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スノーカメリア  作者: 古浜夕
有佐雪
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20/38

潮騒

ザアザアと潮騒が聞こえる。

 ゆったりとしたリズムで繰り返される、心を落ち着かせる音だ。

 母が僕を殺そうとしたあの日は大雨で、この穏やかな音は聞こえなかった。

「そんなわけない。殺されかけたんだよ。記憶が曖昧な僕と違って、椿は見たんだろう?」

『見たよ。あの日は嵐みたいな大雨で、外の海がうねってた。そうわかったのは、後ろの大きな窓が開いてたから。母さんは開かれた窓のすぐ前で、苦しむ雪の口を塞いでた……殺そうとしてたと、そう思った。……だけど、それは嫌いだったからじゃない。愛していたから、そうしたんだよ』

「……意味が、わからないよ」

 力なく呟くと、椿は淡々とした声で続ける。

『お母さんはね、雪と一緒に心中しようと思ってたんだよ。雪を殺して自分も死ぬつもりだったの』

 滑らかな声で紡がれるそれは何かの物語のようで、とても自分に起きたこととは思えなかった。

 だからこそ、僕は冷静に尋ねる。

「どうしてそう思うの?」

『歌ってたから』

「……」

 国民的歌姫が僕たちにしか歌わない歌がある。

 僕たちだけが、それを知っていた。


 ――私はね、届けたい人に向けて、自分の思いを歌うの。この歌はあなたたちに歌った歌だから、他の人には聞かせられない。……歌には本音しか乗せていないから、少し恥ずかしいしね。


 喋っている時でも、どこか歌っているように聞こえた、母さんの声を思い出す。

 その澄んだ声に、目の前の椿の声が重なった。


『消えてしまいたい。そう思うことがある。一番幸せな瞬間を永遠にするためにはそれしかないから。できるなら、愛しくてたまらないあの人と一緒に。昔も今もこれからも、あなたに出会った瞬間から、愛してるよ。ずっとずっと』


 どこか切なくて、でもすごく優しい。

 初めて聞く歌なのにどこか懐かしくて、それが母の歌だとわかった。

『昔、夜中にふと目が覚めたことがあって……その時に聞いたの。聞いた時は、綺麗な歌だな、としか思わなかった。でもあの事件があって、この歌を思い出して……この歌、公表されてないでしょう? つまり、これが母さんの本音なんだよ。愛してるから、雪と一緒に消えようと思ったんだよ』

 そんなこと、あるわけない。

 あるわけ、ない。


 ――雪くんは大事な人を絶対に殺せない。心中なんてできない。


 ふいに頭の中で聞こえたのは、いつか誰かに言われた言葉だった。

 ああ、この言葉を口にしたのは、誰だっただろうか。

『本当はすぐに言うべきだった。ーーだけど、惨めだったの。心中しようっていう時に、お母さんは私じゃなくて、雪だけを選んだ。お母さんの愛しいあの子は雪だけで、私は、雪を奪って一人ぼっちにしても構わないくらいの存在だった。それを自分で言うのが、どうしても嫌だった』

 僕が母を好きなのと同じくらい、椿もそう思っていた。

 その強い気持ちは、誰よりも知っている。

『……それに、雪のためになるとも思ったの。だって話したら、雪はお母さんのことを許して、受け入れるかもしれない。一緒に心中しようと思うかもしれない。だってお母さんと雪は似てる。顔もそうだけど、性格もふとした言葉も味の好みも全部がそっくりで……大好きな人と心中したいって気持ちだって同じかもしれなくて……』

「椿!」

 我を忘れたように言う椿を落ち着けたくて、今度は僕が、椿の言葉を遮った。

「椿の推測は間違ってる。母さんは心中なんてしないよ」

『でも……』

「あのね、僕は今、別荘にいるんだ」

『……別荘? どうして……』

「ここには母さんが残した楽譜がある。それを椿にプレゼントしたかったんだ。本当は、前に誘った時も、楽譜を探すのが目的だったんだよ。それで今回は仲直りのきっかけに。……僕は、椿が大好きだから」

『私も……私も雪が大好き』

「それでね、僕はその大好きな椿を絶対に殺さない。心中なんてできない」


 ――心中なんてできない。それを椿にわからせてあげてよ?


 頭の中で響くのが誰の声かはわからないけど、椿を大事に思ってることはわかる。

 とても優しくて、少し寂しい声だ。

 僕はきっと椿を託された。

 確かあれはあの事故の時……ぼんやりと、一人の男性のシルエットが思い浮かぶ。

 ああ、彼だ。

 これは、僕を助けてくれた彼の言葉だ。

「母さんの歌には共感できるよ。幸せな瞬間に、大好きな人と死にたいって気持ちもわかる。だけど実際にするのとは別だ。――僕は大好きな人を殺したりできない。そして、僕に似てるなら、母さんも同じだ」

 きっぱりと言い切ってから、僕はさらに続ける。

「それによく考えて? あの時、後ろの窓は開いてた。雨は部屋の中に入り込んでたし、母さんの髪はびしょ濡れだった。僕を殺して、一緒に窓から落ちるとして……母さんが濡れてるの、変じゃない?」

『一緒に飛び降りようとして、雪に抵抗されたんじゃないの? だから殺そうとした』

「いや、椿が言ったように、母さんが一緒に心中したいと言ったら、当時の僕は素直に受け入れたと思う。そもそも母さんだってそれをわかってたはずで……」

『だったらどうして、口を塞いだの?』

「「……」」

 同時に黙って、沈黙が落ちる。

 次の瞬間、ふいに、先程まで薄ぼんやりとしていた彼の顔が鮮明になった。

 優しげな面立ちで、どこか飄々とした雰囲気がある。

 少しだけ軽薄にも見えるけれど、それでも椿を大事に思っていることは伝わってきた。

「……あ」

『わかったの?』

「ごめん、別件で気になってたことがあって……わかってな」

 そこまで言ってから、気づく。

 一か月前、あの事故の時、同じようなことがあったのを。

「いや、わかった!」

 叫ぶように言って立ち上がると、天上に頭をぶつけてがつんと音がして……なんと天井に穴が開いてしまった。

 ゆっくりと頭を動かすと、がさがさ音がして上から埃やら木くずやらが降ってくる。

「わわ、どうしよ」

 焦っていると、隣の部屋から志賀さんがやってきた。

「大丈夫? って、まだ電話中か……」

 尻すぼみに言った後、口をぱくぱくして「ごめんね」と志賀さんがジェスチャーする。

『雪……人の声が聞こえたけど、一人じゃないの?』

「ああ、うん。人が一緒なんだ。志賀さんっていって……信頼できる人だよ、あの、今度椿にも紹介するから」

言い訳のように口にすると少しだけ間があって――

『恋人?』

「違う! 母さんの知り合いだよ!」

 母さんの元恋人なんだ、とはややこしくなるので今は伏せておく。

 ともかく、存在を知られたならもう、隠しておくのはやめだ。

「ねえ、スピーカーにしてもいい? 事情を話してる人だし……二人同時に知らせたいことがあるんだ」

 椿の了承を得てから通話をスピーカーにし、張り出し窓の近くに携帯を置く。

 『初めまして、雪の姉の椿です』「志賀良治です。突然話に入ってしまって、申し訳ない」『いいんです! 今度、お顔見てちゃんとご挨拶させてくださいね』「それは嬉しいなあ」と、何だかのほほんとした会話を交わし、志賀さんにこれまでの流れを説明した後、僕はこほんと咳を吐いて――

「母さん苦しむ僕の口を塞いだ。それは椿が見て、僕も知ってる事実だ。だけどそれは殺そうとしていたわけじゃない。――過呼吸への対処だったんだよ」

「……そうか」

 頷く志賀さんとは違い、椿は呆けた声を出す。

『……かこ、きゅう?』

「うん、僕が前に別荘に向かう途中で起こした事故、あの時、僕は過呼吸になった」

 あの時、僕の頭は混乱していた。

 胸が苦しくて、息ができなかった。

 死ぬかと思った。

 そんな僕に、彼は……

「彼は適切な処置をしてくれた。ハンカチを僕の口に押し当てて、空気の量を調節してくれたんだ」

 ――大丈夫だから落ち着いて。ゆっくり呼吸を繰り返して。

 彼は苦しむ僕に向かって冷静にそう語りかけてくれた。

 初めは窒息しそうなほどに苦しかったけど、徐々に心が落ち着くのと同時に、息もできるようになった。

「覚えてるよね?」

『……うん、思い出した。今の今まで忘れてたけど……』

 やっぱり、僕と同じ。

 事故の時のことは、靄がかかったように曖昧なのだ。

 でも、一つ思い出したら、芋づる式に記憶が戻ってくる。

「母さんも同じなんじゃないかな。過呼吸になった僕を助けようとした」

 ――事故のショックで過呼吸になってる。

 彼はそう言って、てきぱきと指示を出したんだ。

 でも、だとしたら、僕がショックを受ける事件があったはずだ。

 自分の生死に匹敵するほどの恐怖、当時の僕が感じるとしたら……


「――僕は、母さんが自殺しようとしてるのを見た」


 口にするのと同時に、当時の光景がフラッシュバックする。

 母が窓から身を乗り出し、渦を巻く海に飛び降りようとする。

 雨に打たれ、母の上半身はびしょ濡れだ。

僕はそれを止めようとして母にしがみつき、怖くて怖くて、そのまま息ができなくなった。

「……母さんは僕の異変に気付いて、飛び降りようとするのを止めた。過呼吸だと知ると、ハンカチを押し当てて、助けようとした」

 あの時の彼みたいに。

「母さんは僕を愛し、守ってくれた」

 自分で語った事実がすとんと胸に落ち、じんわりと心を温める。 

 母が自殺しようとした理由はわからない。

 これからもわかることはないだろう。

 だけど僕を助けることを優先してくれた。

 それだけで、救われたと、そう感じた。

「あと一つ付け加えると、母さんは椿のことも愛してた。僕と同じくらいに。似てるとか似てないとかは関係ないよ。僕たちは双子で、どちらも母さんの子どもなんだから」

『そっ、か』

 椿の声は掠れていた。

 きっと泣いているのだ。

 一人で抱えていた重たい疑惑から解放されて、ほっとして、嬉しくて。 

「ちなみにその証拠、さっき見つけたよ」

 そう言って志賀さんが差し出したのは、一枚の楽譜だった。

「それ!」


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