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スノーカメリア  作者: 古浜夕
一ノ瀬侑吾
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一目惚れ

 高校生の時、スピリチュアルな女の子と付き合っていた。

 名前は忘れたけど、「むーちゃん」って呼んでいたことは覚えている。

 デートの度にパワースポット巡りに付き合わされるのにうんざりしていて、「癒されるねえ」と笑顔で言われるたび、曖昧な笑顔で誤魔化しながら、心の中ではこう思っていた。

 うさんくさっ。

 数か月の付き合いの末、振られてしまったのは、それを見透かされていたからかもしれない。

 卒業以来一度も会っていない元恋人のことを唐突に思い出したのは、ここ、東宮原病院の廊下のクリーム色のビニールタイルが彼女と歩いた高校とよく似ていたからだと思う。

 ぺたぺたと足に引っ付いてくるような踏み心地は同じだけど、歩いている俺は変わった。

 踵を潰した上履きでのそのそ歩いて、そのだらしなさがカッコいいのだと、わざと気だるげな表情を作っていた馬鹿な俺はどこへやら、今は真新しいメディカルシューズで姿勢をしゃんと伸ばし、顔には如才ない笑顔を張り付けている。

 つまるところ、成長したのだ。

 一ノ瀬侑吾、二四歳、研修医。

 俺が勤務する東宮原病院は、パワースポットとは正反対の場所だ。

 ここには、元気なだけの人間はいない。

 いるのは病気と闘う誰か、そして、その誰かを支える誰かだけ。

 それゆえ空気は重たく、苦悶と寂寞、悲哀が渦巻いている。いるだけで生気が吸い取られ、疲れ果ててしまうこの場所で日中過ごしていると、こう思う。

 パワースポット、行きたい!

 ああ、今むーちゃんと再会したら土下座して謝罪したい。当時の彼女も、日々鬱憤をため込んでいたのかもしれない。パワーを得ないと、癒されないと、生きていけないと思っていたのかもしれない。今の俺みたいに。

 昨日、親しくしていたおばあさん、ギンさんが死んだ。

 ここに勤めていれば、それは日常の範囲内のことなんだと思う。彼女は元々病気で、いつ死んでもおかしくなかったわけで、何よりもう八二歳だった。大往生とも言える彼女は、他の年若くして死ぬ患者からすれば、幸運の部類に入るのだ。だから、誰も泣いてはいなかった。

 それなのに、俺はトイレに籠って、号泣した。

 ギンさんは、初めて俺に打ち解けてくれた患者さんだった。

 遺体が引き取られた後、彼女の私物は引き払われて、部屋はきれいに清掃された。彼女付きだったナースの吉野さんは少しの感傷も見せずにきびきび働いているし、隣のベッドの森下さんも、昨日と変わらずぐうぐうと眠っている。

 いつも通りになれないのは、俺だけだった。

 それが恥ずかしくて、いつも通りに振舞おうとして、だけどそれって人間としてどうなのって気になって、一周まわって、そんなことを思う自分が恥ずかしいと思うようになった。

 そして、悟った。

 俺はこの仕事に向いてない。

 両親が医者だったから、何となく医学部を受験した。大学に受かって、皆がすごいと褒めてくれて、だから疑問も持たずにそのまま進学し、今、研修医として働いている。

 だけど、辛い。

 どうしようもなく、辛い。

 苦しむ人を助けたいとか、医療現場に貢献したいだとか、そんな夢を抱いて医者を目指したわけじゃなかった。幼き日に誰もが抱く荒唐無稽な「夢」には手の届くはずないことを早々に悟り、その代わりになるものを選んで、ただ何となく考えないまま、ここまで来てしまった。ようやくその報いがきたのだ。

 高三の時、医学部受験に失敗した友達は企業に就職し、「俺の代わりに頑張れ」と酒をおごってくれた。両親はいずれ継ぐ俺のためにと、自宅のクリニックをリフォームした。他の道に進むのは、もう許されない。

 いっそのこと、死のうかな?

 そう思ったのが、冗談だったのか、そうでないのか、自分でもわからない。

 とにかく、パワースポットに行きたかった。

 踏ん張る気力が残っていない自分にエネルギーを注ぎたかった。

 だけど、短い休憩時間じゃどこにも行けない。

 窓に目を向けると、空が青かった。

 水彩絵の具を溶かしたみたいにきれいな水色に真っ白な入道雲がもくもくと立ち昇っている。

 居ても立ってもいられなくなって、屋上に向かう。

 八月、ガンガン照りの真っ昼間だ。今朝のニュースでは「熱中症に気を付けて」とアナウンサーのお姉さんが言っていた。そんな日に屋上に出るなんて馬鹿らしいとわかっていたけど、行かずにはいられなかった。

 正しい姿勢で礼儀正しく、だけど足だけは限界まで早く動かす。

 細長い廊下をひたすら突き進み、ほこりの溜まったコンクリートの階段を駆け上がると、屋上に通じる強化ガラスの扉を開き――

「あ」

 先客がいた。

 がちゃん、とドアが閉まった。

 持っていたビニール袋を落として、中の菓子パンが転がった。

 額をつらりと汗が流れ、唇に触れた。

 しょっぱかった。

 だけど、汗を拭うことすらできずにその場に呆然と突っ立って、先客――屋上の端に仁王立ちした女の子を見つめていた。

 こちらに背を向けているから顔はわからないけど、十代後半か、二十代前半くらいでまだ若い。病院には似つかわしくない、健康そうな女の子。

 着ている細身のシャツが汗でじっとりと濡れて、下に着ているキャミソールが透けて見えている。ミニスカートから伸びる真っ直ぐな足はとてもきれいで、だけど、俺が呆然としてしまったのは、その色っぽさにやられてしまったからではない。

 彼女が歌を歌っていたから。

 その歌が、凄まじいパワーに満ちていたから。

 彼女の歌っているここは、間違いなくパワースポットだった。


   *


「え、あ……うわあっ!」

 一曲を堂々と歌い上げた彼女はくるりと振り向いて、大声を上げた。

目を見開き、俺を見つめるその表情は、ただ単に人がいて驚いた、というレベルではない。夜道で斧を片手に持った暴漢に追いかけられているかのような、もうおしまいだ絶望だ死んでしまうかもどうしよう、という顔だった。

「……えっと、すみ、ません」

 思わず頭を下げる。

 屋上の出入りは自由だから、謝る必要はない。ないのだけど……怯えた様子の彼女を見て、謝る以外に何ができるだろう?

「いえ、あの……誰かいるとは思わなかったので」

 一拍置いた後、女の子は慌てたようにそう言って「こちらこそ、すみません」と、ぺこりと頭を下げた。

「そ、そうですよね。今日暑いし、こんな日に屋上行こうなんて、普通、思いませんもんね」

 白々しく笑ってみると、彼女も気まずそうに微笑んだ。

 眉尻が下がり、丸い瞳が柔らかく細められるのを見て、可愛い子だなと、そう思った。

 熱くなった頬にパタパタと手を振って風を送りながら、落としてしまったビニール袋を拾う。

「あ、これ、飲みます?」

 パックのカフェオレを差し出すと、彼女は「いいんですか?」と、窺うように見つめてくる。

「はい。あの……歌、すごく上手だったから。聞かせてもらったお礼です」

 別に、やましい気持ちはない。紛れもない本心だ。

 今の今まで抱いていたもやもやは、彼女の歌声を聞いた瞬間、吹っ飛んでしまった。

 そのお礼だ。

「そんなこと……」

「あります」

 断言すると、彼女は照れたように頬を掻く。

「ありがとう、ございます」

 もじもじしながら呟くその姿は……やっぱり、可愛い。

「あ、あそこに座って飲みません?」

 これってナンパになるのかなあ、なんて思いながら、給水塔の下のベンチを指さすと、彼女は小さく「はい」と頷いてくれた。

 ペンキの剥げかけた年代物のベンチに二人並んで腰かける。

ちょうど日陰になっているからか、座面はひんやり冷たくて、気持ちが良かった。

吹いてくる風を受けながら、菓子パンにかぶりついたその時、

「本当は、人前では歌わないんです」

 ぽつりと、女の子が言った。


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