嘘
「志賀さんが知ってる母は、まだ歌手じゃなかった頃の母ですよね?」
「ああ、恋人だったのは学生時代だからね。彼女が歌手になったのは、俺と別れてからだ。俺は、歌手としてのジュンもめちゃくちゃチェックしてたけど。曲も全部知ってるよ」
「そうですか……でも実はジュンには、志賀さんが知らない曲がたくさんあるんですよ?」
正確には「志賀さんが」というより「僕と椿以外の全員が」だけど。
「ジュンの歌には二種類ありました。誰かに宛てて、自分の思いを語った歌と、そうでない歌です。そしてジュンが世に出したのは、『そうでない歌』だけなんです」
*
例えばベッドに入って眠りにつく直前に、例えばお風呂の中でリラックスしている時に、例えば和気あいあいと食事をしているタイミングで……その時はいつも唐突に訪れた。
「……できた」
母が震える声でそう呟くのは、決まって新しい曲が生まれた時だった。
そしてその瞬間を、椿と僕はいつだって心待ちにしていたのだ。
「できたの?」
「どんな曲? 歌ってみて」
「うん、いいよ。タイトルは……スノーカメリア」
その歌ができたのは、別荘に遊びに来た日の夕方、誰もいない海沿いを散歩していた時のことだった。ゆっくりと歩きながら押し寄せる波を眺めていた僕と椿は、立ち止まって母の歌に耳を澄ませた。
「どうして好きなんだろう? 理由はわからない。だけど、これだけはわかる。あなたがいるから生きていけるってこと、そしてあなたがいるから死ぬことができるってこと」
母が歌うのは愛の歌だった。
夕日を受けてきらきらと輝く今の海みたいな、穏やかで美しい歌。
やがて一曲を歌い終えると、母は僕と椿を強く抱きしめる。
「この曲は椿と雪の歌だよ」
そう笑った母を、椿と僕もぎゅっと抱きしめ返した。
「私たちだけの歌? テレビじゃ聞けないの?」
「うん、私はね、届けたい人に向けて、自分の思いを歌うの。この歌はあなたたちに歌った歌だから、他の人には聞かせられない。……歌には本音しか乗せていないから、少し恥ずかしいしね」
「すごく素敵なのに、勿体ない。そうだ、歌詞だけ変えたらいいんじゃないの?」
「無理だよ。曲と歌詞は同時に降ってくるの。別の歌詞なんて載せられないよ。公表する曲はそれ用のがあるから大丈夫」
母にとって、曲を作ることや歌うことは単なる仕事ではなく、生きていく上で必要不可欠な、息をすることや食べることに等しい類のものであったのだと思う。
だからたくさんの曲を生んだ。リリースできるものと、そうでないものに分けていたけど、母はそのどちらをも大事にしていて、オリコン上位を獲得した名曲以上の音楽を、僕たちだけに贈ってくれた。
それが最高の贅沢だとはわかっていたけど、ちょっとした不満もあった。
「でも、お母さんがテレビで歌ったら、録画して何度だって見られるよ。私、毎日見たい」
「それに、どんな曲があったか覚えておくのも大変だよ。公表したのならCD並べたらすぐにわかるけど、そうじゃないのは忘れちゃったら二度と聞けない」
ぶつぶつと文句を言うと、母は僕たちを離して、至近距離でじっと見つめる。
「あなたたちのお願いなら何度だって歌うし、公表してない曲もちゃんと楽譜を作って取ってあるわ。だから、大丈夫」
僕たちの頭をぽんぽんと撫でた後、母は先ほど歌った曲のサビ部分を、もう一度歌った。
*
「ちなみに、今から取りに行く楽譜は、公表されていない、母さんが個人的な誰かに向けたものです」
僕たちに宛てた曲が多いけど、そうでないものもある。友達とか義母とか、中には恋愛ソングなんかもあった。
「かくれんぼで押し入れの中に隠れた時偶然見つけたので、別荘にあるのを椿は知らないんです」
「椿ちゃんは潤のこと嫌ってるんだろう? 喜ぶの?」
「椿は鼻歌で、楽しそうに母の曲を歌っています。母のことを嫌っていても歌は別なんじゃないでしょうか。だから、楽譜をプレゼントしようと思ったんです」
というか、椿は本当に、心から母を嫌っているのだろうか?
聞けば絶対に嫌いだと言うだろうし、似ていると言えばあからさまに落ち込むだろうけど……優しかった昔の母を知っているのだ。
そう簡単に割り切れるものだろうか?
「いいね、それ」
志賀さんは頷きながら窓の外を見て、はっとしたように言う。
「見えたよ。別荘、あれだろう?」
辿り着いたのは、予想よりもはるかにボロボロの建物だった。
記憶の中の綺麗な別荘との違いにショックを受けながら、椿を連れてこなくて良かったかもしれない、と思う。
小さくため息を吐きながら中に入ると、ぎしりと床が軋んだ。
「……志賀さん、危ないかもしれませんし、外で待っててくれませんか?」
好意でここまで連れて来てくれた志賀さんに怪我でもさせたら、申し訳ないにもほどがある。
振り返ると、すぐ後ろにいた志賀さんはゆっくりと首を横に振った。
「危ないなら、一人じゃ行かせたくないな。それに、潤が大事にしてた場所なんだろう? 思い出の場所に立ち入られるのが嫌じゃないなら、一緒に行きたい」
「嫌じゃないです。でも、気を付けてくださいね」
僕はゆっくりと歩を進め、かつて家族が笑い合った大部屋に入る。
まるで森の中にいるような気分になれた鮮やかな緑色の壁紙は色あせ、ところどころが剥がれかけている。天井には雨漏りの跡らしきシミがあるし、棚の上に置かれた可愛らしい木彫りの王様の人形は埃だらけで恨めしげだ。
だけど、天窓にはめ込まれたステンド硝子と、そこから差し込む光だけは昔のままで……何だか涙が出そうなほど、懐かしくなってしまった。
「く、空気が相当淀んでますね」
ずず、と鼻をすすっているのを黴のせいにして、窓を開け放つと、少し冷たい海風が感傷を吹き飛ばしてくれた。
僕はこほんと咳をしてから、部屋の奥にある納戸を開ける。
「たぶん、ここの棚のどこかに楽譜があると思うんです。プラスチックのケースに入ってるはずです」
納戸はそう広くないけど、ごちゃごちゃと色々なものが詰め込まれているから、楽譜を探すのは簡単ではなさそうだ。
「まあ、今日中には見つかるだろ」
志賀さんはそう言うと、腕まくりをして納戸の中を探る。
「ありがとうございます。気合を入れて探しますね」
僕もそれに倣って、中の物をどんどん出していく。
作業に集中するうちに時が経ち、気づいた時には日が沈みかけていた。
オレンジ色に染まった部屋を眺めていると――
「あ」
ふいに胸ポケットが震えた。
携帯電話を取り出し画面を見ると、そこには椿の名前がある。
「椿から電話だ」
椿には昨日のうちに、数日は帰らないとメールしてある。
返信はなく、椿が今どうしているかはわからないけど……きっと家で悶々としているのだろう。僕と違って椿には友達がたくさんいるけど、本音で語り合える相手はいないはずだ。
一人で全てを抱え込み、昨日のことを考えているだろう椿を想像すると、胸がぎゅっと痛んだ。
「……出ていいですか?」
「もちろん」
作業しながら頷く志賀さんに会釈して、隣の部屋に移動する。
海に面した大きな張り出し窓があるその部屋は、母が僕を殺そうとした部屋だ。
あの日、母さんに抱きしめられていた窓の前に座ると、僕は携帯の画面をタップした。
「もしもし」
『……雪……あの……私、雪に謝りたくて……』
椿は一旦言葉を切ると、少しだけ大きな声で続ける。
『本当にごめんなさい』
椿の声が震えているのがわかって、あえて明るい声を出す。
「やめてよ。むしろ謝るのは僕の方、あんな風に言ったら、椿が怒って当然なんだから」
『……当然じゃないよ。理由なんて……考えれば、わかることだった。あれからずっとずっと考えてたんだ。雪のこと……それで気づいたの。雪が怖がってるように見えたこと』
喉から絞り出すように告げられて、言葉を失った。
椿は自力で辿り着いてしまった。
もう誤魔化しようのないところまできているのだ。
『雪が怖がることなんて一つしかないよね。――あの時のこと。お母さんから殺されかけて、その後、私がそれを雪に『お母さんは雪を嫌ってる』からだって話したこと。それがトラウマになってる。つまり、私のせい、そうでしょう?』
自分を責めるようなその言葉に、思わず息を呑む。
最悪だ。
こんなことを言わせたくなくて、そのために別荘に来たのに。
「違う。椿は僕のためを思って言ってくれたんだってわかってる。それに、事実は事実だ。母さんは僕を嫌ってた。椿は当たり前の事実に気づかせてくれただけで、悪くな――」
『嘘をついたの』
僕の言葉を遮って、椿が強い口調で言う。
「うそ?」
言葉の意味が理解できなくてオウム返しに口にすると、
『そう、私は嘘をついたんだよ』
椿はきっぱりと、そう繰り返した。
『お母さんが雪を嫌ってるなんて、大嘘。お母さんは……雪を愛してたよ』




