ノッティングヒルの恋人
脇目も振らず勉強を頑張った結果、父の母校でもあるこの国屈指の私立大学に合格した。田舎から通うには遠すぎたため、用意してもらった住処は学生には不相応な、高級マンションだった。こちらの希望は聞かれず、借りてあったピカピカの一LDKに初めて入った時、返さなきゃならない恩が増えたな、と思わず苦笑いしてしまった。
同級生たちの大半は授業をサボって遊びに勤しんでいたけど、俺は勉学に熱中した。もちろん友達もたくさん作って、大学生活は謳歌したし、バイトも始めた。金銭は余るほど与えられていたけれど、これ以上恩を重ねたら、返せなくなってしまうのではないかと不安だった。なるべく自分で金を稼ぎたかった。
バイト先に選んだのはレンタルビデオ店だ。二十四時間営業で、夜勤を選べばバイト代も良いし、何より俺は映画が好きだった。当時はまだVODが普及していなくて、自宅で映画を見るのには店でDVDを借りてくるのが一般的だった。俺は店長から許可をもらい、バイト終わりに一本DVDを借りて、次のバイトまでに返却する、という日々を過ごしていた。恋愛映画を見る度、いつか運命の人に出会って恋に落ち、愛に溢れた家庭を築く自分を夢見た。愛する人が傍にいて、当然のように愛を注げる血の繋がった我が子との暮らし。大学の友人たちが当たり前に持っていて、俺が持ちえなかった普通の家庭。
そんな幸せな妄想に耽っていたある日、人生の転機が起こった。
夜勤明けの朝、職場前の自販機で買ったオレンジジュースを片手で持ち歩いていると、通りすがりの女性と肩をぶつけてしまったのだ。
「っ」
「すみません!」
頭を下げて、ぎょっとする。
彼女の白いシャツの胸元にオレンジ色のシミが出来ている。
ペットボトルの蓋が少しだけ開いていて、俺と彼女の服を濡らしてしまっていた。
「本当に申し訳ない。これ、ハンカチ。拭きましょうか?」
「結構です」
「ああ、えっと、そんなつもりじゃ……でもすみません!」
胸元を押さえる彼女に平謝りしながら、やり取りに既視感を覚えていると、くすくすと小さな笑い声がした。
「あの、着替える場所は貸してくれないんですか?」
顔を覗き込まれて、はっとする。
「常連さん、ですよね?」
「そうです。今日も今から行こうかなって」
女の子ははころころと笑いながら、ビデオ屋のビニール袋を掲げる。
「この前店員さんがおすすめしてくれた映画、めちゃくちゃ面白かったです」
彼女はバイト先のビデオ屋によく来る女の子で、先週「ロマンティックで少し笑えるラブロマンス教えてください」と尋ねられたのに対応したのだ。その時俺が勧めた映画が「ノッティングヒルの恋人」で――
「あ、だから『着替える場所』か……」
映画「ノッティングヒルの恋人」では、本屋の店主である主人公のもとに客としてヒロインが訪れる。そしてその後、道すがらにオレンジジュースをひっかけて、彼女と再会するのだ。着替えができる場所に連れていくという名目で自室に招いたことで、二人の関係は進展するのだが……とにかく、今のこの状況とそっくりだ。
「今気づいたんですか?」
彼女は笑みを深め、俺をじっと見つめる。
「すみません、鈍い上に、頭、働いてなかったから……それで、俺の家、まさにすぐそこ、目の前のマンションなんです。寄っていきます? もちろん変なことは考えてませんよ!」
俺の家がどこにあるかなど、彼女は知らないはずだし、映画にちなんだ冗談だったのかもしれない。だけど、びっしょり濡れた彼女の服を見たら、家で着替えてもらうのが一番いいような気がしたのだ。
「じゃあ、お邪魔してもいいですか? ハリウッド女優じゃなくて申し訳ないですけど」
「いえ、そんな……とにかく、どうぞ!」
「あ、名前も知らない女を自宅に入れるの、嫌ですよね。自己紹介します。私は、有佐潤です。近くの大学のニ年生です」
「俺は志賀良治。俺もニ年生です」
簡単な自己紹介の後、彼女は「お邪魔します」と言って部屋に入ったのだけど……初めて異性を部屋に入れた身としては、その時の状況はハードルが高かった。
「着替えます? シャワー浴びます? 何か飲みます? それとも食べます?」
緊張を誤魔化すため、映画に即した台詞でおどけてみせると彼女はにっこり笑ってこう言った。
「着替えます。だけどその前にシャワー貸してもらえますか?」
断じて言うが、質問に邪な気持ちはなかった。
映画では、ヒロインはシャワーを浴びないのだ。
「あ、はい……どうぞ。着替えは俺のシャツで良いですか? 確か、この前買ったばかりの新品があったはずだから、持ってきます」
「ありがとうございます。……というか、敬語じゃなくていいですよ。同い年みたいなので」
「えーっと、じゃあ君も、敬語なしでお願い」
「うん、わかった」
何とも照れくさい感じになりながら、俺はクローゼットにしまっていた新しいシャツを持ってきて、タオルと一緒に彼女に渡した。
「シャンプーとか石鹸とか、何でも自由に使ってくれていいから」
「うん、それじゃあお言葉に甘えるね」
潤は持ち物をぎゅっと抱きしめて部屋から出ると、そのまま案内した浴室に入っていく。
すぐにジャージャーという水音が聞こえ始めて、どうしたらいいのかわからなくなって、俺は一人ソファーに座ってただただ時間を持て余していた。
「She may be the face I can’t forget.
A trace of pleasure or regret.
May be my treasure or the price I have to pay」
そのうち聞こえ始めたのは、澄んだ歌声――映画の主題歌「she」だ。
愛おしい女性を思う温かく繊細で、ロマンティックな音楽が心をどうしようもないほどに震わせた。
すごい……すごい!
歌声が途切れた瞬間、思わずスタンディングオベーションした。
誰もいない、一人ぼっちのリビングで、手のひらが痛くなるほど拍手する俺は傍から見たら滑稽を通り越して、不気味だっただろう。だけど、わかっていてもそうせざるを得ないほど、感動してしまった。
「君の歌、最高だったよ」
やがて戻ってきた潤に駆け寄ると、彼女は照れたような顔で「ありがとう」とはにかむ。
「拍手、してくれたよね」
「思わずしちゃった……君、音大生とかなの?」
「違うよ。歌はただ、好きなだけ」
「そっか、そうなんだ」
「うん」
どちらからともなく笑い合ってから、ふいに気づく。
興奮のあまり前のめりで話しかけて、勝手に打ち解けた気分になっていたが、俺たちは単なる店員と客の間柄で、しかもほぼ初対面だ。さらに言えば彼女は可愛らしい女子大生で、俺が買った大きめのシャツを羽織っている。風呂上がりだからか頬は紅潮し、後ろで一つにくくった髪の毛の先が少し濡れていて……何だか恥ずかしくなってきた。
「そういうわけで、歌ってくれて本当にありがとう。何だか見たくなってきたな、『ノッティングヒルの恋人』……えっと、何か飲む? いや、帰るよね! そ、そうだ。クリーニング代はちゃんと払うからね?」
てんぱっていること丸わかりの早口でそう話すと、潤はすたすた歩いて俺の隣をすり抜けた。
壁際に置いてあったビニール袋を手に取ると、そのままこちらに差し出す。
「ありますよ、ここに」
「え?」
「『ノッティングヒルの恋人』。見たくなってきたって言ってたから」
「あ、ああ……ありがとう」
DVD入りのビニール袋を受け取りながら、俺の頭はフル回転していた。
潤は何を思ってこれを渡したのだろう?
俺は店員だし、渡したんだから返却ってことでいいよね、ということか。
もしくは……期待を込めて見つめると、潤は笑った。
「今から見るなら、私も一緒に見てもいい? ここのテレビ、大きいし」
「もちろん!」
心の中で、思わずガッツポーズした。
見たかった映画が今すぐ見られることに、じゃなくて、潤とまだ一緒にいられることに。
ほんの少しのやり取りだけで、俺は彼女に好意を抱いていたのだ。
とはいえ、それは単なるファン心理に近かった。歌に聞き惚れ、その才能に憧れてしまっていたのだ。ハリウッド女優を身近に感じて欲が出てしまう、みたいなもの。振られたって仕方ないかと諦められる程度の感情だった。――この時点では。
「少しだけ待ってて、飲み物持ってくるから」
「ありがとう。ソファに座ってもいい?」
「ああ、寛いでて」
その後はソファに並んで座って、二人で映画を見た。
先ほど潤が歌った「her」が流れ、主人公がヒロインとの出会いを思い出すところから、物語は始まった。文句なしに面白い流れだけれど、今日に限っては集中できなかった。
肩を震わせくすくすと笑ったり、瞬きせずに真剣な表情でじっと見つめたり、うっとりと目を細めたりする彼女の方にくぎ付けだったから。
そんな等身大の彼女を見つめた二時間で、ファン心理は見事に恋心に変わった。
彼女をもっと知りたいし、仲良くなりたい。今日限りではなく、次を約束できる関係になりたい。だけど、色恋に関しては完全に不勉強で、何をどうしたらいいのかわからない。
今まで女性と接点がなかったわけではない。恋愛的な感情を向けられたこともあるけど、浮ついた雰囲気は全力で排除してきた。そういう俺を父は望まない、そう思っていたから。
だけど今の俺は父のことなんてどうでもいい、と感じてしまうほどに、彼女に惹かれている。これがきっと恋なのだろう。
やがて映画が終わり、再び「her」が流れ始める。
潤はテレビから流れる音楽に合わせて歌いながら、とろけるような笑みを浮かべた。
「……何度見ても素敵。曲もいいし」
ぽつりと呟いてから、潤はすくと立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。長々とお邪魔しちゃいました」
「う、うん」
連絡先を教えて、その一言がどうしても言えないまま頷いて、彼女を玄関先まで送る。
「あ、クリーニング代……」
「大丈夫。洗えば簡単に落ちると思うし。シャツは洗って返すね」
「いらな――いや、それじゃあ、お願いします」
シャツなんてどうでも良かったけど、これでまた会える。約束ができたことにほっとしながら、小さく頭を下げる。
「……」
「……」
あとはドアを開けて「じゃあね」というだけ。
また会えるんだから、次に頑張ればいい。
変に引き延ばすのは格好悪いし、邪な気持ちを見透かされて悪印象だ。
わかっているのに別れるのが躊躇われて、不思議そうにこちらを見る潤をじっと見つめ返す。
すると彼女はやけに大人びた顔で笑い、背伸びをして――




