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音響の解析

私は幽霊の声を、三万時間以上聴いてきた。

正確に言えば、「幽霊の声だと主張される音声」を、だ。デジタルオーディオレコーダーに拾われた環境音、スピリットボックスが垂れ流すラジオの断片、廃墟の中で録られたとされるEVP(電子音声現象)——それらを音響工学の立場から分析し、「これは幽霊ではない」と結論づけることが、私の副業に近い仕事だった。

本業は大学の音響工学研究室。専門は建築音響と騒音制御。防音設計のコンサルタントとして、コンサートホールから病院まで、音の問題を解決してきた。

幽霊など、いない。

音はすべて、物理現象だ。


依頼が来たのは、十一月の終わりだった。

送り主は女性の研究者で、認知心理学が専門だという。メールには短く、こうあった。

「廃病院で録られた音声データがあります。私では判断できない領域なので、ご専門の方に見ていただきたい。報酬はお気持ちで構いません。ただ、できれば現地での調査もお願いしたい」

添付されていた音声ファイルを再生した瞬間、私は少し姿勢を正した。

「少し」だ。怖かったわけではない。

ただ——周波数の構成が、少し、珍しかった。


廃病院は、関東平野の北縁、かつて結核療養所として使われた建物だった。戦後に一般病院へと転用され、八年前に閉院。現在は取り壊し待ちの状態で、地元では「声が聞こえる」という話が絶えないという。

出発前に、私はその音声ファイルを徹底的に解析した。

波形を展開すると、まず目についたのは18Hz付近の低周波成分だった。人間の可聴域は通常20Hzから20kHzとされているが、18Hz前後の超低周波音——インフラサウンドと呼ばれる——は、聴こえないにもかかわらず人体に影響を与えることが知られている。

英国の物理学者ヴィック・タンディが1998年に発表した研究がある。彼は実験室で「幽霊の存在感」を感じる研究者が続出したことを調査し、原因が19Hzのインフラサウンドであることを突き止めた。この周波数は人間の眼球を共鳴させ、視野の端に「何か」を見せる。恐怖感や不安感、「誰かに見られている」という感覚も引き起こす。

廃病院の音声に含まれる18Hz成分の発生源は、おそらく老朽化した換気システムだ。大型のファンモーターが劣化すると、回転数の低下に伴い可聴域以下の振動が発生する。建物全体が共鳴箱となり、その振動を増幅する。

「声」の正体は、それだ。

私はそう結論づけて、現地へ向かった。


待ち合わせは病院の正門前。

依頼者の女性は、私が想像していたより若く、そして静かな人だった。研究者特有の、感情の起伏を表に出さない話し方をする。彼女は簡単な自己紹介の後、音声データの解析結果を私に求めた。

「インフラサウンドです」と私は言った。「換気システムの劣化が原因と思われる。18Hz付近。タンディの研究をご存知ですか」

「もちろん」と彼女は言った。「視野の周辺部に幽霊を見せる周波数ですね。私が調べた集落でも、似たような構造の報告があって」

「集落、というと」

「以前調査した場所があります。中国山地の。また機会があれば」

それだけ言って、彼女は病院の中へ歩いていった。

私はその背中を見ながら、持参した機材を確認した。デジタルオーディオレコーダーを二台(一台はバックアップ)、広帯域マイクロフォン、スペクトラムアナライザー、そして彼女が持ってきたというEMF検出器と動き検出器。

Kという男も来ていた。ゴーストハンターを名乗っていたが、私は彼の機材の使い方を見て、黙っていることにした。スピリットボックスを構える手が、少し震えていた。

寒さのせいだろう、と思った。


病院内部は、廃墟特有の静けさに満ちていた。

廃墟の静けさは、本物の静けさではない。外部音が遮断され、内部の微細な音——風の漏れ、金属の収縮、水の滴り——が相対的に浮かび上がる状態だ。人間の聴覚は静寂に慣れると感度が上がり、普段は意識しない音を「声」や「足音」として知覚しやすくなる。

これを聴覚のカクテルパーティー効果の逆転現象と私は呼んでいる。賑やかな場所で特定の声を聞き分けるのと同じメカニズムが、静寂の中では「ノイズから意味を抽出する」方向に作動する。

スペクトラムアナライザーを起動すると、予測通り、18Hz付近に定常的なピークが確認された。

「やはり換気システムですね」と私はアナライザーの画面を彼女に見せた。

彼女は画面を見て、小さく頷いた。「西棟に古い機械室があるそうです。そこが発生源でしょうか」

「おそらく。確認しましょう」

西棟への廊下を歩きながら、私はレコーダーを回し続けた。記録することが習慣だ。何かあったとき、後で検証できる。

廊下の突き当たりに、ナースステーションの跡があった。カウンターの上に、錆びたベルが一つ残っている。

Kがスピリットボックスを向けた。断片的なノイズの中から、彼は「聞こえますか、何か言っていませんか」と興奮した声で言った。

聞こえない。

ノイズはノイズだ。

ただ——レコーダーのレベルメーターが、一瞬、大きく振れた。

可聴域内の音が、どこかで発生した。私の耳には届かなかった。マイクには届いた。

周波数は、後で確認すればいい。


機械室は、地下一階にあった。

鉄製の扉を開けると、巨大な換気ファンの残骸が暗闇の中にある。モーターはとうの昔に停止しているはずだった。

だが、アナライザーは18Hzのピークを示し続けていた。

私は少し考えた。

停止したモーターがインフラサウンドを出すことは、理論上ない。では、発生源は別にある。建物の構造そのものが、外部の何らかの振動に共鳴しているのかもしれない。近隣の交通、地下水の流れ、あるいは地盤の微振動——可能性はいくつかある。

説明できないことは、説明できないというだけだ。

幽霊がいるということにはならない。

私はそう思いながら、地下の空気を吸い込んだ。

カビと埃と、もうひとつ——何か、薬品に似た匂いがした。

「消毒液の残留成分ですね」と私は呟いた。

「そうですね」と彼女が言った。

だが彼女の声は、少しだけ遠かった。

振り返ると、彼女は機械室の奥、私が懐中電灯で照らしていない領域を、じっと見ていた。

「何かありましたか」

「いいえ」と彼女は言った。「ただ、音響的に興味深い空間だと思って」

そうだろう、と私は思った。

地下の密閉空間は、音の反射と吸収の比率が特異的になる。定在波が発生しやすく、特定の周波数が異常に増幅されることがある。彼女も、その空間の音響特性に気づいたのだろう。


翌朝、レコーダーのデータを解析した。

廊下でレベルメーターが振れた瞬間の音声を確認した。

周波数は、340Hz付近。

人間の声の基本周波数の範囲内だ。

波形は単純ではなかった。倍音構造を持っている。つまり、楽器か、声帯か——何らかの「発音体」が存在したことになる。

ただし、廃病院に人間はいなかった。私たち以外。

可能性として考えられるのは、外部からの音の侵入(窓や隙間を通じた遠距離音源)、あるいは建物内部の何らかの共鳴(金属の収縮が特定の周波数で鳴く現象、いわゆる「ビルの泣き声」)。

340Hz付近で、倍音構造を持つ共鳴。

それは確かに、子どもの声に似ている。

だが、子どもの声ではない。物理現象だ。

私はそう結論づけて、レポートを閉じた。


三週間後、彼女からまたメールが来た。

短い文面だった。

「次の調査地が決まりました。海辺の廃旅館です。嗅覚の問題に詳しい方をご存知ですか。神経科学者、できれば女性の方が望ましい。理由は現地でお話しします」

私は彼女の連絡先をアドレス帳に登録しながら、ふと思った。

彼女は、集めているのだ。

何かを、確かめるために。

専門家を、ひとりずつ。

それが何のためなのか、私にはまだわからなかった。

ただ——地下機械室で、彼女が照らさなかった領域のことを、私はときどき思い出す。

彼女の目が向いていた方向。

私のレコーダーが、340Hzを拾った方向。

同じだったか、違ったか。

データを見返せばわかるはずだが、なぜか私はそのフォルダを開けないでいる。

理由は分からない。

いや——正確には。

あの方向に、私も、何かを見た気がするからだ。

気がする、だけだ。

インフラサウンドによる視覚への影響。眼球の共鳴。18Hz。タンディの研究。

すべて説明がつく。

私は音響の専門家だ。

音で、世界のすべてを説明できる。

——ただ、あの340Hzは。

今も、耳の奥のどこかで、鳴っている。

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