去り際にキス
「っ」
頬に温かなものが触れて、顔の温度が一気に上がる。
「……さすがに、唇は無理だった」
独り言のように呟くと、彼女は「それでは」と小声で言って、自らドアを開けて出て行った。
去り際にキス、が映画になぞった行動だったと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
二日後、彼女はバイト先に訪れて、シャツの入った紙袋を俺に渡した。
「ありがとう」と言うなりそそくさと帰ってしまい、またもや連絡先を聞けなかったことに絶望していたのだけど、帰宅して袋の中を見ると、電話番号とメールアドレスが書かれたカードが入っていた。
すぐさま連絡し約束を取り付けて、次の週にはデートをした。
前回の至らなさを改善すべく、恋愛指南書を何冊も読み込んで、恋愛経験豊富な友達に相談しまくった。「何でも聞いて! いつも勉強教えてもらってるお礼」「良ちゃんのそういうとこ、俺、好きよ」「自分のことに一生懸命になってくれる男の子に女は弱い! だからね、それをアピールして……」みんなは概ね俺に好意的で、デートのプランを一緒に考えてくれた。
それが功を奏した、わけではないと知ったのは、三回目のデートで告白し、OKを貰った時だ。
夕食を食べたレストランの入っているビル最上階の展望室で、「好きです。付き合って下さい」とストレートに告げたのだけど……
「良かった。ずっと……初めて部屋に行った時からずっと、待ってたんだ。良治くんがそう言ってくれるの」
「そ、そうなの?」
「うん、そうじゃなきゃ、ほっぺにキスなんてしないよ。私はハリウッド女優じゃなくて、しがない女子大生なんだから」
「じゃあ、家に行ったら彼氏が待ってたり……なんてこともない?」
「ないよ。そもそも私、親と一緒に住んでるし。今度遊びに来る?」
「いいの?」
「その代わり、良治くんちにも呼んでね」
「……うん、いつか、ね」
父はきっと潤を歓迎しないだろう。だけどいつか、絶対にいつか連れて行き、認めてもらう。俺は彼女が大好きで、この先もずっと一緒にいたいのだから。
一度回った展望室を、今度は手を繋いで、ぐるりと回る。
恋の成就は街並みを輝かせ、夢のような景色にしてくれた。
その後、俺たちは驚くほど順調に仲を深めた。要因はいくつもある。
一つは単純に、思っている以上に気が合ったこと。
特別なことをせずとも、何気ない話をしているだけで、幸せを感じられた。
二つ目は、これはもう神様の祝福じゃないかってほどに、ロマンティックな偶然が起こったこと。
デート中に結婚式を挙げるカップルを頻繁に見かけたり、約束もしていないのに街中で出会ったり、潤に着てほしいなと思った服を、次のデートの時に着てくれていた、なんてことも……他にも言えないくらいのたくさんのことがあった。
三つめは、意外な共通点が多かったこと。
まず、映画鑑賞っていう趣味が同じだったし、共通の友人がいた。まあ、これに関しては、昔行った合コンでアプローチをかけられた女の子が潤の友達だったという、かなり気まずい出来事なのだけど。あとは食べ物の好みとか、好きな服装のジャンルとか、細かいものをあげればキリがない。
ああ、でも一つだけ、一番大きな共通点を挙げるとしたら――それはたぶん、家庭環境だ。
「あとで色々説明するのが面倒だから、初めに言っておくね。……一緒に住んでいるのは母親なんだけど……私とは血が繋がってないの。小さい頃、養子として引き取られてるんだ」
それは、初めて潤の家を訪れることになった道中の出来事だ。
手土産のお菓子を買って、道すがらのショーウィンドウで何度も自分の服装を確認して(自宅でも散々チェックしてきたのに)いざ家に入らん! と気合いを入れていた時のこと。
ドアに伸ばした手をぴたりと止めて、潤が唐突に言ったのだ。
「そう、なんだ」
「だから、普通のお母さんにしては年が上だし、私のことを『潤さん』って呼ぶ。私も母のことは『喜代さん』って呼んでる。喜代さんはね、私を産んだ実母の年上の親友なんだ。だから私に実母がちゃんといて、愛してて、彼女こそ母親だって覚えててほしいんだって」
さらりと言われたその言葉を、頭の中で反芻する。
――彼女こそ母親だって覚えててほしいんだって。
もしかして、潤も俺と同じなのだろうか。
愛情は実母からもらうものだと告げられて、養母である今の母親からは恩を与えられているのだろうか?
そんなことを思っていると、潤は「じゃあ開けます。準備は良い?」と笑った。
「うん、お願い、します」
口にすると、潤がドアを開けて、「喜代さーん、連れてきましたよー」と声を上げる。
「はいはい、潤さん、お帰り。あなたが良治さんね……いらっしゃい」
楽しげにそう言った女性は、潤が言うようにかなり年配で、母親というより祖母と言った方がしっくりくる。立ち姿も小柄な潤とは全く似ておらず、かなり大柄で、ふっくらしている。
だけど、ふわふわとした笑い方がそっくりだった。
「初めまして。志賀良治と言います。潤さんとは、真面目なお付き合いをさせていただいています」
「聞いてるわ。とっても素敵な人だってこともね。――さあ、中に入って。夕飯の準備、できてるの」
「この臭い……鳥のザクザクフライ、作ってくれたゆだ」
「作ったわよ。前に潤さんが買ってきてくれた特製スパイスをまぶしたら、すごく美味しくなったわ」
「やっぱり? ザクザクフライにぴったりだと思ったんだ。でも、いつものタルタルソースのも食べたかったなあ」
「そう言うと思ったから、用意してありますよ」
「さすが喜代さん」
お喋りしながら並んで家に入る二人の姿は自然で、あまりにも「家族」だった。
俺が心から欲していたものだ。
いくら以前よりは良好になったとはいえ、未だに父と俺は「家族」ではない。二人の仲睦まじい姿はにその現実を突きつける残酷なものであるのと同時に、いつの日かこうなれるかもしれない、という希望でもあった。
何しろ彼女たちの間に血の繋がりはない。
元からあったわけじゃない愛が確かに今、ここにあるのだ。
「良治くん、どうしたの?」
「何か困りごとがあったなら、教えてね?」
「いえ! 何もないです。すみません!」
慌てて二人の後に従い、リビングに入る。
一角にあるダイニングは天井から垂れた丸い電球が照らす、温かみのある空間だった。
円卓にはたくさんの陶器の皿が並べられていて、その一つ一つに色とりどりの料理が盛られている。
「どれも美味しそうです」
「この子、たくさんのお料理を少しずつ食べるのが好きなの。手間がかかって仕方がないわ」
「ごめんね。いつも手間をかけて」
「ふふ、手間がかかる子ほど可愛いって本当よね。――それはいいとして、さあ、座ってくださいな」
促されて椅子に座り、潤と喜代さんと一緒に円卓を囲む。
大学のこと、趣味である映画の話、潤の話……美味しい食事を食べながらの会話は思った以上に盛り上がり、初対面とは思えないほどに打ち解けることができた。
そして、たくさんあった食事がすっかり空になった時、
「良治さんって、お酒は飲める?」
喜代さんから思い立ったように聞かれて、深く頷く。
「はい、好きです」
「それじゃあ、何か飲まない?」
「ぜひいただきたいです!」
立ち上がり、嬉しそうな顔で準備する喜代さんを見ていると、潤が耳元で囁く。
「喜代さんね、私とお酒を飲んで、一緒に酔っぱらって、わいわいやるのが昔からの夢だったらしいんだけど……叶いそうもなくて残念がってたの。だから私の代わりに良治くんで、夢を叶えようとしてるのかも」
潤は下戸だ。
一滴でもアルコールが入ると、意識が飛んで寝込んでしまうらしい。
「叶えられたらいいんだけど……」
「え、一緒に飲んでくれるんでしょ?」
「俺、どれだけ飲んでも全く酔わないんだよ。テンション上がったりとかもなくて、今と変わんないんだけど、大丈夫かな?」
「んー、大丈夫じゃない。良治くんって、酔っ払ってなくても、酔っ払ってるみたいなところあるし」
「え、えーっと……ごめんね」
「違うの、悪い意味じゃなくて……良い意味で。明るいし陽気だしにぎやかだし」
「ほぼ一緒の意味じゃん」
「それから、ほら、恥ずかしいことでも難なく言葉にしちゃうし」
「……そう?」
「うん、とにかく一緒にわいわいできるから、大丈夫だよってこと」
潤が笑ったのと同時に、喜代さんがグラスをテーブルにトンと置く。
「これ、私が作った果実酒なの。嫌いだったら、交換するから言ってね。ビールもワインもハイボールもあるから」
「ありがとうございます。甘いお酒、好きなんです」
乾杯する俺と潤さんをじっと眺めながら、潤がぼそりと口にする。
「果実酒って、すっごく良い香りするんだよね……私も飲みたかったなあ」
「潤さんはだめよ。あなた、前に倒れたじゃない」
「うん……あの時、せめて味わえてたら良かったのに。一滴くらいしか飲めなかったから、味もわかんなかった」
「我慢なさい。あなたの好きな抹茶アイスも買ってあるから」
「やった」
楽しい時間は夜更けまで続き、その日は結局、有佐家に泊めてもらった。
翌朝、最寄りの駅まで送ってくれた潤が、改札前でしみじみと俺に告げた。
「喜代さんがあそこまで酔うとはなあ……ごめんね、良治くん」
「ううん、俺も楽しかったし」
昨夜、酒が入ってからの喜代さんはすごかった。
具体的に言うと、それまでオブラートに包んであった潤への愛情、そして親友だったという潤の母親への愛情までもがオブラートを突き破り、全て駄々洩れになっていた。
――潤さんのママはね、優しくて純粋な、本当に素敵な人だった。それが悪い男に騙されて、酷い目にあって……当時身ごもっていた潤さんを守るために逃げ出したの。それからは必死に働いて、潤さんを守って、愛して、いいお母さんになったわ。そして……。
――潤さんは本当に愛らしかった。喜代さんにってお花を摘んできてくれたのよ。当時、私は一緒に暮らしていたわけではなかったけど、それでもお母さんと同じだからって、笑顔で言ってくれて……。
――ねえ、良治さん、潤さんは私の宝物なの。絶対に絶対に、幸せにしてあげてね。
潤の生まれるまで、そして生まれてから今までの成長端を長々と語り、幸せな未来に思いを馳せる喜代さんに、俺は必死に対応し続けた。
「良治くんは優しいね。でも本当に、プレッシャー感じたりしないでね。何も気にしないで」
潤は昨晩も、酔っぱらった喜代さんを止めながら、申し訳なさそうな顔をしていた。
だけど、そんなことを思う必要は全くなかったのだ。俺は本当に楽しかったし、それに……
「君を幸せにするってあの言葉は、俺の本心だよ。その場しのぎの対応じゃない」
俺は潤のことが、本当に好きだった。
初恋マジックと言われたらそれまでだけど、ここまで愛しい人ができた今、かつて想像していたように、父の望む人を好きになり、家庭を作るなんて無理だ。
「……」
黙り込んだ潤を見て、タイミングが悪かったかな、と少しだけ後悔し、慌てて話題を変える。
「喜代さんに会ってしみじみ思ったけど、潤の家族って、本当に素敵だよね。義母の喜代さんは理想的なお母さんだし、それでいて本当のお母さんのことも大切にしてる。椿ももちろん、二人ともを大事に思ってるんでしょ? それってすごいよね」
いきなり話題が変わったことに驚いたのか、椿は逡巡し、ぎこちなく笑った。
「大事だよ、二人とも。すごく大好き。でも……」




