嫌わない人
その言葉に、幼い日の記憶が蘇る。
僕が母から殺されかけて、すっかり距離ができてしまって、そんなこんなで他人とも思えるような関係が続いていた頃、僕と椿がお互いだけを支えに何とかやっていたある日、母が志賀誠一郎を殺した。
初めに連絡を受けたのは母の所属していた事務所からで、わけがわからず呆然としているうち、ニュースの速報で詳細を知った。
母親が無関係の男性を殺した。
それを知っても、母がそんなことをするわけない、という家族らしい感情は出てこなかった。そう主張するほど母のことを知らなかったし、何より僕もかつて、母から殺されかけた身だったから。
だとしても、もちろん衝撃的な出来事ではあった。
元々僕たちの存在は隠されていたから周囲は静かなものだったし、未成年だった僕たちに多くは知らされなかった。ただテレビや雑誌で見る情報だけが知り得る全てで、身内として被害者の男性に申し訳ないという気持ちは湧いたけど、それ以上に現実味がなかった。
だけど……ある日、ワイドショーで流れた被害者の男性の顔を見て、それが現実だと一気に理解した。メディアは知らない、僕だけが知っていることがあったから。
志賀誠一郎、僕は彼に会ったことがあった。
まだ小学校にも通っていないくらいの、母親の立場も事情も知らなくてただ大好きだった頃――僕は彼に連れ去られそうになったことがあるのだ。
家の近くの通りで飛んでいた蝶々を夢中で見つめていると、いきなり腕を引っ張られ、「一緒に暮らさないか?」とやけににこやかに声をかけられた。断ると、路地裏に連れ込まれそうになった。
悲鳴を上げたら近くにいた母が飛んできてことを無きを得たけど、あの時感じた恐怖は大きなもので、椿にすら話すことはできなかった。
無関係ではない。
僕だけが知っているはずのその事実は、だけどすぐに明らかになった。思いもしない事実と一緒に。
志賀誠一郎は、母の元恋人の父親だったらしい。
しかしだからと言って、母が彼を殺した理由はわからない。動機として一番最初に考えるのは母が元恋人を恨んでいた(だからといって父親を手に掛ける理由はわからないけど)というものだけど、二人が交際していた学生時代を知る人物の証言によると、母が元恋人から酷い振られ方をした、という事実はないらしい。むしろ自らアプローチしたにも関わらず唐突に別れを告げたのは母の方で、恨まれることはあっても恨むことはないだろう、とその人物は語っていた。
インタビューにそこまでの信頼が置けるかはわからないし、そもそも男女のことだから、当人しかわからないあれこれがあっても不思議じゃない。だけどそれでも、元恋人の父親を殺すのがどうしてか……さらには元恋人の父親がどうして僕を攫おうとしたのかなんて見当もつかなかった。
わからない。
わからない。
何も、わからない。
誰にも言えず、ただそのまま時が過ぎて――今に至る。
未成年だった僕たちは事件加害者の親族でありながら、事件から隔離されていた。
被害者親族に直接会うのは初めてだったけど、かつて父親を殺した母にそっくりな僕を見て彼がどう思うか、想像するのは難しいことではない。
「……あのさ、勘違いしないでほしいんだけど、僕は潤を恨んではいないし、君をどうこうしようってわけでもない。だから、そんな顔しないでほしい。ただ本当に懐かしくて、嬉しくて、声を掛けただけなんだから」
志賀さんは神妙な顔でそう言って、僕をじっと見つめた。
「……そんなこと、あるんですか……僕の母が、あなたの父親を殺したのに?」
呆然と呟くと、志賀さんは少しだけ目を見開いた。
「ああ、君は……潤の息子さんだったんだ」
「あ……いえ、その……」
思わず口ごもると、志賀さんは僕を安心させるように柔らかな声で言う。
「大丈夫、誰にも言わないよ」
「……知ってたんですか?」
「知らなかったけど……君を一目見た瞬間、そうじゃないかって思った。そうじゃないと不自然なほど、そっくりだからね」
母の元恋人である彼が言う「そっくり」は、母と個人的接点のなかった大勢から言われる「そっくり」とは重みが違う。僕は本当に、母によく似ているのだろう。
「それと、さっきの話。潤のことを恨んでないっていうのは、本当のことだ。……正直、君を納得させるだけの理由はないけど……まあ、父親とは元々折り合いが良くなかったし、勘当されてるから、彼が死んだことに対する悲しみは少ないんだよ。だけどそういう何もかもを抜きにして、僕はどうしても、潤を嫌いにはなれないし……むしろ感謝してる」
志賀さんは自分の言葉を噛み締めるように、ゆっくりと続ける。
「運命の恋をした。ひと時でも確かな愛があった。それだけで十分だ。俺は一生、あの愛を支えにして生きていける。……どんなことがあったとしても、そう思っちゃうんだよね。だから、彼女の子どもで、そっくりな君にも好感を抱いてる。こうして一緒にお茶が飲めているだけで、すごく嬉しい」
「……」
突然出会った見知らぬ相手に予想外の話をされて、正直混乱していた。
何と言ったらいいかわからなくて黙り込むと、志賀さんは申し訳なさそうに続ける。
「ごめん、突然こんな重い話をされても困るよね。というか、知らないおじさんが語り出したらどんな話でも困るだろうけど」
明るい口調で言った志賀さんを見つめながら、ゆっくりと首を振る。
「……別に、大丈夫です。どうせ今日は暇だったし」
「良かった。俺も暇でね、何となく街まで来て、ぶらぶらしてたんだ。ほらこの商店街、この時間帯は人もあまり混まなくて、過ごしやすいだろう?」
「そうなんですか? 実は、僕はまだここに来るのは二度目なんです。先日近くに引っ越してきたばかりで」
「それじゃあ、おすすめの店とか教えようか? この辺、隠れ家的な美味い店がたくさんあるんだ。あ、迷惑だったら言ってね」
「いえ、助かります。美味しいもの、好きなんです」
「俺もだよ。この近くだと、おすすめはこのカフェの斜め向かいのビルにある――」
しばらくの間、僕と志賀さんは他愛無い話を続けた。
ユーモアを交えながら僕の調子に合わせて語られるトークは楽しくて、椿以外との会話を楽しいと思えたことに驚いているうち、あっという間に時が過ぎて――
携帯を見ると、椿からメールが入っていた。
友達と別れたから、あと三十分ほどで家に帰宅するらしい。
「あの……そろそろ僕、帰ります。姉が帰宅するので、夕食を作らないと」
「そっか、そうだよね」
志賀さんはうんうんと小さく頷くと、躊躇いがちに僕を見る。
「ねえ、良かったら……連絡先教えてくれない? 雪くんの気が向いたら、たまにこうしてお茶飲んだり、ご飯食べたりできないかな? もちろん嫌ならきっぱり断ってくれてもいいし、無視してくれてもいいし、逆に友達呼んで居酒屋リクエストして、俺のことを財布として利用しても構わないから!」
必死な様子にどう反応していいか困っていると、志賀さんは取り繕うように笑う。
「あーもう、何言ってんだろ。ごめんね」
立ち上がって「帰ろうか」と志賀さんが続けた時、自然に声が出た。
「いいですよ」
「いいの?」
「はい、僕も今日は楽しかったですし……この街には知り合いもまだいません。ぜひご一緒させてください」
そう口にしながら、自分が紡いだその言葉が社交辞令ではなく、紛れもない本音だったことに驚いていた。
*
「あの時僕は、志賀さんと関係を築こうとした自分に驚いたんです。そして、動揺したまま家に帰って、眠る前に考えて、気づきました。志賀さんと関わる気になったのは、僕を嫌わないっていう確信が持てたからだって」
だって、志賀さんはもう既に僕を嫌う条件をことごとく満たしている。それでも僕を嫌っていないのだから、これからも嫌わないだろう。
自惚れにも取れる内容をきっぱりと言い切ると、志賀さんは嬉しそうな顔になる。
「確かに、俺が雪くんを嫌うことはないよなあ。……でも、じゃあそれを、椿ちゃんに言いたくなかったのはどうして?」
「それは――」




