことだとは思ってない。
だからこそ、力になりたいと思ってる。
いずれ解決するよ。俺がどうにかしてみせる。カウンセリングを受けてみようか。克服できるよう、一緒に頑張ろう。
恋人になってから、あらゆる言葉を使って誘った。だけど椿は一度として、首を縦に振らなかった。
椿は「人前では歌えない自分」を克服しようと思っていない。
そしてたぶん……これは俺が勝手に思ってることだけど、椿は「歌えない自分」に安堵している。
恐怖に怯え、身体を震わせる彼女の瞳に滲む、微かな安らぎ。
人前で歌いたい、人前で歌えるようになりたくない、矛盾するそのどちらもがきっと彼女の本心だ。
理由はわからない。
だけどそれでも、椿を大事に思うのであれば、彼女の決断を尊重すべきだ。
わかっているのに……
「椿の歌、俺が独り占めするのは勿体なすぎると思うんだけどなあ」
「でも侑ちゃんが聞いてくれることで、私は救われてるよ? 誰にも聞いてもらえなかった頃の私は……今思い返すと、かなり鬱憤溜まってたし」
わざとらしいほどの明るい口調で言われた言葉は、きっと真実だ。
そうでなければ、病院の屋上で、街を見下ろし歌おうなんて思うはずがない。
「ですので、私を命の恩人だっていう侑ちゃんこそが、実は私の恩人なのです」
椿はそう言って、照れたように頬を赤らめる。
その頬も、こちらを見つめる潤んだ瞳も、俺のことが好きだと告げている。
椿は初対面の時からずっと、俺に好意を抱いてくれていたらしい。
ナンパもどきの声のかけ方もメールの文章も重ねたデートも、椿を喜ばせることができていたのだ。
情緒も何もない言い方だけど、俺はきっと、椿との恋が得意なのだと思う。
生まれて初めて、好きと得意が一致した。
それなら……もっと先が望める。
椿をもっともっと幸せにできるんじゃないか、そんな欲がふいに芽生えて、ずっと前から知りたかった疑問が口から出た。
「……あのさ、歌えなくなった理由があるんだよね? 聞いてもいい?」
自分の中に溜め込んでいるそれを吐き出せば、少しは楽になるかもしれない。
俺にできることがあるなら何でもするし、手に負えないレベルでも、専門医を探すことはできる。とにかく、話を聞かなければ始まらない。
だけどきっと、その理由には、彼女にとって辛い記憶が不随している。
強張った表情で俺を見つめる椿の手を握りしめると、彼女は小さく、だけど俺の目を真っ直ぐ見つめて、こくりと頷いた。
「『僕の前以外では歌わないで』って、言われたの」
淹れてきたミルクティーを一口、口に含むと、椿はぽつりとそう言って、苦笑した。
「……そっか」
僕、と言うからには相手は男だろうが、もしかして元カレとかだろうか? ちりちりと胸が焼けつくような嫉妬を抑えて、穏やかに尋ねる。
「それで?」
ただ言われただけじゃ、ああも縛られる理由にはならない。
何か他に、彼女の心に傷を残した要因があるはずだ。
「雪は……そう言って、私は返事ができなかった。そうしてそのまま、死んじゃった」
ごくりと唾を飲んで、彼女から目を逸らす。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。
俺が動揺したら、彼女が不安になる。
何度も自分に言い聞かせると、意を決して、彼女の瞳を見つめる。
口元だけで薄く笑うと、できうる限りの優しい声を出した。
「椿にとって、大切な相手だったんだね」
「弟だからね」
「弟?」
思わず声が上ずった。
こんな状況だというのに、ほっとしてしまう自分が情けない。
「うん、双子の弟。たった一人の家族だったの」
その寂しげな笑顔に胸を打たれた。
椿の家族について、俺は何も知らない。
付き合ってすぐに家族の話を振った時、彼女は少しだけ傷ついた顔をして、曖昧な笑顔で話題を逸らした。何か事情があるのがわかったから、それきり何も聞けなかったのだ。
「そっか」
小さく頷くと、椿はもぞもぞと腰を動かして、ソファーの上で体操座りをした。膝の上に顎をちょこんと乗せて、ぼおっと前を見ながら、話を再開する。
「お父さんは元々いなかった。お母さんは子どもを愛さない人だった。だから、私にとって家族は、双子の弟の雪だけだったの」
ゆき、と唇が動いたその瞬間、椿は切なげに眉を寄せた。
「私たち、双子なのに、顔も性格も全然似てなかった。雪はお母さんにそっくりな美人でね、性格も私とは違う。色々なことを深く考える子で、真面目でしっかりしてて、責任感があって……弟なのに、私、お世話してもらってばっかりだった。――大好きだった。そして、同じくらい、雪も私が大好きだったと思う。私たちはお互いの特別だったの」
懐かしそうに語る椿の目に映っているのは、今は亡き弟の姿なのだろう。
そこに彼がいるかのようにふわりと微笑むと、彼女は続ける。
「お母さんは私たちを愛してくれなかったけど、それでも感謝はしてる。あの人は私に雪と歌をくれたから。あ、お母さん、歌手だったんだ。有名だから、侑ちゃんも知ってると思うよ。――ジュン、っていうの」
「ジュン!」
一世を風靡した有名な歌手だ。知らないわけがない。
儚げな美人で、すごく歌が上手くて、「歌姫」の名を思うがままにした女性。
だけど、彼女が有名な理由は、それだけじゃない。
「うん。……人を殺して、自分も死んだあの、ジュン、だよ」




