潤はーー
「そうなんです。前に話してたバーでのバイトです。ほら、私もう二十歳だから」
椿ちゃんのいうバーは、俺の行きつけで、二人を何度か連れて行った(もちろんノンアルコールしか飲ませてないけど)ミュージックバーヨシカワのことだ。
昼間はカフェ、夜間はお酒を提供するバーとして営業していて、曜日によって楽器が演奏されたり、歌い手が歌ったりする。今はちょうど前に働いていた歌い手が辞めてしまい、新しく募集をかけている。募集の条件は二十歳以上で、だから誕生日を迎えたら絶対に受けると、椿ちゃんは意気込んでいたのだ。
店主は大の音楽好きで、いかがわしさは全くない。だけどそれでも、お酒が入った客から絡まれる可能性はゼロではない。
「気を付けてね?」
「気を付けますけど、まずは受かってからですよ」
「受かると思うから言ってるんだよ」
歌に関して、椿ちゃんには人にはない才能がある。
その才能をマスターが見逃すはずがない。
「僕も大丈夫だと思うよ。……遅刻しなければだけど」
「え? あ! やばい……行ってきます!」
椿ちゃんは時計を見るなり大声で叫ぶと、慌てて立ち上がる。
バタバタと部屋を出る椿ちゃんの背中に「気を付けてね」と声を掛けると、「はーい!」と返事が返ってきた。
元気な姿を微笑ましく思いながら、間に合えばいいけど、と思っていると……
「……遅刻すればいいのに」
「え、どうしたの!」
毒のある発言にぎょっとして、雪くんを見る。
「ああ、実は僕、バイトには……というか、椿が人前で歌うのには少し反対なんです」
「そうなの?」
「はい。だって、歌ってる時の椿、母さんにそっくりじゃないですか」
「……まあ、確かにね」
椿ちゃんの容姿や性格は潤に似ていない。
だけど、歌っている姿はどこか潤を彷彿とさせるのだ。
「僕はこの容姿のせいで、今まで何度も面倒事に巻き込まれてきました。椿に同じ思いをさせたくないんですよ」
「そこまで思うのに、バイトに反対しないのが優しいよね」
「昔の僕ならしたと思います。……僕の前で歌わないでって、『双子のお願い』をしたこともあります」
「……なるほど」
昔――雪くんが、潤から憎まれ、殺されたのだと勘違いしていた頃、彼らはお互いだけを思う狭い世界の中にいた。当時は当時で幸せだった、と二人は語るけれど、俺には、相手を縛っていることへの後悔に苛まれ、苦しんでいるように見えた。相手を幸せにする責任が自分にあるのだと思い込み、若い年齢にそぐわない重たいものを背負っている……そんな風に感じられたのだ。
だからこそ、「双子のお願い」には圧倒的なまでの強制力があった。
「椿には断られちゃいましたけどね。あの時は驚いたけど、今は良かったって思います。人前で歌えてて、良かったって。だからと言って、大勢の前で歌うことに賛成、とまでは言えないんですが……」
「そう思えるようになったのって、何かきっかけでもあったの?」
「きっかけは……志賀さんが泣くのを見て、喜ぶ椿を見たことです」
「ちょっと、言い方! あれだよね? 初めてお呼ばれして、椿ちゃんが歌ってくれた時」
椿ちゃんが歌ったのは、リリースされていない潤の曲だった。
楽しそうに歌う椿ちゃんが潤の姿と重なって、同時に過去の、俺といた時の幸せそうな笑顔も思い出して……堪らなくなってしまったのだ。年甲斐もなく号泣した俺を見て、椿ちゃんはにこにこと笑っていた。
「はい。椿は歌うのが好きで、それと同じくらい、自分の歌で人に影響を与えるのが好きなんだなって、あの時気づいたんです」
椿ちゃんの歌は、雪みたいだと思う。
静かに舞い落ちて、心の中の一番温かなところですっと溶けて、染み渡る。いつの間にか心が潤っていて、安らかな気持ちで満たされる。
大げさかもしれないけれど、あの歌に救われる人は絶対にいる、そう思える歌を彼女は歌うのだ。
「だとしたら、バーでの仕事は天職かもしれないね」
「そうなんですよね。椿が楽しいのは嬉しいんですけど、心配だって気持ちもあって……はあ、複雑な心境です」
「まあ、心配はして当然だよ。なるべくたくさん店に通って、帰りは迎えに行く。俺たち二人で椿ちゃんを守り抜こう」
手を差し出すと、雪くんは小さく頷き、俺の手を握る。
「はい! 志賀さんが一緒なら、心強いです!」
それから数日後、予想通り、椿ちゃんはバイトに合格した。なので俺と雪くんは足繁くバーに通う日々を過ごしている。
「それでは、少し休憩いただきますね。後半もリクエストばんばん聞くので、よろしくお願いします!」
バーの奥に設けられた小さなステージで椿ちゃんがお辞儀すると、集まっていた数人の客が盛大な拍手をした。少し興奮した様子の彼女は俺たちに目配せすると、そのまま堂々とした歩みでステージを去っていく。
「次代歌姫、最高!」
「椿ちゃんっていうんだよね……可愛い」
「めっちゃ歌うまいな」
彼女の背中にかけられるのは満足げな客の声だ。
マスターに聞いたところ、客の評判は上々で、音大の声楽科出身だった前のバイトの子にも全く負けていないらしい。
今はまだ、彼女目当てに集まる客は雪くんと俺だけだけど、そのうち広くないこの店が彼女のファンで一杯になるかもしれない。いやそれどころか、いつの日か潤みたいに……
「椿って、歌手になりたいのかなあ」
俺と同じことを思ったのか、いつもよりとろんとした瞳の雪くんが小さく呟く。
「……雪くん、次はソフトドリンク頼むんだよ。お酒は一杯だけだからね?」
「わかってますって」
雪くんが肩を竦めるのは、先日、二人の酒の限界量について告げたばかりだからだ。
今後のトラブル回避のためだからと、面倒なおじさんだと思われること覚悟の上で、かなり真剣に伝えると、二人は素直に「わかりました」と頷いてくれた。その後、「こんな風に大人から注意されるのって、大事に思われてる感じがしますね」「何だか嬉しいねえ」と照れくさそうに付け加えられて、それが可愛くて悶絶したのは内緒だ。
「初っ端から記憶を失うという大惨事だったんで、絶対に一杯以上は飲みません。でも、自分がこんなに弱いなんて思わなかったな」
警戒心が強い雪くんからしたら、相当ショックな経験だったのだろう。
自嘲気味に笑いながら、雪くんとはため息を吐く。
「潤は下戸だったからね。一口飲んだだけで気絶してたらしいよ。君たちは……まあ、一杯は飲めるだけ、彼女よりは強い」
父親との接点は一切ないのだと、以前二人から聞いている。
こんな可愛い自分の子がいたら、俺ならめちゃくちゃ構いつくすけどなあ。
なんて思いながら、隣で抹茶ミルクを飲む雪くんを見つめていると、潤によく似た形のいい唇がちょんと尖る。
「志賀さんのお父さんも下戸でしょう? なのに、志賀さんは強い」
雪くんがそう言ったのは、おそらく酒が入っていたからだろう。
初めからセンシティブすぎる関係にあった俺たちの間にタブーはないけど、俺の父親の話題は、お互い必要がない限り口にしない。
単純に出して楽しい話題じゃないし、いくらこちらが責めていなくとも加害者家族である雪くんはどうしても罪悪感を覚えてしまうのだろう。
だから俺が雪くんの口から、父のことを聞くのはほとんど初めてで……って、それはどうでもいい。とにかく、今重要なのは――
「どうして、父が下戸だって知ってるの?」
俺が話したことはない。
絶対にない。
「あ、ああ……」
雪くんははっとしたような顔になると、「すみません」と謝ってから、気まずそうに続ける。
「実は……一度だけ、会ったことがあるんですよ」
「は?」
初耳だった。
どうして、父が雪くんに?
「えーっと、幼い頃、近所の道端に一人でいたら、志賀さんのお父さんに声を掛けられたんです。うちの子どもにならないかって。腕を引っ張られて叫んだら、母さんが来てくれて……その時、『こんなことするなんて、まさか昼から酔ってるんですか?』って言った母さんに『飲むわけないだろう。俺は下戸だ』って言ってたんですよね。あとで下戸って何って母さんに聞いて、初めて意味を知ったから、妙に印象に残ってるんです」
「……それ、警察には話してあるの?」
「いいえ。警察の聴取を受けた時には、気づかなかったんです。見せられた写真と印象が違ったから。写真ではいかにも頑固そうな強面おじいさんでしたが、あの時は優しい顔で……同じ人だって気づいたのは、事件のずっと後になって、週刊誌を読んでる時でした」
雪くんは言いながら、記憶を掘り返すようにこめかみに触れる。
「うん、優しかったんです。でも、だからこそ、僕はすごく怖かった。母さんも怒ってて……当時の僕には、まあ、今もですが……状況がよくわからなかった。だから、椿にも言えずにいたんです。この話をしたのは、今が初めてです」
父が殺されたあの事件の直後、事情聴取を受けた。元恋人が父親を殺害するにあたる理由を何度も何度も聞かれたけど、いくら考えてもわからなかった。二人に一番近かった俺がわからなかったのだから当然だけど、結局、警察も最後まで動機に関しては調べきれないままだった。
だけど雪くんの話を聞けば、想像がつく。過去に息子を攫おうとした相手を殺した母親、だ。――潤はきっと、我が子を守ろうとしたのだ。
気づいた時点で警察に伝えてくれたら良かったのに、と一瞬思って、雪くんがそうしなかった理由を察する。
雪くんは二年ほど前まで、潤が自分を殺そうとしていたと勘違いしていた。
我が子を憎み殺そうとする母親が、守るために人を殺すなんて思わなかったのだろう。
「……雪くん、今からでも警察に話そう。動機をはっきりさせて公表したら、世間の潤のイメージも変わるかもしれない」
「え?」
呆けた顔の雪くんを見て、お酒を飲みながらする話ではなかったかもしれないと少しだけ後悔する。
「潤は雪くんを守るために、父を殺した。そう考えるのが普通だろう?」
尋ねると、雪くんは眉間に皺を寄せ、うーん、と小さく唸る。
「僕を守るため……そうなんでしょうか? そもそも、どうして志賀さんのお父さんが僕を攫おうとしたのかがわかりません。営利目的じゃなさそうだし……まぁ、いずれにしても、無関係の僕を何度も攫おうとするなんて変ですよ。それを防ぐため、殺そうとはならない気がします」
この件に関しては雪くんも色々考えていたのだろう、その反論は確かに真っ当だ。
「何度も攫おうとするなんて、変、か……」
確かに変だ。
息子の元恋人の子ども。
しかも、俺の子どもではない。
……それに、雪くんは当然知らないだろうが、父は血縁以外を愛さないと公言するような人だ。養子にした俺でさえ突き放すような人が、どうして無関係の雪くんと一緒に暮らすなんて……わけがわからな――あれ?
無関係じゃ、なかったとしたら?
頭の片隅に恐ろしい考えが浮かんだその時――
「She may be the face I can’t forget.
A trace of pleasure or regret.
May be my treasure or the price I have to pay」
思い出深い曲が聞こえて、思考の全てがかき消される。
男性ボーカルのしっとりしたバラードを見事に歌い上げるのは、椿ちゃんだ。彼女はステージまでゆっくりと歩くと、俺を見てウインクした。
これは俺が前に、椿ちゃんに教えた曲なのだ。
彼女の面影は忘れられない。
楽しい思い出なのか、後悔なのか。
宝物なのか、払うべき代償なのか。
歌のタイトルは「she」、映画、ノッティングヒルの恋人で使われている曲だ。
この映画はハリウッドの大女優と冴えない本屋の店員が恋に落ちるという、所謂「身分差のある恋」をテーマにしたラブロマンスで、国民的歌姫になった潤と自分とを重ね合わせてるんじゃないか……って勘違いされそうだけど、そうではなくて、潤と出会った時に、彼女が歌っていた曲なのだ。
その後の俺たちの関係性も相まって、俺の中では潤といえば、この曲だった。
ただでさえ感傷を誘う旋律なのに、椿ちゃんの歌声で聞くと、もうだめだ。
思考が過去に飛ぶ。
心が潤で埋め尽くされる。
記憶が鮮やかによみがえる。
「She may be the song that summer sings.
May be the chill that autumn brings」
彼女は夏が歌う暑さのようでもあり、
秋がもたらす冷気のようでもある。
そう、潤は――




