粉雪のような歌
「へ?」
もぐもぐ口を動かしながら尋ねると、彼女は慌てたように「すみません」と言ってから、訥々と続ける。
「私、人前では歌えないんです。人の気配には敏感だから、誰かがいるとすぐにわかって、声が出なくなっちゃうんです。だけど、あなたには気づかなかったから、びっくりしちゃって」
出会いがしらに大声を上げたことが恥ずかしいのだろうか。
彼女は視線を彷徨わせ、言い訳するように言う。
「そうなんだ。俺、存在感ないからね」
にこりと笑うと、彼女ははっとしたように俺を見る。
「いえ、そんなことっ! というか、そんなつもりじゃ!」
困り顔でそう言った後、「すみません」ともう一度、今度は頭を下げてそう言った。
「大丈夫。それのおかげで君の歌が聞けたって考えると、ありがたいくらいだし」
「……褒めすぎですって」
「本当だって。そこらの歌手よりずっと上手い、というか、すごいと思う」
幼い頃から音楽が好きで、中学、高校、大学と軽音部に入っていた。歌うのは得意ではないけど、耳には自信がある。
声量とか技術とか、そういう「すごい」もあるけど、俺が感じたのは、もっと他の、感覚でしか測れないところ。何だかわからないけど感動する、とか、聞いていると心が満たされる、とか、そういうもの。
彼女の歌は、雪のようだった。
さらさらと舞う粉雪。
すぐに消えてしまうとわかっているのに、思わず手のひらに乗せてみたくなる、冷たい結晶。
美しいそれは、実は空気中のゴミを核にできている。空から落ちてくる過程でも、不純物を吸着してくれるから、雪が降った後は、空がきれいになるのだ。さらには八角形という神秘的な形のおかげで、煩わしい雑音も吸収してくれる。
小汚い世界を美しく塗り替える、白い魔法。
彼女の歌は、それにそっくりだ。
心の中にひらりひらりと落ちてきて、その美しさに見とれているうちに、煩わしいゴミたち――迷いや悩み、悲しみやイライラ、全ての負の感情を、だ――を取り払ってくれる。
残るのは、全てを削げ落としたシンプルな自分。
背筋がしゃんとするような澄み切った空気の中、それと向き合えば、自然と心は落ち着いて、前向きになれた。
「実は、さっきまで死んでやろうかって思うくらい追い詰められてたんだけどさ、君の歌聞いたら、もう少し頑張ろうっていう気になった。状況は何にも変わってないのに、おかしいとは思うけど……確かに、救われたんだよ」
ギンさんが死んだことはやっぱり悲しいし、すぐに立ち直れない自分はふがいないと思う。まるきり平気になるのも嫌だ、と望む心も相変わらずだ。
だけど、全部まとめて受け入れたらいいんじゃないか、と思う。
悲しいままでも、立ち直れなくても、仕事はできる。
心の動揺からミスしたらアウトだけど、こっそり追悼するのを咎められるいわれはない。
もちろん、ここでの仕事に慣れて、いずれは他のスタッフみたいに何にも感じなくなるのかもしれないけど……今は、少なくとも今は、それでいい。
そう思えるようになったのは、冷静に自分と向き合えたのは、彼女の歌のおかげだった。
雪のように神秘的なその歌声が俺の心を静めてくれたのだ。
「ありがとう」
心を込めてそう告げると、彼女は一瞬、目を見開いて、それからくしゃりと顔中で笑った。
「こちらこそ、ありがとうございます」
*
「あの時の俺、椿の名前すら知らなかったんだよなあ」
背中まで伸びた真っ黒な髪の毛にドライヤーの風を当てながら、俺はぼそりと呟いた。
「え?」
ソファに座って寛いでいた椿がくるりと振り向く。俺はにっと笑いかけ、ドライヤーの電源を切ると、彼女の髪の毛をくるくると指に巻き付けた。
「はい、完了。今日も楽しかった」
言いながら一気に指を引き抜いて、艶やかな黒髪がさらさらと流れていく様にうっとりする。
彼女の髪を乾かすのは、俺の好きなことの一つだ。
「ありがとう。それで……何て言ったの?」
首を傾げて尋ねる恋人に、俺は笑顔で告げる。
「初めて会った時のこと、思い出してたんだ。名前すら知らずに、恋に落ちちゃったんだなあって」
一年と少し前、俺と椿は勤め先の病院の屋上で出会った。
あの日の別れ際、どうにか彼女の連絡先を聞き出したのだけど、名前を聞くのを忘れていた。だから、さんざん悩んだ末、初めに送ったメッセージは「お名前聞いてもいいですか?」だったのだ。
「ああ、懐かしい。最初は、侑ちゃんと付き合うなんて思ってもなかったなあ。ナンパされたのなんて、初めてだったし、チャラい人かと思った」
ふふ、と頬を緩めると、椿は俺の横にすり寄ってきた。
「俺だって、ナンパしたのなんて初めてだったよ。でも、一目ぼれだったから。どうしても、あのまま別れたくなかった」
有佐椿です。今日はカフェオレ、ごちそうさまでした。
それだけのメッセージが返ってきた時、どれだけ嬉しかったか、椿は今も知らないだろう。
しばらくメッセージのやり取りをして、デートに誘った。水族館、映画館、動物園、と定番デートを重ねてから、四回目のデートで告白した。イエスと答えをもらった時は、嬉しくて涙が出そうになった。
「あの時は、こんなに料理が下手だなんて思わなかったでしょ?」
ダイニングテーブルの上に乗っている黒焦げのハンバーグ――仕事が遅くなる俺のために、椿が作ってくれた夕食だ。ちなみに彼女は、料理中に汚れたらしく、食べる前に風呂に入っていた――をちらりと見やり、彼女は拗ねたように言う。
「うん。だけどそういうとこも好き」
耳元で告げると、椿は俺にぎゅっと抱き着いて、「私もだーい好き」と、囁いた。
乾かしたばかりの温かな髪の毛をそっと指で梳けば、上目遣いで俺を見つめ、とろけるような笑顔を向けてくれる。
愛おしいと、心からそう思った。
大好きな椿が、俺のことを好きでいてくれる。
たったそれだけで、どんなことだってできそうな気がする。
一番欲しいものが手の中にある、それは俺にとって奇跡に近い幸せなのだ。
「でもさ、やっぱり料理上手な子の方がいいなって、一度くらいは思ったでしょ?」
「ううん、どんな女の子より椿の方がいいって、ずっと思ってる」
「ほんと?」
ゆっくりと体を離しながら、椿が小さく尋ねる。
「本当だよ。それに大好きな上、命の恩人だし」
あの時、一歩間違えば、俺は死んでいた。
俺を救ってくれたのは、間違いなく椿の歌だ。
「大げさ」
くすぐったそうにはにかむ椿の瞳を真っ直ぐに見つめて、俺は言う。
「大げさじゃないよ。椿の歌にはそれくらいの力があるって、俺は本心で思ってる。……前にも言ったけど、本当に、歌で食べていく気はないの? 実力も、それ以上のものもあるんだから、オーディションとか受けたら、絶対に受かるって確信してるんだけど」
真剣な声音で告げると、彼女はたじろいだように、視線を逸らした。
「そりゃあ、夢見たことが一度もないって言ったら嘘になるけど……今はもう思わない。絶対になれないから」
はあ、と小さく息を吐いた後、ぼそぼそと続ける。
「人前では歌えないの。侑ちゃんが特別なだけで、他の誰の前でも、歌えない」
初めに彼女が同じことを言った時、それは単に「恥ずかしいから」とか「照れるから」とか、そんな誰もが抱く、だけど「慣れ」で解決できる程度の、ささやかな理由からだと思っていた。どうしても歌わなければいけない局面、例えば抱っこしてる赤ちゃんを眠らせなくちゃいけなかったり、カラオケで上司から勧められた時なんかは躊躇わずに歌うのだと、そう思っていた。
だけど、違う。
彼女は誰に命じられようと歌わない。
言葉通り、歌えない、のだ。




