40代男性
にこにこと笑うその人は志賀良治さん、最近知り合った四十代の独身男性だ。
「やめてください」
「はいはい、やめます。それじゃあ、行こうか」
楽しげに笑いながら、すたすたと迷いのない足取りで歩き始める志賀さんの隣に並んで雑踏の中を歩く。
「で、最近元気にしてた?」
「最近って……志賀さん、僕たち、数日前に会ってるじゃないですか」
「そうだけど、若者の数日はおじさんの数年にも相当するからね。何があっても不思議じゃないよ」
うんうん、と小刻みに頷きながら、志賀さんは僕の顔を覗き込む。
「現に、雪くんの顔は三日前とは全然違う。大丈夫?」
心配されていたのだと気付いて、恥ずかしくなる。僕が特段わかりやすいのか、それとも顔色が読めるのも年の功、ってやつなのだろうか?
「大丈夫です」
「大丈夫って感じじゃないけど……これはもう、美味しいものを食べてリフレッシュするしかないね。よし、もつ鍋を食べよう。君はしょうゆ味よりみそ味が好きだったよね。しゃきしゃきのごぼうが入ってて、博多風のコクがあるスープが絶品で、九州料理のサイドメニューが充実してる店。いいでしょ?」
「めちゃくちゃ、いいですね」
出会ってまだ間もないのに、志賀さんは僕の好みを完璧に熟知している。
いや、僕のというより――
「だろう? 雪くんは本当に潤と似ているね」
優しく目を細めて笑う志賀さんは、潤――母の元恋人だ。
そして数年前、母が殺した男性、志賀誠一郎の息子でもある。
僕を嫌う要素しかない志賀さんだけど、何故だかこうして可愛がってくれていて、偶然出会ったその日から、何度もこうして一緒に食事をしている。
「自分では全くわからないんですけどね」
「似てるよ。さすが母子、血の繋がりって、やっぱりすごいねえ」
「でも、同じように血が繋がってる椿は好みが全然違いますよ? もつ鍋はしょうゆ派だし、メインばっかり食べるから、サイドメニューはどうでもいいと思ってますし。ちなみにゴボウは野菜の中で一番苦手です」
地元にあった九州料理店のもつ鍋にはゴボウとえのきが入っていて、ゴボウが苦手な椿とえのきが苦手な僕は、お互いが苦手な野菜を交換していた。「好みが完全に一致する双子も多い中で、嫌いな食べ物がばらけてるなんて。苦手を補える関係って理想だよね。私と雪はやっぱり最強の双子だよ」「最強なのは同意だけど、実感する場所しょぼくない?」
お決まりのやり取りが頭に浮かんで思わず頬が緩みかけたけど、すぐに昨日の椿を思い出して顔が強張る。
「……」
「そっか、雪くんが悩んでるのは椿ちゃん関連なんだね……良かったら、食べながら話、聞かせてよ」
「別に、大したことじゃないんです」
「だけど、もやもやしてるんでしょ? そういうことって話したらすっきりするもんなんだよ。ほら、お互いの知り合いだと話しにくいだろうし、俺がきっと適任だ」
僕と志賀さんは椿がいない場で出会った。二人には面識がないし、志賀さんには椿の話をするけど、椿には志賀さんの存在すら知らせていない。潤に好意的な志賀さんは、母を嫌う椿とは、どう考えても相性が悪い。
「それは、そうだと思いますけど……」
僕は椿が全てだ。
極論を言えば椿以外の全員どうでもよくて、困りごとを相談できるほどの関係を他に築いてはいない。
「じゃあ、話そう。君より年食ってる俺だからこそ、できるアドバイスもあるかもしれないし。ほらほら、どうぞ」
背中をぱんと叩かれたら、何だか全てを吐き出してしまいたくなって、「食事をしながら話します」とぼそりと呟いた。
連れてきてもらったのは木彫りの人形が雑多に飾られたフランクな雰囲気の店で、すぐに個室に通された。薄暗くて落ち着く空間の中で、お通しらしい魚料理を食べて、思わず目を丸くする。
何だろう、イワシを何かで煮込んであるのかな。初めて食べる味だ。甘じょっぱくて美味しいし、骨まで柔らかいから食べやすいし、イワシは苦手な椿も、これなら食べられるかも。
味わいながらゆっくりイワシを食べていると、志賀さんが笑う。
「気に入った? それ、糠炊きっていうんだ。福岡の料理」
「美味しいです。家で作ってみたいな」
「ああ、雪くんは料理が趣味なんだっけ?」
「はい、家での食事は僕が作ってるんです」
椿の料理のセンスが壊滅的だから、家で食事を作るのはいつも僕だ。美味しいと喜ぶ顔を見るのが好きで、色々研究しているうちに、いつの間にか趣味になっていた。
「料理を知るのも好きで、福岡の料理も結構知ってるつもりでしたけど、これは初めて食べます」
「博多じゃなくて、小倉の名物だからねえ。こっちで出してる店は少ないかも」
「そうなんですね、あとでレシピ、検索してみようかな」
「ふふ、この店、糠炊きの他にも珍しいメニューたくさんあるんだよ」
メニューを開いた志賀さんにあれこれ説明してもらってから、店員のお姉さんを呼んで注文をした。「少々お待ちください」とお姉さんが個室を出て行った後、少しの沈黙が落ちる。
出会ってまだ間もないのに、志賀さんとの沈黙はどうしてか居心地が悪くない。他の料理が来るまで黙っていても良かったけど……穏やかに凪いだその瞳を見たら、話したくなった。
「実は……椿に好きな男ができたんです」
言葉にしてみると、本当に呆気ないことだ。椿は年頃の女の子なわけで、恋愛話の一つや二つあるのも当然で、インパクトは全くない。志賀さんも、こんなことを話されて困惑するだろう。「それだけ?」と突っ込まれるか、もしくは「ふうん」と流されるか……
「そっか」
だけど予想に反して、志賀さんは神妙な顔でそう言った。
「じゃあ、寂しいな」
「はい」
頷いてから、その通りだ、としみじみ思う。
「だけど、いいことです。椿には幸せになってほしい。だから、応援してます」
続けた言葉は嘘偽りない本音だ。
世間一般の双子がどうなのかはわからないけど、僕たちにはおそらくそれ以上の絆があって――いや、絆と言えば聞こえはいいけど、所謂、依存状態だったのだと思う。
二人だけの世界の中で、僕はずっと幸せで、椿もきっと同じだったはずだ。
だけど、健全な関係に戻れるなら、その方がいい。
ずっとずっと、そう思っていた。
都心の大学に入学することが決まってからは、新しい環境になるのをきっかけにそうなれれば、と考えていて、椿にはまだ告げてはいなかったけど、僕は一人、心の準備を進めていたつもりだった。
正直、椿から離れることが不安で、心細くて、情緒が不安定になったりもして……いっそ椿から離れてくれないかな、とか思っていたから、今回の件は渡りに船というか……とてもラッキーなはずなのだ。
未来から来た恋人、そのくらいイレギュラーな存在でもいないと、優しい椿は不安がる僕を置いていけないだろうから。
うん、ラッキーだ。
椿が真っ当な幸せを掴むためには必要なことで、椿の幸せは、僕にとって、自分の幸せよりもずっとずっと大事なのだから。
「えらいなあ、雪くん」
「わっ」
身を乗り出した志賀さんはわしゃわしゃと頭を撫でて、僕の顔をじっと見つめる。
「今日はとことん飲もう」
「無理です、未成年なので」
「真面目だね。そういうところも潤に似てる。――じゃあ、とことん食べよう。お腹が破裂するまで、美味しいものを詰め込もう」
「食事は腹八分目でやめる主義なんです」
「今からくるもつ鍋を食べても、同じことが言えるかな」
「言います」
「いや、絶対君は食べすぎる。それくらい美味いんだ。何か賭ける?」
「いいですよ」
「じゃあ、食後のアイスクリームを賭けよう。店の前にあるカフェの一押しメニューだ。これ以上ないほど満腹な状態でデザートを食べる贅沢を味わおう」
「わかりました」
くだらない話をしながら、ほんのちょっとだけ胸が軽くなっていることに気づく。
別に、志賀さんに心を許しているわけじゃない。元々複雑な関係にある上、まだ会って間もないし、彼個人と僕との間に深い絆はない。ただ偶然出会って、成り行きで傍にいる他人、そんな感覚だ。
だけど今、志賀さんに感謝している。志賀さんがいて良かった、そう思っている。
笑んだ瞬間、お姉さんが香ばしい香りのするもつ鍋を持ってきた。
余談だけど、結局その日は志賀さんの予言した通り、腹八分目では止められなかった。
店で出てきたもつ鍋は、本当にとんでもなく美味しかったのだ。
はちきれそうになるまで腹に詰め込んで、さらにはアイスも食べて、苦しくて苦しくて何も考えられない状態のまま家に帰って――僕は、そのまますとんと眠りに落ちた。
*
「椿、宮城から告白されたんでしょ?」
多分、高校二年生の秋だったと思う。
学校からの帰り道、商店街を通り抜けた先にある銀杏並木を歩きながらそう尋ねると、椿が目を丸くした。
「どうして知ってるの?」
「だって、宮城、告白前に大声で話してたもん。今日椿に告白するって。自信があったんだろうな」
「そっかあ、そっかあ~。自信があったから、あれだったんだ〜」
「歌わないでよ。というか、あれって何?」
「えっとね、言葉にしがたい感じ」
椿は遠い目をして呟くと、僕をじっと見る。
「まあ、私の話は置いといて……雪こそ、山口さんから告白されたでしょ?」
「……何で知ってるの?」
山口は静かな女の子で、そういうことを人に言いふらすようなタイプじゃない。そして、もちろん僕も、誰にも言ってない。
「女子の間に張り巡らされた包囲網を侮っちゃだめだよ? 目撃者がいたの。そこからどんどん広まったみたい」
「……友達多いよね、椿」
お互い以外には執心しない、という他者への向き合い方は同じだけど、椿は僕と違って他人に関わるのを好む。深い結びつきもないのに繋がるのは無意味だし面倒だ、と思う僕とは違って、椿は単純に人付き合いが楽しいらしい。
「真剣な話なんてしなくても、くだらない話で盛り上がれば友達になれるよ。雪も作ったらいいのに、友達」
「いらない。くだらない話なんて必要ないし、したくなったら椿がいるし」
「まあね、雪とのくだらない話、楽しみ! でもまあ、それは置いといて……返事は?」
「もちろん断った。付き合うわけないじゃん」
「前に可愛いって言ってたのに。それに良い子だよ、山口さん」
椿は驚いたように言うけど、その言葉に僕の方こそ驚いた。
「可愛くて良い子でも、それだけで付き合うわけないでしょ。よくわかんないけどさ、恋愛的な好きって多分、もっと特別な感情だと思う。僕が椿に感じてるみたいな、だけどもっとドキドキする、みたいな……」
椿への気持ちは恋とは違う、そうわかっていても、比べて見劣りするような「好き」で恋人を作るのは不誠実だ。
どう説明していいかわからずに言葉を濁していると、椿が小さく笑った。
「ロマンチストだね、雪は」
「椿は違うの? 格好良くて、性格いい男から告白されたらOKする?」
椿は可愛い。これはきっと、身内贔屓ではない。
今後、宮城とは比べられないほどいい男から好かれるだろう、。
「しないよ」
きっぱりとそう答える椿を見て、ほっとする。
「椿だってロマンチストじゃん」
「私の理由は雪とは少し違って……」
一旦言葉を切ると、椿は考えるようにして続ける。
「私……恋人に求めるものなんてないんだ」
「求めるもの?」




