寂しくてもいい
椿が毎日サークル部屋に顔を出すのは、自分が行きたいから、という以上に僕をあの場所に馴染ませたいからだ。
言葉で言われなくても、数日通ううちにわかった。
椿は、節度を持った付き合いをしようとする僕を、何をするにも巻き込もうとする。
これまでの椿なら、なるべく人と関わりたくないという僕の望みを尊重してくれていたはずだ。
小学生の時、休み時間に友達と遊ぶ椿に「雪くんも誘ってあげなさい」と先生が言ったことがある。椿はその時、「雪は一人でいたいんです」と断りを入れてくれた。中学校でも高校でも同じ、一人を好む僕を、椿は僕の望み通りに放っておいた。
なのに、今の椿は明らかにおかしい。
「……雪、寂しいって思ってるでしょ? 私に好きな人ができたから」
椿がぽつりと言って、顔がかっと熱くなった。
バレていた。隠していたのに。
そう思うのと同時に、そりゃそうか、とも思った。
サークルに通う椿の目的を僕が見破ったように、何でもないような振りをする僕の心情だって椿に見破られてもおかしくない。
僕たちは双子だ。
生まれてからずっと一緒に暮らしてきたし、お互いがお互いの一番の理解者だ。
「……寂しいよ、そりゃあ。だけど、仕方ないって思ってるし、むしろ、応援してるんだ」
恋をしたなら、その恋を成就させてほしい。
満たされてほしい。
僕は、きらきらと輝く椿の笑顔が見たいのだ。
「知ってる。だけど、それで雪が幸せじゃなくなっちゃうことも、知ってる」
「……」
「寂しくても辛くても、雪はそれをどうにかしようとはせずに受け入れるってことも、知ってるよ」
ジジ、と音がした。
電灯の光に寄せられた羽虫が焼かれた音だ。やりたいことをして死ぬなら、不幸だとしても本望だろう。
今の僕も羽虫と同じ、椿の幸せを受け入れたい。
それで自分がどうなっても本望なのだ。
「……それがどうしたの?」
「私は雪が幸せじゃないと嫌なんだよ」
「だったら、せっかく出会えた好きな人のこと、好きじゃなくなってくれるの? 無理だろ?」
真っ直ぐに椿を見つめると、椿は挑むような顔で僕を見つめ返す。
「好きじゃなくなるのは無理だけど、恋人にならないってことはできるよ。そもそも『未来の恋人』って名乗られただけで、まだ恋人になってないわけだし。雪が不幸になるくらいなら、私、自分の恋なんて成就しなくてもいい」
椿はきっぱりとそう断言した。
それから、眉尻をゆっくりと下げる。
「でも、それじゃあだめでしょ? 雪は……幸せって、思えないでしょ?」
「……うん」
僕が願うのは、椿の幸せ。
椿が好きな人を諦めて不幸になるのなら、それはもう僕の幸せじゃない。
自分たちだけの世界で満たされて、二人がただ幸せだった頃には戻れない。
僕の幸せは過去にある。
もう戻ってはこない。
「心を変えるのは無理」
「わかってる。……結局、僕たちの幸せは一致しないんだよ。だから、僕のことは気にしないで」
「やだ」
「やだって……だって、無理じゃん」
「無理じゃないよ。一つだけ方法がある」
「方法?」
「雪が、私以外の誰かを好きになることだよ」
「どういうこと?」
「好きって言っても、恋愛的なってわけじゃない。もちろん好きな女の子でもいいけど……友達とか、仲良しの先輩とかでもいい。好きになって、心を見せられる相手。一線引いたその場限りの付き合いをするんじゃなくて、ちゃんと関係できる人を作ってほしいの」
椿は僕の手をそっと握る。
「そうすれば、寂しくなんてないよ。他にも好きな人ができたら、きっとわかるから。誰を好きになっても、双子の好きは特別なんだって。私たちには他の誰とも比べようがない、とびきりの絆があるんだって」
そこで一旦言葉を切ってから、椿はゆっくりと続ける。
「私たちがはっきりとお互いを一番に想うようになったきっかけ、覚えてる?」
「うん」
忘れるはずもない。
あれは――
「僕の『双子のお願い』だよね」
母が僕を殺そうとしたあの事件の後、僕はしばらくの間、その事実を受け入れられずにいた。
逃げて逃げて逃げて……とうとう現実と向き合わざるを得なくなって、僕は椿にこうお願いしたのだ。
――僕を一番に想って。他に大事な人を作らずに、僕だけを見て? 絶対に嫌いにならずに、ずっとずっと好きなままでいて?
そう、あれが初めての「双子のお願い」だった。
椿に最初に依存したのは僕だった。椿はそれを受け入れてくれただけだ。
人を好きになろうと思えば、椿は今までだって好きになれたのだ。
だから本当は、ずっと前からわかっていた。
いつか一人、取り残される日が来るって。
その日がいつ訪れるのかっていつもドキドキしていた。
制限付きの幸福を永遠にしたくて、今ここで椿と一緒に消えてしまいたいと、何度も願った。
そんな自分に自己嫌悪して、大学進学を機に、椿を手放そうと思った。
自分一人で勝手に決めて、挙句に情緒不安定になって、おそらく椿に心配されて……事故の一件で有耶無耶になったのをいいことに、椿を放さずにいた。
まあ、結局、好きな人ができた椿は自主的に僕離れをしそうだったから、結果オーライだって、自分に言い聞かせていたのに――椿は僕から離れず、自分側に引っ張っていくつもりらしい。
「あの時、何の抵抗もなく『お願い』を受け入れられたのは……それが当然のことだったからだよ。大好きなのは雪だけで、雪以外を思うことなんて考えられなかった。それからもずっと、雪がいれば十分で、雪以外いらなかった。私に十の愛があるなら、それを全部、雪で満たしていたかった。雪も同じ気持ちでいてくれることが、すごくすごく、嬉しかった」
俺だって嬉しかった。
椿だけの世界にずっといたかった。
「だけどね、好きな人ができてわかったの。雪への好きと、他の人へ好きは全く違う。他に好きな人ができても、雪への思いは十のままなの」
椿以外を好きじゃない僕にはわからないけど、椿が嘘を言っていないことはわかる。
だからこそ、僕が嫌がると知りながら、自らの論理に基づいて僕をサークルに入れたのだろう。
「それにね……興味がないことでも、頑張ってみれば、必ずそこから何かが生まれる。好きが生まれることもあるし、好きに繋がることもある。頑張って損なことなんて、何もないんだよ。私、好きな人にそれを教わった気がするんだ。――だから、新しい環境に身を置いて、慣れないことでも頑張ってみようよ」
愛おしげにつぶやく椿を見て、恋をしているのだ、と改めて思った。
椿は昔、運命なんて信じないと言ったけど、忘れかけた相手を好きでいられるなんて、それはもう運命というしかないんじゃないか。
「それが……椿の『求めてるもの』だったの? ほら、前に言ってたでしょ。恋人はそういうものだって」
「ああ、昔、そういう話をしたよね。求めてるものをくれる相手に恋をするって。……ふふ、実際に恋をしたらね、違うなって思っちゃった。だって私、何も求めてなかったのに、恋に落ちたから」
「え?」
僕だけじゃ満たされない、そう思ってたんじゃなかったの?
思ったことが伝わったのか、椿はにこりと笑って首を横に振った。
「私はずっと満たされてたよ。だけどあの人に会って、何ていうか……もっと求めたくなったんだ。今までは好きなものだけで満足してたけど、そうじゃないもの、苦手だと思ってるものや興味がないって切り捨ててたものにも目を向けてみたいなって。そうやって好きを広げていけたら、今より楽しくなるんじゃないかなって……『満たされなくなりたい』って、初めてそう思ったの」
確かに、新しく入ったサークルで、苦手だったはずの料理について調べる椿はいつも楽しげだった。
先輩たちと熱心に情報交換をする姿は、好きなものを増やしているようにも見えた。
「満たされないのって、案外悪くないよ。雪にもそれを経験してほしい。二人の世界にいたら見えないものを二人で見たいの。二人で、感じたいの」
向けられた笑顔が眩しくて……心の中の重い塊が少しずつ溶けていく。
「でもさ、僕に好きな人ができると、本気で思ってるの?」
「思ってるよ!」
予想外の言葉に、反応が遅れた。
今まで椿以外の誰も好きになれなかった……どころか、関わりもしなかったのに。
「だって雪、本当は私以上に人が好きだもん。興味がないって思い込んでて、それに気づいてないだけ」
「何それ」
「うん。ずっと見てきたから、知ってるよ。雪は、他人はどうでもいいっていいながら、人が困ってるのを見たら、絶対にほっとけないよね?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ。関わりたくないからって、事情も聞かずに、見返りも要求せずに、誰彼構わずこっそり助けてあげるでしょ? そんなこと、人が好きじゃないとやれないよ。私、そういう雪を尊敬してる。雪みたいになりたいって、ずっと思ってる」
覚えがないことはないけど……
でも、困ってる様子を見ながら無視するのは居心地が悪い、ただそれだけの理由なのだ。
「ね、雪、サークルの先輩たちと仲良くなるところから始めてみようよ。あの中には、雪が嫌いになるような人はいない。雪はみんなを好きになれるし、みんな、雪のことが好きになるよ」
椿は僕の手を強く握った。
明るい未来がすぐそこにあると、信じて疑わない顔で。
だけど僕は信じられない。
「実は雪を好きだって思う人は、これまでたくさんいたんだよ。雪があからさまに線引きしてたから、仲良くなろうとできなかっただけ。ほら、たまにそれでも好意を抑えられなくて、告白してきた女の子とかいたでしょ。自分では気づいてなかっただけで、雪はね、みんなから好かれてる」
「それでも……」
「え?」
「ごめん、椿。椿が頑張ってくれたことは嬉しいし、先輩たちは良い人だと思う。好きになれるとも、思う。だけど僕は……好きになりたくない」
なるべく冷静に、淡々と口にすると、椿はぐっと唇を引き結んだ。
「どうして?」
「言いたくない」
「言って。『双子のお願い』だよ」
「ごめん」
「雪……言ってくれなきゃ、私、何もできないよ」
椿の縋るような視線に耐えられなくなって、思わず目を逸らす。
「……ごめん」
もう一度、今度はゆっくりと口にした。
「何もしてくれなくていい。僕は一人でいい」
「寂しくても?」
「寂しくてもいい。それが、いいんだ」
先程椿に握られた手をそっと離す。
椿はもう一度手を繋ごうとしたけど、手が触れる寸前でぴたりと止める。
少しだけ逡巡した後、諦めたように笑い、自分の膝の上に手を戻した。
「全然わからない。雪のこと、ちゃんとわかりたいのに」
わかってほしくない。
そう言うのは躊躇われて、でも、代わりに紡げる言葉は「ごめん」しか思いつかなくて、さすがに三度も同じ言葉を告げるのは嫌だったから……黙り込んだ。
「……」
「何か言って」
「……」
しばらくの沈黙の後、椿が立ち上がる。




