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嗅覚の誤認

匂いは、最も古い感覚だと言われている。

視覚や聴覚が大脳新皮質を経由して処理されるのに対し、嗅覚だけは嗅球から辺縁系へ直接接続する。つまり、匂いは思考より先に、感情と記憶に届く。人間が進化の過程で最初に獲得した警戒システム、と言い換えてもいい。

私が神経科学を専攻した理由のひとつも、そこにある。

脳は正直だ。感情より先に動く。意識より深いところで、すでに判断している。

私の名前は水無月遥。国立大学の神経科学研究室で、主に嗅覚と記憶の相関を研究している。三十八歳、独身。

幽霊は信じない。

匂いがしないから。


依頼のメールは、十二月の初旬に届いた。

送り主は認知心理学者の女性で、以前に中国山地の集落と関東の廃病院で調査を行ったという。文面は簡潔だった。

「海辺の廃旅館で調査を行います。現地では嗅覚に関する証言が複数あり、神経科学の観点からの分析が必要です。あなたの論文を読みました。ぜひ同行をお願いしたい」

論文、というのは三年前に発表したものだろう。嗅覚刺激が海馬に与える影響と、それに伴う幻覚的記憶想起のメカニズムについて書いた。要約すれば——特定の匂いが、存在しない記憶を「本物」として呼び起こすことがある、という内容だ。

興味深い現場だと思った。

承諾のメールを送った。


場所は、房総半島の南端近く。

かつて湯治客で賑わった海辺の旅館が、十五年前に廃業し、そのまま放置されている。地元では「潮の匂いに混じって、線香の匂いがする」「花の匂いがしたあと、知らない人の顔を思い出す」という証言が続いていた。

旅館に近づくと、まず海の匂いがした。

塩分と磯の生臭さ、腐敗した海藻の発酵臭——それらが混ざった、沿岸特有の複合臭だ。私の嗅球は即座にそれを分類し、「危険なし」と判断する。

玄関先で待っていたのは、依頼者の女性と、音響工学の研究者だという男性、そしてKと名乗るゴーストハンターだった。

KはすでにEMF検出器を手に持ち、デジタルオーディオレコーダーを胸ポケットに差していた。動き検出器を入口付近に設置しながら、「今朝から反応が多い」と言った。

私は彼の機材より、旅館の換気状態が気になった。

閉鎖空間に十五年分の有機物が堆積している。カビ、腐朽した木材、海からの塩分結晶、動物の死骸の可能性もある。これだけの複合化学物質が密閉空間に充満していれば、嗅覚系への影響は無視できない。

「マスクはお持ちですか」と私は全員に言った。

「幽霊にマスクは効かないと思いますが」とKが言った。

「有機溶剤には効きます」と私は答えた。


旅館の内部は、時間が止まったような空間だった。

フロントのカウンターに古い宿帳が残っている。壁に掛かった日本画は色褪せ、廊下の突き当たりに仏壇の残骸がある。位牌は持ち出されていたが、香炉だけが残っていた。

「線香の匂いがする、という証言はここから来ているでしょう」と私は言った。「香炉に染み込んだ残留成分が、気温や湿度の変化によって再揮発する。十五年経っても、多孔質の陶器や木材は匂いを保持します」

音響の研究者がメモを取っていた。「残留成分の揮発、という現象は音響でも似たものがありますね。建材が特定の周波数を記憶する、という俗説があって」

「俗説ですが、面白い」と私は言った。

依頼者の女性は、何も言わなかった。

廊下をゆっくり歩きながら、何かを確認するように、床を見ていた。


二階の客室に入ったとき、私は立ち止まった。

匂いが、変わった。

海と黴と残留香の複合臭の中に、それとは明らかに異質な成分が混じった。

甘い。花の匂い。

梔子か、あるいは百合か——生花に近い、強い甘みを持つ揮発性化合物だ。

私は即座に分析を始めた。

可能性その一。外部からの侵入。窓の隙間から、近隣の植物の揮発成分が入り込んでいる。ただし十二月の房総とはいえ、梔子の開花期は六月から七月だ。季節が合わない。

可能性その二。残留成分の再揮発。この部屋でかつて使われた香水、あるいは生花が、壁紙や畳に成分を残している。気温変化で再び気化した。

可能性その三——

私は可能性その三を、いったん保留した。

「花の匂い、しませんか」と私は同行者たちに聞いた。

「します」と音響研究者が言った。

「しません」とKが言い、少し不満そうだった。

依頼者の女性は「少し」と言った。

嗅覚感度には個人差がある。Kは鼻炎か、喫煙者か、あるいは嗅覚疲労の状態にあるのだろう。珍しいことではない。


問題は、その匂いを嗅いだ直後に起きた。

音響研究者が「あ」と短く言って、立ち止まった。

「どうしました」

「なんでもないです。ちょっと……昔のことを思い出しただけ」

彼は少し照れたように言った。「子どもの頃、祖母の家に行くとこういう匂いがして。もう亡くなっているんですが、一瞬、声が聞こえた気がした」

私はそれを聞いて、静かに頷いた。

教科書通りだ。

これはプルースト現象と呼ばれる。フランスの作家マルセル・プルーストが小説の中で描写したことから名づけられた、嗅覚刺激による強烈な記憶想起だ。嗅覚が辺縁系に直接接続しているため、匂いは他の感覚より鮮明に、感情を伴った記憶を呼び起こす。

亡くなった祖母の声が「聞こえた気がした」のは、幻覚ではない。記憶の再生だ。海馬が過去の音声記憶を引き出し、それを「現在起きていること」として一瞬誤認した。

「その体験は、神経科学的に完全に説明できます」と私は言った。「嗅覚は記憶と感情に最も直接的に接続した感覚です。特定の匂いが、失われた人の気配を再現することがある。霊的な現象ではなく、脳が誠実に機能した結果です」

彼は少し安心したように見えた。

依頼者の女性は、やはり何も言わなかった。


三階に上がると、匂いの構成が再び変わった。

今度は薬品臭だ。消毒液——エタノールに近い、鼻腔の奥を刺す揮発性有機化合物。旅館の三階が、かつて何らかの医療処置に使われた可能性がある。あるいは清掃に使われた薬品の残留。

だがそれより気になったのは、別のことだった。

私が、何かを思い出しそうになっていた。

思い出しそう、という感覚は奇妙だ。内容が出てこない。ただ、何か重要なことが記憶の縁に引っかかっている感触だけがある。扉の前に立っているのに、扉が開かない。

これも神経科学的に説明できる。

**舌端現象(tip-of-the-tongue phenomenon)**の嗅覚版と言えばいい。記憶の索引は引けているが、内容の引き出しが完了していない状態。嗅覚刺激が海馬を活性化しているが、対応する記憶エングラムへのアクセスが阻害されている。

阻害の原因はストレスか、睡眠不足か、あるいは単純に記憶が古すぎるか。

私はそれ以上考えるのをやめた。

思い出せないなら、重要ではないということだ。


夜、一階のロビーで資料を整理していると、Kのスピリットボックスが異音を上げた。

断片的なノイズの羅列の中に、彼が「聞こえましたか」と興奮する声が混じる。私には有意な音声パターンは聞き取れなかった。聴覚パレイドリアの典型だ、と思った。

ただ、その直後。

二階から、梔子の匂いが降りてきた。

十二月の夜、気温は下がっている。揮発性有機化合物の気化速度は気温に依存する。低温では揮発が抑制されるはずだ。なぜ今、より強く匂うのか。

私は静かに立ち上がり、二階へ向かった。

廊下に人はいなかった。

匂いは、あの客室から来ていた。

扉を開けると——何もない。廃墟の客室。崩れかけた天井、腐った畳。

だが匂いは確かに、ここが発生源だった。

私は部屋の中央に立ち、嗅覚を集中させた。

方向を特定しようとした。

匂いは——床下から来ていた。


翌朝、依頼者の女性に報告した。

「床下に何かある可能性があります。植物の残骸か、あるいは別の有機物。それが匂いの発生源でしょう」

彼女は私の報告を聞きながら、小さなノートに何かを書いていた。

「水無月さん」と彼女は言った。「三階で何かを思い出しかけていましたね」

私は少し驚いた。「見ていたんですか」

「表情が変わっていたので」

「思い出せませんでした。嗅覚記憶の不完全な想起です。よくあることです」

「そうですね」と彼女は言った。そしてペンを置いて、私を見た。「ところで、初めてここに来た感想は」

「廃旅館特有の、複合化学物質による嗅覚環境です。証言にある『線香の匂い』『花の匂い』はいずれも残留成分の再揮発で説明できる。『知らない人の顔を思い出す』はプルースト現象。科学的に整理できます」

「整理できる」と彼女は繰り返した。「そうですね」

何か言いかけて、やめたような間があった。

「次の調査地が決まったら、また連絡します」と彼女は言った。「今度は雪のある場所です。低体温と幻覚の問題に詳しい方を探しています」

私は頷きながら、荷物をまとめた。


帰りの電車の中で、私はずっと考えていた。

三階で思い出しかけたこと。

内容は、まだ出てこない。

ただ——匂いだけは覚えている。

梔子でも、消毒液でも、海でもなかった。

もっと古い匂い。

土と、木の腐敗と、もうひとつ——

子どもの頃に嗅いだことのある、何か。

私は幼少期を、山間の親戚の家で過ごしたことがある。

中国山地の、小さな集落で。

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