抗い
しばらくして、私たちは抱き合うのをやめた。今更ながら少し恥ずかしくなって。距離をとって座る。沈黙にも耐え難くなってきた頃。二人ともくしゃみが出た。
鼻水が同時に垂れたのを見て、どちらからどなく笑った。
風と雨は弱まったものの、雷だけは置いていかれたのか、ごろごろという凄まじい音が近く響く。
「近いね」
「うん早く帰ろうか」
晴太が歩みを進め、こちらを振り返る。伸びされた小さな手をつかもうと、こちらも手を伸ばす。
その瞬間だった。
ピシァッ!という空を割くような凄まじい音が響き、辺りが眩い光に包まれる。それは一瞬のことだったが、あまりにも強烈すぎた。いつも気持ちの良い木陰を提供してくれた木が赤い炎に包まれる。
根が張ってたであろう辺りは、その衝撃でずんと揺れた。崖の先端が崩れ、足元がなくなる。「あっ」と思った時には、私の体は谷へと落ち始めていた。
「朝子ちゃん!」
ああ、私はここで死ぬ。そう思った瞬間、体はぐいっと引っ張られ、気づけば崖の上にいた。
「……晴太!」
晴太が助けてくれた。手を引っ張り、反動をつけて勢いよく私を引っ張った代わりに身代わりになったのだ。
急いで崖の下を覗き込むと、晴太は崖から飛び出すように生えた今にも折れそうな細い木の根に捕まっていた。
「晴太!晴太!」
急いで、手を伸ばし、その腕を掴む。一生懸命に引き上げようとするが、自分の足元も不安定な上、彼の腕は雨でつるつるすべった。
「必ず助けるから!」
音を立て、晴太が掴んでいた。枝が折れる。
「ああ!!」
既のところで手のひらを握る。指先に、腕に、肩に彼の全体重がかかる。
「朝子ちゃん……」
「大丈夫!絶対ひきあげる!」
どんなに力を入れても。掴んでいるだけで精一杯。それでも体中の力を腕に集める。どうにか。どうにかして、腕なんかちぎれてもいい。だから。
「あーーーー!!」
声をあげても、雨で濡れて疲れた体に力がもどってくることはない。心配そうに晴太が私を見つめる。大丈夫。大丈夫よ晴太。私が絶対に助けてあげる。
「朝子ちゃん」
「大丈夫だから!」
「朝子ちゃん……」
「絶対助ける!」
「朝子ちゃん!」
叫ばれて、晴太の顔を見る。
晴太は笑っていた。いつものあの笑顔で。
「もういいよ、離して。このままじゃ。二人とも落ちちゃう」
「そんなことさせない。大丈夫それまでにひきあげるから!」
顎からぬけぞったって、力は足りない。晴太の位置は変わらなかった。
辛うじて私の手首を掴んでくれていた晴太は、あろうことか一本ずつ。その指を剥がしていった。
「あっ、駄目!」
そのせいでずるりと指が滑り、懸命に握っていた晴太の手首が下に落ちていく。手首より手のひらのほうがずっと掴みにくい。滑りそうになるのを必死で堪えていた。
「バチが当たったんだ。朝子ちゃんにたくさん痛い思いさせて……ごめんね。ごめんね朝子ちゃん」
淡々と。まるで当たり前かのように晴太は笑う。許せない。そんなの許さない!
「そんなこともういいよ!だからはやく掴み返してよ!本当に落ちちゃう!!!」
「……僕はきっと、いつか君を殺す。そんなの嫌だ」
「私だって嫌だよ。私だって晴太を殺したくないんだ」
「嫌でも来るんだ。そんな日が。いつか来るんだよ」
「いつかはいつかだよ!少なくとも今じゃない!お願い!私に晴太を殺させないで!!」
離さない。手がちぎれようと、指一本になろうと晴太を離さない。
「僕が死ぬのは朝子ちゃんのせいじゃないよ。僕が死ぬを選ぶんだ。これがいつかが来ない方法なんだよ。きっと」
涙がこぼれ、晴太の顔に落ちる。晴太は笑っているのに、まるで泣いているようだった。
「朝子ちゃん。お願い……」
手のひらが冷たい空気を掴む。
体が軽くなり、心臓がずんと沈むように痛んだ。
ずっと。晴太と目が合っていた。
どんどん眼前から離れていく晴太は。
変わらず笑っていた。生きていた。
ぐじゃっという音が響く。
その瞳から私が消える。光が消える。
はるか崖の真下が赤で染まっていく。
それを雨が流していく。
そんな、そんな死に様があっていいのだろうか。そんな幸せそうに落ちて、そんな一瞬で生を失うなんて。
ずるい。ずるいよ。
「あぁ…ああ……」
私は手を伸ばした。何度も何度も。
どうにもならないのに。
なるわけもないのに。
雨があがり、雲の切間から光が差す。湿った木が燃えた臭いがする。
私が帰る木陰も、そこにいた人も。
もうどこにもなかった。




