あかり
その日は久しぶり朝から雨が降っていた。ざーざーごーごーという酷い風と雨でカエルさえも鳴いていない。風に吹かれた木が今にも倒れそうに斜めに頭を垂れ、田んぼの水面は忙しくなく水を蓄えて、溢れていた。
傘をさしても無意味。とうに骨の折れた傘はたたみ、ぐっしょり濡れたまま家の帰路を目指していた。こんなときぐらい学校なんて休みすれば良かったのに。靴の中までぐしゃぐしゃで歩くたび嫌になる。
揺れる雨をくぐるように進む。いけども、いけども幕はなくならない。
ふと、幕の向こうから何かが近づいてくるのが見えた。
晴太だ。
心臓が脈打つ。ずっと見ないようにしてたあいつが近づいてくる。俯いて、なるべく平静を装って歩く。
あの時と同じようだ。一年前の雨の日。泣きながら駆け抜けていった晴太。
涙を流していた晴太。
もしかして彼はまた泣いているのか。
少しだけ顔をあげ、視界に彼を入れる。
私の真横を通り過ぎ、あの時と同じように森へと駆け抜けていく晴太の背中を見送る。
私は持っていた傘を捨て、彼を追った。
晴太は笑っていた。
泣いていたのなら、放っておいたかもしれない。なにがあったとしてもざまあみろ。とその背中に叫んだかもしれない。ただ彼は笑っていたのだ。目を細め、口角をあげ、狂ったように。
晴太を追って、いつもの小さな木陰へと向かう。晴太が居たら嫌だからと。しばらく近づきもしなかった場所だ。
何度も木の根や小石に足を取られながら、やっとの思いで、その背中に追いつく。道中何転んだせいで、両方の肘と肘。手のひらから血が滲んでいた。
「晴太!」
声をかけると、晴太は振り返った。
まだ笑っている。声も出さずに、淡々と。
あまりの異様さに足がすくむ。
「ああ、朝子ちゃん。久しぶりだね」
愉快そうに、へらへらしたまま晴太は叫ぶように大声で答えた。
「こんなに濡れたら風邪引くよ。早く帰ろう」
「朝子ちゃんだけ帰れば」
「そんなこと言ってないで……」
「あはは。帰りたくないんだ。もう」
崖のふちにずんずんと向かう晴太にすくんでいた足が駆け出す。
晴太はまるで、崖なんてないかのように前に進む。もうすぐで落ちるというところで私はやっとその背を捕らえて、シャツを引っ張った。二人でバランスを崩して、そのまま後方に尻餅をつく。
「なにしてるの?!落ちるところだったでしょ!」
「なんで落ちちゃだめなんだ」
「なんでって……死んじゃうよ!」
小高いと言っても下は谷の石畳だ。ただの崖。仮に頭から落ちればただではすまない。
「なんで、死んじゃだめなの」
笑ったまま、晴太は続ける。
「なんで、死んじゃ駄目なの?いつか死ぬんだ。今じゃ駄目なの?どうせ僕らは殺し合うんだ。朝子ちゃんが僕を殺すかもしれないし。僕が死んだら嬉しいんだろう」
「そんなの……嬉しくない」
「なんで、だって僕のこと嫌いだろう。嫌いな奴はみんな死んだ方がいいでしょ。僕は祭りの時本気で君を殺そうとしたんだ。そんな奴憎くないわけがない。憎い奴が死んだら嬉しいでしょ」
笑ったまま、力強く晴太は私を突き飛ばし、立ちあがろうとする。視線の先は崖しか見ていない。
後ろから腰の辺りを抱えるようにして私はその歩みを止めさせた。
「早く離してよ!僕が死んだら嬉しいはずだ!みんな!みんなそうなはずだろう!」
晴太が私の腕を剥がそうと指先に力をいれる。しだいに、爪までもが肉に食い込むが、離すわけにはいかなかった。離したら、きっと本当に晴太は飛び降りる。
「嬉しくない」
「嬉しいだろ」
「嬉しくない」
「嬉しいはずだ!」
「嬉しくない!」
大きな声で叫ぶと晴太の力が緩んだ。そしてそのまま地面に膝を突き、腕もだらりと垂れた。
私もやっと、晴太から腕を離す。その顔を覗きこむと、もう、彼は笑っていなかった。
「何があったの……晴太」
顔面蒼白の晴太はぽつりと呟く。
「おばあちゃんが……言ったんだ」
「何を……」
「祭りの夜。朝子ちゃんを殺せば……お母さんと一緒に暮らせるって」
「え……?」
ぽつりぽつりと彼の目から静かに涙が零れ落ちる。
「お母さんは家の離れに住んでるんだ。……夜になると、村の男の人たちがその離れに入っていくんだ。毎日毎日。僕がどんなに願っても入れないのに。お母さんにひどいことして朝には帰っていく。僕ならそんなことしないのに……それなのに僕はお母さんのそばにはいけない」
晴太の母、月見里朋枝は私の父、日向昌とかつて子を成した。そのせいで私たちは生まれた。朋枝は新たな子を成すために村の慰み者にされていた。慰み者がどんなことをするのか詳しいことは分からない。ただとても気持ちの悪いことをさせられることだとは知っていた。それが晴太が生まれた今でも続いてるなんて。
「おばあちゃんは、それが罰なんだ。って言ってた。でも、もし僕が祭で朝子ちゃんを殺したら……その罰を終わりにしてくれるって約束してくれたんだ。そしたら離れから出して、僕の部屋で一緒に暮らしていいって……」
晴太が涙を拭ってもあとからあとから止まらない。
「だからごめん。気絶したフリしようっていったのに約束破って……たくさん。たくさん…痛くして…ごめん……本当にごめん……」
許せなかった。晴太がじゃない。月見里のばあさんが、晴太を追い詰め、私を痛めつけさせられたなんて。
「もういいよ、晴太。でも、お母さんとは暮らせたの?」
晴太は涙を拭いながら、うなづいた。
「朝子ちゃんは死ななかったけど……。よくがんばったからって、おばあちゃんはお母さんを出してくれたんだ。初めて会ったけど、この人が母さんなんだって思ってうれしくて。これから僕の部屋で一緒に暮らせるのがすごくすごく嬉しかったんだ……僕は朝子ちゃんにひどいことしたのに、うれしかったんだ。勝ってよかったって……後悔なんてしなかったんだよ。だからごめん。ごめんなさい」
「嬉しくない方がおかしいよ……でも、どうして死のうとしたの。晴太には友達ができて、お母さんも戻ってきたんでしょう。これからずっと嬉しいが続くんだよ。なのにどうして……」
晴太はそれからしばらく押し黙った。ただ涙だけを流し、鼻を啜り、大きく一二度、深呼吸をした。
「僕は。お母さんに愛されていなかった」
静かに晴太は呟いた。
「お母さんは、心を壊していたんだ。でもそれは牢にいたからだって……僕と暮らせばきっと。元に戻るんだって思ってた。元なんて知らないけど。きっと優しく抱きしめてくれるって… 手を握ってくれるって…目を合わせて話してくれるって……」
地響きのような雷鳴が響き、遠くの空が光る。風も雨もより強くなっていく。
「でも駄目だった!僕がどんなに話しかけても、触れても。お母さんはなにも返してくれない。どこも見てもくれない。でもよかったんだ。それでも……そばにいるだけで。話を聞いてもらえるだけで……いつかいつか」
咳き込み、晴太はえづく。背中をさすってやると、少しだけ嘔吐した。それも雨がすぐに洗ってくれる。
「今日。お母さんが初めてしゃべったんだ。初めて声を聞いたんだ」
「なんて言ったの……」
「あかり」
その名の意味が。なぜか私にも分かった。
私の顔を見て、晴太は弱々しく笑った。
「そうだよね……やっぱり…そうなんだ……」
それはきっと私たちの姉兄の名前。
朋枝と昌の子供。
「僕のことなんて、見えないんだよ。僕の声なんて、聞こえないんだよ一つも届かないんだよ。お母さんが見たいのは、声を聞きたいのはその人だけ。どこにいるかもしらない僕たちのお姉ちゃん……そうしたらなにもかも馬鹿らしくなくて……どこかに行きたいのにどこにも行きたくなくなって……」
晴太は弱々しく私の肩の辺りを掴み、懇願するように見つめてくる。
「ねぇ、朝子ちゃん。僕。死んじゃだめなのかな。生きていないといけないのかな」
私も泣いていた。晴太は私なのだ。私は晴太なのだ。ただ静かに彼を抱きしめた。強く強く。彼の母親の代わりに。私の父親の代わりに。
「私は晴太が死んだらやだよ。ずっと生きていてほしいよ。晴太に殺されたくなんかない。晴太を殺したくなんかない。それじゃあダメなの?お母さんに愛されないとダメなの?私が愛してあげる。誰よりも、世界で一番愛してあげる。それじゃ、ダメなの?」
これは、朋枝と昌が犯した愛じゃない。友愛でもない。親愛でもない。同情でもない。もっと別のなにかだ。
ただ私が誰かに言われたかった。誰でもない。晴太に言ってほしかった言葉。きっと晴太が言ってほしい言葉。
沈黙の後。晴太の腕が私の背に回った。
「十分だよ……きっと……十分だ」
ぎゅっと込められた力は弱々しくて、でも。しっかりとしていた。




