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虚界書庫から来た悪魔は、知識を使うたび自分を失う  作者: 妙原奇天


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第5話 監査院の三者会談――“料金表”と“蝶の網”

 王都監査院は、石と静けさでできていた。

 扉は厚く、廊下は長く、声は吸い込まれる。壁のモールディングには細い数字の刻みが連なっている。日付ではない、判例番号だ。ここでは、言葉が事実に変わる前に、事実のふりをする。


 会議室には四つの椅子。

 一つは監査官ノエル、一つはセレスティア・ドレイク(上位寮代表にして学園総務会の副会長。彼女の肩書きはいつも二つ以上ある)、一つは私とリズで半分ずつ、もう一つは虚界司書の代理人のために空いていた。


 ノエルが短く頷く。「三者会談を始める。議題は二つ。一:虚界“記憶ページ”の料金表。二:学内に張る“蝶の網”の許認可」


 セレスティアが脚を組み、片手で空気を撫でた。「料金表は大好き。数字は嘘をつかない——つかせない限りは」


 扉が開く。灰色のローブ、顔の下半分を覆う薄紗、手には骨でできたしおり。

 翻頁吏めくりびと。虚界司書の代理人は、いつも“本から抜けた人間”のように現れる。


「代理で来た」

 声は紙の音だった。「頁は値を持つ。払えるなら返す。払えないなら置いていけ」


「わかりやすい」

 私は頷き、羊皮紙を広げる。見積もり表。

 〈虚界記憶ページ回収・料金表(案)〉

 - R(回収基本料):欠落ページ1枚につき“証跡3点”

 - U(使用割増):置換使用直後30日以内は+証跡2点

- L(公開割引):回収理由の三行公開で-証跡1点

- E(反証提供割引):関連分野の反証記録を一件提出で-証跡1点

- T(第三者担保):回収の副作用が第三者に及ぶ場合、担保条の設定は必須(担保があれば-証跡1点)

 ※証跡=再現可能な理由の提出単位。言い分ではない。検証が要る。


 翻頁吏はしばらく沈黙し、指でしおりをゆっくり撫でた。「証跡は紙では足りない。場がいる」


「審級で補う」

 私は追記する。「証跡は審級十名の署名と再現記録をセットで一口。三口で頁一枚」


 セレスティアが口角を上げた。「割引が気に入ったわ。公開と反証が値になる。学園も乗せたい。——寄進理由三行と同じ発想ね」


「整合性は武器だ」

 ノエルが静かに言う。「監査院としては**T(第三者担保)**を強制条件にしたい。忘却の副作用は周囲に出る」


 翻頁吏がこちらを見た。薄紗の向こうで目が笑っていない。「条件を飲む。だが、支払通貨は人間の時間ではない。行為だ」


「行為で払う」

 私は用語を置く。「“証跡”=再現可能な行為+理由の公開。紙と場で支払う」


 翻頁吏は骨のしおりで机をとんと叩いた。「暫定承認」


 リズが小声で囁く。「本当に返ってくるんですか、頁」


「返る。ただし誰の元へ返るかは合意で決める」

 私は表の下段に権利者欄を足す。回収後の帰属:本人/契約上の証人/共同保管(監査院)。

 翻頁吏はそこだけ、わずかに満足そうに頷いた。「失われたものは独り占めに向かない」



 第二議題、蝶の網。

 私はもう一枚、図を置く。輪っかの重なり。観測の網だ。


 〈蝶の網(観測プロトコル)〉

 - 観測点A:礼拝堂の祭具(蝶意匠)——理由ログの設置

 - 観測点B:承認目録の“召喚/神学”列——白紙検知の自動アラート

- 観測点C:学内寄進台帳——理由三行の必須化

- 観測点D:寮内奉仕記録——負担の再配置指数(R-index)

- 観測点E:講義内契約の履歴——審級の傾きの推移

 トリガ:白紙/過剰合意/置換後30日以内の異常

 対応:止血(仮文言二行)→反証会→棚卸し→回収契約(必要なら虚界へ)


 ノエルが即座に判を用意した。「許認可の条件。観測ログは監査院の閲覧に開くこと。個人名は初期は秘匿」


 セレスティアが腕を組む。「学園側の条件。網は監視ではないと広報する。目的を先に置く。目的は〈背徳災の予防と〈学習の再現〉」


 翻頁吏が骨のしおりで輪っかの図をなぞる。「蝶は頁の影。網は影を捕まえられない。光がいる」


「光=公開」

 私は頷く。「理由は影を形にする。公開で輪郭が見える」


 セレスティアが笑った。「詩人ね、悪魔」


「詩は理由の前に来ることがある。後に置けば説明になる」


 翻頁吏は薄紗の奥で瞬きを一つ。「合意」



 合意の判が三つ重なったとき、机の脚がかすかに鳴った。

 ぱきり。

 背徳災の兆候の音——ではない。別だ。

 音の来た方角を目だけで追う。窓際、影の稜線がほんの少しずれている。

 一条置換の余波に似た、世界の薄い皺。


 ノエルが目線だけで問いかける。

 私は指を鳴らさないで、別の手段を取る。


「臨時記録」

 私は会議の中央にカードを置いた。

 〈置換不使用宣言:本会談において置換を用いず、合意と公開で世界の皺を直す〉

 審級は四者。署名は三つ。翻頁吏は最後に骨のしおりで小さな印を押す。


 皺が、消えた。

 使わないことが、力になる。

 置換は、まだ棚に戻しておく。



 会談は事務へ移る。料金表は暫定版が回覧に、蝶の網は試験運用を明日から。

 翻頁吏が立ち上がる。「支払いがあれば、返す。君の頁も」


「どの頁?」


 翻頁吏は薄紗の奥で笑った気がした。「〈白い蝶を追っていた〉。断片。名を持たない頁」


 胸の内側が、ひやりとする。

 私はあえて仕事の声で返した。「R=3、U=2、L=1、E=1。Tは監査院担保。明日から支払いを始める」


 翻頁吏はうなずく。「虚界口は礼拝堂ではない。図書塔の最上段だ。風の弱い夜に来い」


 扉が閉まったあと、会議室に人間だけが残った。

 セレスティアが背もたれに沈み、天井を見上げる。「蝶を追うのね」


「追う。ただし網を張り、支払いの行列を作ってから」


「律だわ」

 彼女は笑う。「無茶は美しい。でも、秩序だった無茶は勝つ」


 ノエルが書類を閉じる。「夜になったら、図書塔へ。監査院は入口の鍵を開ける。私はそこで待つ」


 会議室を出ると、回廊の数字が夕方の光で長く伸びていた。

 リズが歩調を合わせ、小声で言う。「怖いですか」


「怖いよ」

 私は正直に答える。「でも段取りは、恐怖を薄める」


「支払いの一口目、何にします?」


「公開だ。蝶に届く種類の公開」

 私は思案し、笑う。「——失敗の公開がいい。置換に頼らず負けた記録。反証と再現のセット」


「負けを先に払うんですね」


「勝ちはあとでいい。負けの証跡は、虚界によく通る」



 夜。

 王立図書塔は、学園の塔とは違う香りがした。羊皮紙ではなく、古い糊の匂い。

 ノエルが鍵を回し、鉄扉が静かに開く。螺旋階段を上へ、上へ。

 最上段の踊り場には窓が一つ。風はほとんどない。壁には空白の額が並ぶ。まだ載るべきでない権威のための場所だ。


 翻頁吏は窓の前に立っていた。薄紗の向こうの目が、夜の光を吸って深い。


「支払いは?」


 私は鞄から薄い冊子を出す。本日の反証会の全記録。

 賛三行/反三行、再現の手順、負け筋のメモ。

 そして最後に、一枚の失敗記録。

 ——〈置換を使わずに敗北した試合:審級の立て方に遅れ、観客を判定者に昇格させ切れず、多数意見の惰性で**押し切られた〉

 反証・再現・対策つき。


「L=1、E=1、証跡二口」

 翻頁吏は冊子をめくり、骨のしおりで頁の縁を撫でた。

 静かな紙の雨のような音。

 窓の外から、白いものがひらりと入ってくる。

 蝶ではない。紙片だ。

 記憶ページは、頁ではなくほどけた紙の断片で戻ることがある。


 紙片には、小さな文字が一行。

 〈土の匂い〉


 胸が、温度を取り戻す。

 土。追っていた蝶の、近くにあった匂い。

 一枚では、形は作れない。

 でも、一枚あれば、輪郭は近づく。


「返還。帰属は?」

 翻頁吏の問いに、私は頷いた。「共同保管。監査院と召喚者が証人。私は利用権だけ」


 ノエルが短く署名し、リズも震える手で名を書いた。

 翻頁吏は紙片を封に入れ、三人の印で封を閉じた。「次は三口」


「払う」

 私は言う。「公開を増やす。反証を募る。担保を積む」


 翻頁吏は薄紗を揺らし、夜に溶けるように下階へ消えた。



 塔を降りる途中、リズがポケットから小瓶を出した。

 底に、乾いた土が少し。「礼拝堂の中庭の隅。蝶がとまりやすい場所の土です」


「匂いを覚える」

 私は小瓶の蓋を開け、肺に薄く入れた。

 土が古い紙と混ざり、虚界の気配と王都の気配が少しだけ融ける。


 階下で、ノエルが言う。「網は明日から動く。白紙も過剰合意も、鳴ったら走る」


「走ろう」

 私は小瓶をリズに返す。「蝶を追うのは走るより張ることだ。張った網に自分も引っかからないように」


 セレスティアから短い紙片が届いたのは、そのときだった。

 〈総序列戦の議題、承認目録の“理由優先”案、反対票の根回し中。明日昼、討論〉


 私は笑う。

 支払いの行列と、戦場の段取り。

 両方を同時に回すのが今だ。


「明日は二面戦ですね」

 リズが言う。


「二面なら、三行は六行いる」

 私は息を整え、指で空中に枠を描く。

 勝つ三行。

 負ける三行。

 どちらも公開する。どちらも理由にする。


 蝶は光に寄る。

光は公開でできている。


(第6話「総序列戦・予備討論——“理由優先”と“反対の三行”」につづく)

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