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虚界書庫から来た悪魔は、知識を使うたび自分を失う  作者: 妙原奇天


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第4話 祭壇での三行――“救い”の反証会

 礼拝堂は、音より先に薫りで人を迎える。

 くんしたかし蜜蝋みつろう。誰かがひそかに添加した柑橘の皮。朝の光は彩色ガラスに砕け、床に散る。石は冷え、祈りは温い。この温度差が、議場としての礼拝堂を成立させている。


 正面の祭壇には白布、三段の燭台、中央に蝶の刺繍。

 学内司祭アウレリウスは、やや長めの袖を引き、私たちを見下ろした。

 傍らの長椅子には、規程委員、礼法会の面々、劣等寮の学生、そして監査官ノエル。最後列でセレスティアが頬杖をつく。視線は退屈そうで、瞳だけが退屈ではない。


「反証会を始めよう」

 司祭は合図の鐘を鳴らした。鐘は短く、二度。

「白紙封止に書き込まれた二行――〈救いの目的〉〈救いの定義〉。三日のうちに反証されねば暫定権威と化す。**きみたち(劣等寮)**は自信があるようだね」


 私は首を振った。「自信はない。手順があるだけだ」


 リズが用意してきた三行を掲げる。

 一、救いの対象は負担を背負う者。

 二、救いの作用は負担の再配置。

 三、救いの測度は再発率の低下。


 司祭の笑みは薄く、礼儀正しい。「よろしい。――では反例を供出しよう」


 彼が指を鳴らす。扉が開き、車椅子の青年が押されて入ってきた。礼法会の生徒が脇を支える。青年の膝には布が掛かり、布の端に白い蝶。


「彼は療養寮のひとり。今朝、寄進で新しい車椅子が与えられた。寄付者は匿名。だが救いは果たされた。再発率? 何の。彼の痛みは再発ではなく持続だ。測度は無意味に近い。救いは瞬間だ」


 私は車輪の軋みを聞く。古い車輪特有の高音はない。新しい。

 ノエルが無言で控えの席から筆を取り、照会の紙を折る。寄進台帳の写しがすぐに差し出される――香の匂いの奥で、事務の速度が回る。


「反例としては美しい」

 私は静かに言う。「だが、測度は無効化されていない。——再発率の定義を場に合わせて再配置する必要がある」


 リズが一歩前へ出る。「再発は痛みだけではない。負担の**“押し付け”も再発する。寄進が匿名であれば、負担の再配置の痕跡が消え、別の誰かに新しい負担が発生する蓋然**が上がります」


 司祭の指が白布の端を撫でる。

「匿名は徳の一形態だ。誰も傷つけず、誰も誇らず、ただ必要だけが果たされる」


「必要だけが果たされた風、だ」

 セレスティアが最後列から退屈そうに言った。

「匿名は政治にも宗教にも使える布。覆いは簡単に幕になる。——承認目録の札を上書きした白紙も、匿名と同じ方便よ」


 司祭の笑みは、少しだけ冷たくなった。「令嬢、比喩が利口すぎるのは、愚かと同値だ」


「利口と愚かの定義は、再現できる?」

 セレスティアは肩をすくめ、沈黙する。挑発は十分だ。審級の視線が一斉に前へ傾く。


「測度を、帳簿化する」

 私は祭壇の前に簡易の黒板を立てた。チョークが鳴る。

 救済会計サルヴェージ・レジャー――負担の貸方/借方。

 列は三つ。対象者/供与者/第三者。

 行は三つ。時間(短期/中期/長期)。


「救いとは、負担を理由とともに再配置すること。理由が誰の前に残るかを帳簿で示す。——匿名は供与者の名前を消すが、理由まで消すか?」


 ノエルが頷き、机上の書類を広げる。「寄進台帳。用途と対象は記載、理由は**“善意”**の一行のみ」


「善意は理由ではない。動機だ。理由は測れる場所に置く」

 私は黒板の第三者欄に小さく丸を付ける。「寄進で救われるのは対象者。同時に不利益を受けるのは第三者だ。——たとえば療養寮の介助員。新しい車椅子の整備や教育の負担は誰が支払う?」


 車椅子の青年を押していた礼法会の生徒が、わずかに視線を逸らした。

 司祭が口を開く。「香部会こうぶかいが半ばを持つ。残りは奉仕で賄われる」


「奉仕は無限ではない」

 リズが机に置いた薄い帳面を開いた。劣等寮の奉仕記録。

「奉仕時間の割当は週8時間まで。それを超えた場合、授業欠席が増加し、再発(問題の戻り)の指標である寮内の小競り合いが平均1.8倍に跳ねます」


 礼法会の席がざわめく。数字は静かな暴力だ。

 司祭の指が白布の縁で止まる。「救いは計算ではない」


「計算は冷たい。救いは温い。――両方が要る」

 私は黒板に関数を書いた。

 救いの効用 E = f(負担の再配置R、理由の公開L、再発率Δ)

 Eは大きいほど良い。Rは再配置の妥当性、Lは理由の公開度、Δは再発率の低下。


「今日のケース。Rは高、Lは低、Δは不明。不足は公開だ。匿名は動機に属する。理由は公開に属する。——匿名でも理由は公開できる」


 司祭は黙り、やがて小さく笑った。「では理由を、ここで公開しよう。寄進者の代弁として」


 彼は祭壇の蝶を指でなぞる。「彼(寄進者)は、昔、蝶を追っていた。足が遅くて、いつも逃した。今日は逃したくなかった。それが理由だ」


 胸の奥に、風。

 白い蝶。

 拾われたページの走り書き。〈白い蝶を追っていた〉。

 私の何かの断片。

 膝の裏がうっすら濡れる。汗ではない、恐怖だ。忘却は恐怖に似る。


 ノエルが短く咳をし、紙をめくる。「代弁は代弁に過ぎない。照会する。寄進者はどこに?」


 司祭は微笑を崩さない。「匿名だ」


 私は短く息を吐いた。

「理由は公開された。測度に置こう。『逃したくなかった』は再現可能か?」


 リズは即答した。「可能。失敗の反転として再現される。つまり**“一度目の失敗の感情”を二度目の行為に流用するパターンです。——再発率の統計**に載ります」


 礼拝堂の空気がわずかに軽くなる。審級が合意の最小公倍数へ滑る音がする。


「判定」

 私は黒板の数式の下に三角を描いた。

 今日の救いは、Eが中の上。不足は公開。改善は第三者への負担教育。匿名は保持可。ただし理由は公に。

 臨時合意:学内寄進に理由行を求める(三行まで)。匿名は許容するが、理由は匿名不可。


 司祭は、笑った。今度はほんの少し、牙が見えた。

「君は世界を紙にする。紙で世界を縛る」


「紙は釘だ。釘は落下を止める」

 私は言葉を選ぶ。「落下は背徳災の始まりだ」


 そのとき――音。

 礼拝堂の梁が、ぴしりと割れた。

 祭壇の蝶がひらひらと震え、白布の端が裂ける。

 白紙ではない。過剰な合意だ。意図と文言が近づきすぎたときに起きる別種の軋み。


 ノエルが立ち上がる。「距離を取れ。意図と文言の距離を——」


「臨時緩衝」

 私は黒板にもう一行を追加する。

 〈反意行アンチ・インテントの義務:新規の合意には**“反対からの三行”を必ず併記**〉

 賛の三行と反の三行を並べる。意図が文言に密着しすぎるのを剥がすための隙間だ。


 セレスティアが即座に賛成した。「署名」

 ノエルも頷く。「署名」

 司祭はひと呼吸置き、肩を竦めた。「署名」


 黒板に二つの三行が並ぶ。

 賛:

 一、寄進理由の公開は再現を促し、模倣を明示化する。

 二、第三者負担の検討が制度化される。

 三、匿名の徳を保ちながら、責任が所在する。

 反:

 一、理由の公開が虚飾を誘発する。

 二、記名なき理由は捏造の危険。

 三、制度に疲労が溜まり、温さが失われる。


 梁の音が止む。

 緩衝は効いた。距離が戻る。紙は釘の役を果たした。


「本題に戻ろう」

 司祭の声は、もう怒っていない。冷たく、乾いて、よく研がれている。

「召喚札だ。白紙は神学だけではなく、召喚の棚にも入った。――誰が権威を載せるか?」


 私は頷き、黒板の端に小さな円を描く。

 召喚の権威は、三層に分ける。

 一、儀礼(礼法・定式)。

 二、理由(契約・意図)。

 三、結果(再現・失敗履歴)。

 権威として棚に置くのは、二と三。一は参考。白紙を生むのはたいてい一だ。


「臨時合意。召喚札の正目録は理由と結果の記録に限定する。儀礼は参考に下げる。異議は反証と再現を添える」


 セレスティアは最初に署名し、規程委員が承認印を押す。審級十名(先ほどの学生たち)が頷きの連鎖で追認する。

 司祭は、今度は笑わなかった。

 彼は静かに祭壇を撫で、蝶の刺繍の糸を一本、指でつまむ。


「蝶を返す気は、まだない」

 彼は言った。「白紙は、沈黙ではない。余白だ。余白は詩を呼ぶ」


「詩は好きだ」

 私は答えた。「詩は理由の前に来ることがある。後に置け」


 司祭は肩を落とし、微笑を薄く広げた。「総序列戦までに、もう一度会おう。蝶は飛ぶ。君も飛べ」


 礼拝堂に解散の鐘が鳴る。

 扉が開き、光が滑り込む。

 外に出た石段で、リズが小さく息を吐いた。


「勝ちましたか?」


「止血した。勝敗はまだ」

 私は空を見上げる。白い欠けは、今朝と同じ形に見え、昨日と違う形にも見えた。

 置換は、まだ切らない。切らないことで拾えるものがある。

 拾う先を、こちらで用意しなければならない。


「虚界への道を学内から伸ばす」

 私は言う。「司書に料金表を出させる。記憶ページの回収条件を契約化する」


 セレスティアが階段の柱にもたれ、指で髪を遊ばせる。「料金表。悪魔らしい言い方ね。王都の監査院を巻き込む?」


「巻き込む。理由を公に置き、再現を共同に置く。蝶を取りに行く前に、網を張る」


 ノエルが書類を鞄に戻し、短く言う。「明日、監査院で三者会談を。君と、副会長と、私。司書の代理人も呼ぶ」


 私は頷いた。

 石段を降りる途中、リズがふいに立ち止まった。

「蝶って、どんな蝶だったと思います?」


「白い」

「形は」

「忘れた」

 リズは笑う。「設計しておきましょう。忘れたまま、選べるように。輪郭だけでも」


 彼女は指で空中に蝶を描く。上下非対称、翅脈は少し濃い、腹は短い。

 仮の蝶。

 仮の輪郭。

 仮の私。


 私は、うなずいた。


(第5話「監査院の三者会談――“料金表”と“蝶の網”」につづく)

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