潮騒
ザアザアと潮騒が聞こえる。
ゆったりとしたリズムで繰り返される、心を落ち着かせる音だ。
母が僕を殺そうとしたあの日は大雨で、この穏やかな音は聞こえなかった。
「そんなわけない。殺されかけたんだよ。記憶が曖昧な僕と違って、椿は見たんだろう?」
『見たよ。あの日は嵐みたいな大雨で、外の海がうねってた。そうわかったのは、後ろの大きな窓が開いてたから。母さんは開かれた窓のすぐ前で、苦しむ雪の口を塞いでた……殺そうとしてたと、そう思った。……だけど、それは嫌いだったからじゃない。愛していたから、そうしたんだよ』
「……意味が、わからないよ」
力なく呟くと、椿は淡々とした声で続ける。
『お母さんはね、雪と一緒に心中しようと思ってたんだよ。雪を殺して自分も死ぬつもりだったの』
滑らかな声で紡がれるそれは何かの物語のようで、とても自分に起きたこととは思えなかった。
だからこそ、僕は冷静に尋ねる。
「どうしてそう思うの?」
『歌ってたから』
「……」
国民的歌姫が僕たちにしか歌わない歌がある。
僕たちだけが、それを知っていた。
――私はね、届けたい人に向けて、自分の思いを歌うの。この歌はあなたたちに歌った歌だから、他の人には聞かせられない。……歌には本音しか乗せていないから、少し恥ずかしいしね。
喋っている時でも、どこか歌っているように聞こえた、母さんの声を思い出す。
その澄んだ声に、目の前の椿の声が重なった。
『消えてしまいたい。そう思うことがある。一番幸せな瞬間を永遠にするためにはそれしかないから。できるなら、愛しくてたまらないあの人と一緒に。昔も今もこれからも、あなたに出会った瞬間から、愛してるよ。ずっとずっと』
どこか切なくて、でもすごく優しい。
初めて聞く歌なのにどこか懐かしくて、それが母の歌だとわかった。
『昔、夜中にふと目が覚めたことがあって……その時に聞いたの。聞いた時は、綺麗な歌だな、としか思わなかった。でもあの事件があって、この歌を思い出して……この歌、公表されてないでしょう? つまり、これが母さんの本音なんだよ。愛してるから、雪と一緒に消えようと思ったんだよ』
そんなこと、あるわけない。
あるわけ、ない。
――雪くんは大事な人を絶対に殺せない。心中なんてできない。
ふいに頭の中で聞こえたのは、いつか誰かに言われた言葉だった。
ああ、この言葉を口にしたのは、誰だっただろうか。
『本当はすぐに言うべきだった。ーーだけど、惨めだったの。心中しようっていう時に、お母さんは私じゃなくて、雪だけを選んだ。お母さんの愛しいあの子は雪だけで、私は、雪を奪って一人ぼっちにしても構わないくらいの存在だった。それを自分で言うのが、どうしても嫌だった』
僕が母を好きなのと同じくらい、椿もそう思っていた。
その強い気持ちは、誰よりも知っている。
『……それに、雪のためになるとも思ったの。だって話したら、雪はお母さんのことを許して、受け入れるかもしれない。一緒に心中しようと思うかもしれない。だってお母さんと雪は似てる。顔もそうだけど、性格もふとした言葉も味の好みも全部がそっくりで……大好きな人と心中したいって気持ちだって同じかもしれなくて……』
「椿!」
我を忘れたように言う椿を落ち着けたくて、今度は僕が、椿の言葉を遮った。
「椿の推測は間違ってる。母さんは心中なんてしないよ」
『でも……』
「あのね、僕は今、別荘にいるんだ」
『……別荘? どうして……』
「ここには母さんが残した楽譜がある。それを椿にプレゼントしたかったんだ。本当は、前に誘った時も、楽譜を探すのが目的だったんだよ。それで今回は仲直りのきっかけに。……僕は、椿が大好きだから」
『私も……私も雪が大好き』
「それでね、僕はその大好きな椿を絶対に殺さない。心中なんてできない」
――心中なんてできない。それを椿にわからせてあげてよ?
頭の中で響くのが誰の声かはわからないけど、椿を大事に思ってることはわかる。
とても優しくて、少し寂しい声だ。
僕はきっと椿を託された。
確かあれはあの事故の時……ぼんやりと、一人の男性のシルエットが思い浮かぶ。
ああ、彼だ。
これは、僕を助けてくれた彼の言葉だ。
「母さんの歌には共感できるよ。幸せな瞬間に、大好きな人と死にたいって気持ちもわかる。だけど実際にするのとは別だ。――僕は大好きな人を殺したりできない。そして、僕に似てるなら、母さんも同じだ」
きっぱりと言い切ってから、僕はさらに続ける。
「それによく考えて? あの時、後ろの窓は開いてた。雨は部屋の中に入り込んでたし、母さんの髪はびしょ濡れだった。僕を殺して、一緒に窓から落ちるとして……母さんが濡れてるの、変じゃない?」
『一緒に飛び降りようとして、雪に抵抗されたんじゃないの? だから殺そうとした』
「いや、椿が言ったように、母さんが一緒に心中したいと言ったら、当時の僕は素直に受け入れたと思う。そもそも母さんだってそれをわかってたはずで……」
『だったらどうして、口を塞いだの?』
「「……」」
同時に黙って、沈黙が落ちる。
次の瞬間、ふいに、先程まで薄ぼんやりとしていた彼の顔が鮮明になった。
優しげな面立ちで、どこか飄々とした雰囲気がある。
少しだけ軽薄にも見えるけれど、それでも椿を大事に思っていることは伝わってきた。
「……あ」
『わかったの?』
「ごめん、別件で気になってたことがあって……わかってな」
そこまで言ってから、気づく。
一か月前、あの事故の時、同じようなことがあったのを。
「いや、わかった!」
叫ぶように言って立ち上がると、天上に頭をぶつけてがつんと音がして……なんと天井に穴が開いてしまった。
ゆっくりと頭を動かすと、がさがさ音がして上から埃やら木くずやらが降ってくる。
「わわ、どうしよ」
焦っていると、隣の部屋から志賀さんがやってきた。
「大丈夫? って、まだ電話中か……」
尻すぼみに言った後、口をぱくぱくして「ごめんね」と志賀さんがジェスチャーする。
『雪……人の声が聞こえたけど、一人じゃないの?』
「ああ、うん。人が一緒なんだ。志賀さんっていって……信頼できる人だよ、あの、今度椿にも紹介するから」
言い訳のように口にすると少しだけ間があって――
『恋人?』
「違う! 母さんの知り合いだよ!」
母さんの元恋人なんだ、とはややこしくなるので今は伏せておく。
ともかく、存在を知られたならもう、隠しておくのはやめだ。
「ねえ、スピーカーにしてもいい? 事情を話してる人だし……二人同時に知らせたいことがあるんだ」
椿の了承を得てから通話をスピーカーにし、張り出し窓の近くに携帯を置く。
『初めまして、雪の姉の椿です』「志賀良治です。突然話に入ってしまって、申し訳ない」『いいんです! 今度、お顔見てちゃんとご挨拶させてくださいね』「それは嬉しいなあ」と、何だかのほほんとした会話を交わし、志賀さんにこれまでの流れを説明した後、僕はこほんと咳を吐いて――
「母さん苦しむ僕の口を塞いだ。それは椿が見て、僕も知ってる事実だ。だけどそれは殺そうとしていたわけじゃない。――過呼吸への対処だったんだよ」
「……そうか」
頷く志賀さんとは違い、椿は呆けた声を出す。
『……かこ、きゅう?』
「うん、僕が前に別荘に向かう途中で起こした事故、あの時、僕は過呼吸になった」
あの時、僕の頭は混乱していた。
胸が苦しくて、息ができなかった。
死ぬかと思った。
そんな僕に、彼は……
「彼は適切な処置をしてくれた。ハンカチを僕の口に押し当てて、空気の量を調節してくれたんだ」
――大丈夫だから落ち着いて。ゆっくり呼吸を繰り返して。
彼は苦しむ僕に向かって冷静にそう語りかけてくれた。
初めは窒息しそうなほどに苦しかったけど、徐々に心が落ち着くのと同時に、息もできるようになった。
「覚えてるよね?」
『……うん、思い出した。今の今まで忘れてたけど……』
やっぱり、僕と同じ。
事故の時のことは、靄がかかったように曖昧なのだ。
でも、一つ思い出したら、芋づる式に記憶が戻ってくる。
「母さんも同じなんじゃないかな。過呼吸になった僕を助けようとした」
――事故のショックで過呼吸になってる。
彼はそう言って、てきぱきと指示を出したんだ。
でも、だとしたら、僕がショックを受ける事件があったはずだ。
自分の生死に匹敵するほどの恐怖、当時の僕が感じるとしたら……
「――僕は、母さんが自殺しようとしてるのを見た」
口にするのと同時に、当時の光景がフラッシュバックする。
母が窓から身を乗り出し、渦を巻く海に飛び降りようとする。
雨に打たれ、母の上半身はびしょ濡れだ。
僕はそれを止めようとして母にしがみつき、怖くて怖くて、そのまま息ができなくなった。
「……母さんは僕の異変に気付いて、飛び降りようとするのを止めた。過呼吸だと知ると、ハンカチを押し当てて、助けようとした」
あの時の彼みたいに。
「母さんは僕を愛し、守ってくれた」
自分で語った事実がすとんと胸に落ち、じんわりと心を温める。
母が自殺しようとした理由はわからない。
これからもわかることはないだろう。
だけど僕を助けることを優先してくれた。
それだけで、救われたと、そう感じた。
「あと一つ付け加えると、母さんは椿のことも愛してた。僕と同じくらいに。似てるとか似てないとかは関係ないよ。僕たちは双子で、どちらも母さんの子どもなんだから」
『そっ、か』
椿の声は掠れていた。
きっと泣いているのだ。
一人で抱えていた重たい疑惑から解放されて、ほっとして、嬉しくて。
「ちなみにその証拠、さっき見つけたよ」
そう言って志賀さんが差し出したのは、一枚の楽譜だった。
「それ!」




