初めての運転
僕はごくりと唾を飲む。
視線を伏せ、小さく深呼吸してから、心を落ち着かせて口を開いた。
「自分のせいだって、椿がそう自分を責めてしまう気がしたんです」
「椿ちゃんのせい?」
「嫌われるかもしれない人、少しでもその可能性がある人と関わりたくないと、僕がそう思うようになったのは、母が僕を殺そうとしたあの事件がきっかけでした。それまでは今とは逆で……何も考えずに誰とでも仲良くなりたいと思うタイプだったんです。でも、大好きだった母が僕を殺そうとして――」
ここから先を話すのは、志賀さんが初めてだった。
椿にすら話したことのない、僕の本当の気持ち。
「それでも僕は、母が僕を嫌ったとは思いませんでした。あの時覚えているのは母親の顔だけなんですが……とても優しかった気がするんです。だから僕は、『僕を殺そうとした』ことの動機――そこに紐付く母の感情を探ろうとはしませんでした。知りたくない、無意識にそう思っていたからかもしれませんが。……それを結びつけたのは、椿なんです」
*
あの事件があって、母が家に来ることはなくなった。
生活費は変わらず振り込まれていて、住み込みの家政婦さんが家のあれこれは整えていてくれたから、生活に不自由することはなかったけど……僕は母が来るのを今か今かと心待ちにしていた。
母が恋しかった。
寂しかった。
食事も満足に取れなくて、夜も眠れなかった。
何の根拠もなく、母も自分と同じ状況なのではないかと心配になった。
「椿、お母さん、今日も来なかったね」
「……」
「あんなことがあったから、顔を合わせづらいのかなあ。大丈夫だよって、メールしてみようか。あ、椿からの方がいいかな。僕より話しやすいかもしれないし」
「……」
「ねえ、椿、聞いてる?」
「……聞いてるよ。聞いてる。でも……私はお母さんなんてどうでもいいよ!」
「どうして?」
「……雪にあんなことをしたんだもん。雪はどうして心配できるの? 自分のことを嫌いって思う人のことを……」
椿の、喉から絞り出したような声は確かに聞こえていた。
だけど、理解できなかった。
――いや、本当は理解していた。
認めたくなかっただけだ。
僕の大好きな人が、僕を愛してくれるはずの人が、僕を嫌うなんて。
そんな絶望、信じたくなかったから。
「っ」
頬を伝って液体が流れてきて、唇が濡れる。
しょっぱくて、涙だと気付いて、ぶんぶんと首を振った。
泣きたくない。
泣いたら、悲しんだから、母が僕を嫌っていると、信じることになってしまう。
唇をぎゅっと噛みしめると、手のひらが温かなものに包まれた。
「雪……ごめんね。ごめんなさい!」
当時の僕たちにはまだあまり性差がなくて、顔もそっくりで、身長も同程度。手のひらの大きさももちろん同じだった。
僕たちは双子だと、特別な絆があるのだと、自分によく似た椿を見て、しみじみと思った。
至近距離で目を合わせると、椿が涙を流しながら、僕を見つめた。
縋っていいよ、と言ってるみたいに。
「椿……謝らないで」
「でも……」
「謝らないで。……お願いがあるんだ。僕を一番に想って。他に大事な人を作らずに、僕だけを見て? 絶対に嫌いにならずに、ずっとずっと好きなままでいて?」
無茶なことを言っていると、幼いながらにわかっていた。
だけど、椿は嫌な顔をせずに深く頷いてくれる。
「約束する。雪の、たった一人の特別な双子のお願いだもん。私、何でも聞くよ」
*
――あの時から、僕は椿にずっと依存し続けている。
「椿が『僕が母に嫌われてる』と言ったのは、事実に気づかない振りをし続ける僕に区切りをつけさせ、前を向かせるためだったんだと思います。事実、母のことを吹っ切って、椿だけを見るようになってから、僕は食事を取れるようになったし、夜も眠れるようになりました。……僕は椿に救われた。今も感謝しています」
椿が正直に告げてくれなかったら、今も僕は現実を見ずに、あの件を考えないようにして生きていたかもしれない。頭で理解している事実を心で否定して、ひたすらに気づかない振りをする日々は空虚以外の何でもなかっただろう。
それに比べれば、人と深く関わるのが怖いだけの今の生活は真っ当だし、これといった不便も不満もない。僕は今の僕に満足している。
僕が母に嫌われて、殺されかけたこと。
きっとそれは僕の運命で、仕方がないことなのだ。
悩んだ時期もあったけれど、今の僕は全てを受け入れている。
「でも……『母さんから嫌われた』と認めたことで、僕は好きな人から嫌われる絶望を知りました。それから、怖くなったんです。深く関われば、僕はきっと相手を少なからず好きになる。そして、その人から嫌われない保証はない。――だって、未だにわからないんです。どうして母親から嫌われてしまったのか、殺したいと思われるほどに、憎まれていたのか……」
尻すぼみに言ってから、小さく息を吐く。
これまで何度も考えたけど、わからなかった。
母はもう死んでいるから、永遠にわかることはないだろう。
「とにかく、僕が人を好きになりたくない理由はそこにあって、正直に告げれば、椿は自分を責めると思うんです。それだけは絶対に嫌なんです」
「じゃあ、今後もずっと、そのことは話さないつもり?」
椿は自分の全てを僕に見せてくれている。
本当は僕もそうしたいのだけど、椿を傷つけるよりはましだ。
頷くと、志賀さんは「わかった」と言って、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「じゃあ今回は、理由を話さないまま何とか誤魔化して、仲直りをする方法を探さなきゃいけないね」
誤魔化す、か。
頭にふいに思い浮かんだのは、つい先日見た恋愛映画のワンシーン。
男が浮気しているのでは、という疑惑を抱いた女が男を問い詰めるのだが、男はのらりくらりとかわし続ける。そのうち女は愛想をつかし……破局。
まあ、そうなるよなあ、という結末だった。
僕たちは恋愛関係ではないけど、絆が切れることは大いにあり得る。
「難しいですよね。真剣に向き合おうとする相手に対して、誤魔化そうとするなんて……不誠実ですし」
ため息交じりにぼやくと、志賀さんは考えるように言う。
「普通はね。でも、君たちには信頼がある。雪くんが椿ちゃんのために理由を言わないってこと、椿ちゃん自身もわかってるんじゃないかな」
「……なるほど。そうかもしれません」
双子だけど、わからないこともある。
だけど、通じ合える部分も確かにある。
「今は熱くなってるけど、少し距離を置いて冷静になれば、椿ちゃんだって許したいって思ってくれるんじゃないかな。それなら、そのきっかけを作ればいい。言われた通りに理由を話す、っていうのが一番だけど、それができないのなら、他のきっかけでもいいんじゃない? 心の奥で許したいって思ってるなら、多少は飲み込んでくれるはずだ」
「きっかけ、ですか?」
「そうだな、例えば相手が喜ぶプレゼントを渡すとか?」
「椿が喜ぶもの……」
「思いつかない?」
「いえ、思いつくには思いつくんですが……」
物欲のない椿が心の底から喜んでくれるもの、僕には一つしか思いつかなかった。
「楽譜、なんです」
「いいじゃない。歌が好きなんだよね? 何の楽譜?」
「昔、母が良く歌っていた曲です。――僕が殺されかけた例の別荘にあるんじゃないかって思ってて……実は少し前に探しに行く予定だったんです。サプライズで見つけて、その場で椿にプレゼントしようって考えてました。結局、行けなかったんですが」
そう、あの時は、椿との別れを意識していた。
だから椿に楽譜を贈って、歌を歌ってもらって、二人の世界で過ごす最後の、とびきり素敵な思い出を作ろうと思っていたのだ。
「それじゃあ、今こそプレゼントする良い機会じゃないか」
「そ、そうですね」
「どうしたの?」
「車でしか行けない場所なんですが……僕、車が怖いんです」
「んー、じゃあ俺と行く?」
「え?」
「もちろん、雪くんがいいならだけど」
「もちろん大丈夫です! よろしくお願いします!」
そういうことになったのだった。
*
翌日の早朝、志賀さんの車――偶然にも僕が前にレンタルしたのと色違いのスポーツカーだった――に乗せてもらい、一度は断念した別荘へと出発した。
街を出て、高速道路を走り、ぐねぐねと続く細い道を通り抜けると――窓の向こうに、海が広がっていた。
きらきらと光る水面の眩しさに目を細めていると、ゆっくりと窓が開く。
心地の良い海風が頬をさらりと撫でて、思わず頬が緩んだ。
「すごい……海沿いのドライブってこんなに気持ちがいいんですね」
エンジンから響く重低音に負けないように大きな声で口にすると、志賀さんが楽しげにハンドルを回す。
「自分で運転するともっといいよ、って、雪くんはついこの間、やったばかりか」
「初心者マークつけての運転ですよ? 緊張して、景色どころじゃありませんでした。めちゃくちゃ気を付けたのに、事故に遭うし……最悪な思い出です」
反射的にため息を吐くけど、広い海を眺めているからか、そこまで気分は落ち込まない。
そんな僕の様子を察したのか、志賀さんは声を上げて笑った。
「まあまあ、誰も死んでないんだから、大丈夫」
「そうですね、誰も死んでない」
当初の予定通り、椿を連れていたら……それで椿が死んでしまっていたとしたら、こんな風には笑えなかっただろうな。
そんなことを考えながら運転席に座る志賀さんを見て――ふいに思う。
志賀さんは母ともこんな風にドライブしたことがあるのだろうか?
「志賀さんと母さんとの思い出、聞かせてくれませんか?」
「突然どうしたの?」
志賀さんがくるりとこちらを向くものだから、僕は慌てて口を開いた。
「前、前見てください!」
「ああうん、ごめん、びっくりしちゃって」
「別に……何となく思っただけです。母さんがどういう人だったかを聞くことはあっても、母さんとの思い出は聞かなかったから」
ほんの気まぐれで深い意味はないのだと、そう意図を告げるけど、志賀さんは口元を緩め、楽しそうな顔になる。
「……正直すごく話したいんだけど、熱が入っちゃうからなあ」
「話したいなら話してくださいよ、志賀さんも僕相手なら何でも話せるでしょう?」
父親を殺した相手との恋愛話なんて、他の人には話しにくいだろう。
たくさんお世話になっているお礼に、いい聞き手として、話したい欲を満たしてあげたい。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。――後悔するなよ、雪くん」
そう宣言すると、志賀さんは意気揚々と思い出話を始める。
母、潤との出会いから始まり、奇跡的な偶然が重なり仲良くなっていく過程や恋に落ちた瞬間、恋人になってからの諍いやそれを乗り越え、絆が深まった出来事、最後だけはやけにリアルに振られたところまでを臨場感たっぷりに語られて――
「これで終わり。久しぶりに人に話したな。ああ、今でも瞳を閉じると当時の潤の顔が鮮明に思い浮かぶよ」
「閉じないでください! 運転中ですよ!」
ご機嫌な志賀さんにそう突っ込んでから、眉間に指をやり、いつの間にか寄っていた皺を伸ばす。
母親の恋愛話など、やっぱり聞くものではなかったかもしれない。でも、それより何より……
「……志賀さん、盛ってません?」
「盛ってない!」
志賀さんは首を横に振るけど、何の脚色もない、というのがあり得ないほどロマンティックすぎる。
何と言えばいいのか、僕の考える最高の恋愛シチュエーション、をありったけ詰め込んだ感じだ。
「……」
「本当に、ありのままを話しただけだって。ほら、僕と潤の恋は運命の恋だから!」
「……そうですね」
思い出というものは美化されるものだ。
現実よりも美しいだろうそれを否定したところで、何の意味もない。
それにさっき、良い聞き手でいたいと思ったばかりだし。
「信じていますよ。きっと神様が演出してくれたんですね。素敵です」
笑顔で口にすると、志賀さんが苦々しく笑う。
「……雪くんって本音が顔に出るよね……そこは潤に似てないかも。でもいいんだ。事実は事実だから。――まあともかく、次は雪くんの番だよ」
「え?」
「僕の知らない潤の話が聞きたい。思い出話、してよ」
志賀さんの知らない、母の話。
僕より志賀さんの方が圧倒的に母のことを知っている。まあ、母としての顔は知らないだろうけど、甘えただった僕を知られるのは恥ずかしいし……
悶々と考えて捻り出したのは、志賀さんが絶対に知らないだろう歌手ジュンの秘密だ。




