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スノーカメリア  作者: 古浜夕
有佐雪
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11/29

恋する椿

「雪、あのね……私はこれからも、雪以外の前で歌う。雪のお願いは聞けない」

 九死に一生を得た交通事故から一か月後、駅ビルの中に入っているイタリアンレストランでの食事がひと段落したタイミングで、椿が唐突にそう言った。

「……そっか」

 取り繕ったはずの声は上ずっていて、動揺している心を落ち着けるため、持っていた抹茶ラテを一口、口に含む。

「ごめんね、雪。お願いは聞けないけど……私にとって雪は、ずっとずっと特別だよ」

 カップをテーブルに置くと、椿は慰めるように言って、カップを握ったままの僕の手に自分の手を添える。僕のものより小さく、僕のものより温かい、僕とは違う手。僕とは違う心を持ち、違う人生を歩む、女の子の手だ。

 そんな当たり前の事実、ずっと前から知っていたはずだった。だけど、はっきりとそう思うのは随分と久しぶりだった。


   *


「僕以外の前では歌わないで。椿の歌、僕が独り占めしたいんだ」

 椿にそう頼んだのは、まだ高校生だった頃、卒業式を前にした早春のこと。

 昼休み、高校の中庭で大きな椿の木の下のベンチに座って、朝、一緒に作った弁当を食べながらのお願い、だった。

「……歌?」

「うん、歌。今の椿っていつでもどこでも歌ってて、一人ミュージカルしてるみたいなとこあるじゃん?」

「褒めてる? それとも馬鹿にしてる?」

「どっちも違う。単なる事実。とにかく、あれを止めてほしい。僕だけのために歌ってよ」

「えーっと、待って雪。それって本気なの?」

「うん、双子のお願い」

 大きな瞳をじっと見つめると、椿は目を瞬かせ、その後小さく息を吐く。

「……少し、考えさせて」

「わかった。納得いくまで考えて」

「うん」

 椿は気が乗らない様子だけど、断ることはないはずだ。

 そんな確信があるのは、僕たちが最強の絆を持つ双子だから。

 お互いさえいれば良くて、お互いだけが特別で、お互いの幸せが第一。

 だからこそ、どちらかが本気で望めばそれを断ることなどあり得ない。

 いつもなら即決でイエスと口にしてくれるはずだけど……今回は事が事だから仕方ない。

 歌は椿にとって一番の喜びなのだ。

 そしてそんな椿の歌を奪おうとしているのは、実は独占欲なんていうシスコン極まりない理由じゃない。(シスコンっていうのは認めるけど)椿に伝えたのは建前だ。

 本当の理由は、僕たちの母親、かつて一世を風靡し、その後、人を殺して自分も死んだ、色んな意味で有名な歌手、ジュン、に関係する。

 ジュンは子どもの存在を公表しておらず、僕たちは幼い頃から隠されて育った。だけど僕には母の面影が強く残っていて、そのせいで事あるごとに関係性を勘繰られ、時折面倒事に巻き込まれてきた。

 椿は僕と違って容姿が彼女に似ていないから、何もせずにいれば、厄介事に巻き込まれずに済む。なのに……椿は歌を歌ってしまう。嬉しい時は高らかに、悲しい時はひっそりと、周囲を気にすることはなく、自分のしたいままに。

 その姿は驚くほどに生き生きとしていて……テレビの中で輝いていた時のジュンにそのまま重なる。

 四月から進学するのは都心のでっかい大学で、今まで通っていた田舎の高校とはわけが違う。歌ったなら、勘づかれてしまう可能性は大いにあるし、何より……僕がずっと隣に引っ付いて、フォローしていたこれまでとは、状況が変わるかもしれない、というより、変えなければいけない。椿にはまだ言っていないけど、僕は内心でそう思っている。

 だからこそ、大学に入る前に「お願い」したのだ。

 椿は大らかな性格で、何より人がいい。

 僕が離れた状態で厄介ごとに巻き込まれたら、相手のいいように転がされ、取り返しのつかない事態になってしまう可能性もある。それだけは避けなければ。

 ジュンに似すぎていて素性に気づかれてしまう。面倒事に巻き込まれたら厄介だから、人前では歌わないで。

 きっぱりそう言えれば、一番いいのだと思う。

 だけど言えなかったのは、椿がジュンを嫌っているから。

 世間を散々騒がせたジュンは家庭でもあるトラブルを起こしていた。

 幼い頃、僕を殺そうとしたのだ。

 といっても、実際にそれを見たのは僕自身ではなく椿だ。息が苦しいと呻く僕と僕の口を無理やり押えていた母を椿が見つけた、らしい。

 らしい、といのは、僕がその時の状況を覚えていないから。

 お母さん、雪を殺さないで!

 悲痛な声は聞いた気がするけど、はっきりと記憶にあるのは間近にあった母の顔だけ。

 まだ若かった母の表情は悲哀に満ちていた。月の光に照らされ、水が滴るいつもより白い顔が妙に神秘的で、とても綺麗だと、そう思った。

 苦しかった記憶も辛かった記憶もないから、僕はどうにも当事者意識を持てないのだけど、実際に目撃した椿はかなりのショックを受けていて、今でも時々思い出したようにその話をする。

 その事件まで、母は僕たちに確かな愛情を注いでくれていたように思う。

 僕らが幼い時の母はかなり多忙だったはずで、それでも僕たちのために何とか時間を作ってくれていた。普通の母親のように毎日食事を共にする関係ではなかったけど、その分たまに振舞われる手作りの食事は豪勢だった。お金はあり時間はなかったはずの母が誕生日に贈ってくれたのは手作りのぬいぐるみで、お世辞にも可愛いとは言えないそれが僕たちの宝物だった。

 国民的歌姫の母が僕たちだけのために歌ってくれる歌はメディアで流れるどんな曲よりも最高に優しい声で紡がれた。

 だけど事件以来、母が僕たちに会いに来ることはなく……それどころか、彼女は事件に関して何の釈明もしなかった。

 母の帰りを待ち望んだ日々が終わり、期待さえしなくなったある日、椿が言った。

 ――お母さんなんて大嫌い。

 その日からずっと椿は母を憎んでいる。

 だから自分が母親似でないことに心から安堵していたし、そっくりな僕に対しては同情していた。そんな椿に「似すぎている」なんて言えば、落ち込むことは明らかだ。だからこそ、独占欲じみた弟のわがままという体で通そうとしたのだ。

「……何ていうか……私にできるかな」

 僕以外の前で歌わない自分、をシミュレーションしていたのか、難しい顔になっていた椿がぼそりと言って空を仰ぐ。

「こーんなに、いつも、歌ってるーのに」

 即興のメロディを付けてそう続けると、椿は僕を見た。

「僕の前では今のままでいい。他では……頑張って、としか言えない。ごめんね、椿」

「ううん、他でもない雪のお願いだもん。だけどやっぱり、少しだけ考えさせてね」

 椿は自分で決めたことを曲げない。それは僕が椿を一番尊敬している部分で、だからこそ、今回のお願いは簡単には頷けないのだろう。

 でもいずれ必ず、約束をしてくれる。

 そう、思っていた。

 ついこの間、椿に、僕以上の特別――好きな人ができたと知るまでは。


   *


「ねえ、一つ聞かせて。あの事件の前なら、イエスって言ってくれた?」

 椿の手をそっと離すと、口端を上げて、からかうような笑みを作る。

 僕は自他ともに認めるシスコンだけど、姉に好きな人ができたからといって責めるようなくそ野郎にだけはなりたくない。

「そうだねえ……そうかもしれない」

 椿は応えるように笑うと、小さく頷き、窓の外にぼんやりと目を向けた。

 ビルの二十階にあるこのレストランの夜景は美しい。

 ミニチュアサイズの車のライトがキラキラと輝きクリスマスツリーに付ける電球みたいだし、うじゃうじゃと歩いている通行人なんかは、ぎりぎり視認できる働きアリのようだ。

 だけどその数えきれないほどの働きアリの中に、椿が恋した「彼」はいない。

なぜだか確信を持ってそう思える。

 それは椿も同じなのだろう。

 椿は小さくため息をついた後、食事終わりのデザートを食べ始める。

 ――あの事件。

 数か月前、僕は交通事故に遭った。

 だけどド派手な交通事故より印象的だったのは、その後、救出に駆けつけてくれた彼との奇妙で不思議なあれこれだ。

「結局、彼って誰だったんだろうね」

 彼とは、僕の友人と名乗って椿にドライブをキャンセルさせ、僕が一人で別荘に向かったと知るや、慌てて追いかけてきた男性のことだ。事故に遭った僕を助けてくれた、紛れもない命の恩人だった。

「椿の未来の恋人なんでしょ?」

 彼が自分でそう語ったということは、椿から聞いた。彼によると、僕はあの事故で死ぬ予定だったらしい。椿を幸せにしたくて、彼は未来から僕を救いに来た。

 初めて聞いた時は馬鹿馬鹿しいと思ったけど、全てが終わり時が経った今となっては、本当にそうじゃないかって気がしている。だって、偶然でしかないあの事故の現場に駆けつけるなんて、現実的に考えればあり得ない。

 それに……

「じゃあこれから出会うのかな? そうなったら、思い出せると思う?」

 半日を共に過ごした彼のことを、椿はすでに忘れかけているのだという。聞いたはずの名前が思い出せないと、彼女が泣きそうな顔で僕に訴えたのはつい先日のことだ。そして僕もまた、彼の名前が思い出せない。それだけじゃない。彼と交えた会話や間近で見たはずの顔さえも曖昧だ。

「思い出せるかはわからないけど、万が一忘れたとしてもまた、恋するんじゃない? だって、あの半日で好きになったくらいだし」

「そうだといいな」

 椿の頬が少しだけ赤く染まる。

 当然だけど、僕に対してはしない顔だ。

「そうだよ、きっと」

 胸がぎゅっと締め付けられるのは、寂しいから。

 だけどそれを椿に悟られたくはなくて、僕は精一杯の笑顔を作ってみせた。


   *

 

「ゆーきーくん」

 駅ビルの前に突っ立ってぼんやりと人混みを眺めていると、ぽんと肩を叩かれた。

振り向くと、ほっぺたにむぎゅっと指が突き刺さる。

「あ、引っかかった」


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