雨上がりの秘密
その日は夏なのに寒かった。祖母に服の下にシャツを着せられた。
学校からの帰り道。まだ家に帰りたくなくて、友人と一人別れた後で、ふらふら村をほっつき歩いていた。雨が途中で降り出して、私は村外れの小さな祠のわずかな隙間に潜り込んで雨露をしのいでいた。
特にすることもなくカエルの声を聞いていると、だんだん眠くなってくる。風はなく、雨は真っ直ぐに地面に落ちていく。景色がぼんやりと滲んで、灰色の幕のようだった。代わり映えのない景色にうとうとしていると、不意に幕の中を何かが横切った。
膝の上に落ちかけていた頭をあげ、それを見る。
晴太だった。晴太が幕の中を駆け抜けていく。あまりに一瞬だったけれど、晴太は泣いていた。そういうふうに見えた。
「晴太!」
思わずかけた声は。一層大きくなった雨音にかき消され、晴太は灰色の中に消えていった。
とても。とても嫌な感じがした。
晴太は泣かない。そんな晴太が泣いている。
それが不思議で怖い。
何かに突き動かされるように、灰色の中に飛び出して、晴太を追った。
晴太が走っていった方向は森だ。いつも昼寝をする小さな木陰のある崖がある。普段はなんともない道も雨でぬるついて、前は見えなくて、一歩間違えば下の谷に落ちそうだった。
一番高いところまでいつもよりもずっと時間をかけて登ってきた。
その崖に淵に、晴太は立っていた。
「晴太!」
雨粒に掻き消されないように大きな声で呼びかける。晴太の肩がわずかに震える。
「なにしてるの!こんな雨の中……」
呼びかけても、振り返りはしない。
「ねぇ……」
やっと近づいて、その肩を叩く。
それでも振り向かない晴太の腕を掴んで、無理矢理にこちらに振り向かせた。
ひどいものだった。
口元は歪み、眉は下がり、目からは雨ではないとわかるほど、次から次へとぼろぼろと大粒の涙が溢れ出ている。
思わず、息を呑むと、晴太は震えた声で取り付くように笑った。
「なんだ朝子ちゃんか」
「なんだじゃないよ……どうしたの」
「別に……ちょっと散歩」
「こんな雨の日に散歩なんてするわけないじゃん。傘だって持ってないのに」
「そんなの朝子ちゃんも一緒でしょ」
「私は……ただ。あんたが泣いていたから」
晴太は顔を伏せるぐしゃぐしゃと顔を擦った。
「あんたでも泣くのね。あんたは……泣かないと思ってた」
どんなに辛い目にあっても、晴太は泣かなかった。それが一部の人間の加虐心を煽っていた。いっそ女々しく泣けば、誰かしらは庇ってくれたのではないだろうか。
「泣いてなんかないよ。雨だよ。雨のせい」
弱々しく呟くが、結局どんなに拭ってもそれはあとからあとから流れてくるのだろう。
「こんなに濡れたら風邪引くよ。早く帰ろう」
「朝子ちゃんだけ帰れば、僕はもっとここにいるから」
「そんなこと言ってないで……」
「あーーーーーーーーー!!」
突然晴太が叫んだ。びっくりして伸ばした手を引っ込める。叫んだ声はすぐに風にかき消され、雨に溶けていく。
「僕、雨の日が好きだ。雨が降るとみんないなくなるんだ。道も田んぼも森も、山も。この世に僕一人みたいになる。こんなに大きな声出しても。……どんな顔したって、誰も気にしない」
知らなかった。晴太は、いつも雨の中で泣いていたんだ。理不尽に文句を言ってたんだ。私なんかよりずっとおしゃべりで好き放題に。
「あーーーーー!」
私は叫んだ。晴太の隣で。
胸の中のもやもやが、音になって、息になって空間に飛び出す。そうして心地よく溶けていく。あっという間だ。砂糖を水に溶かすよりもっとずっとすぐ。
晴太はびっくりしたように私を見つめていたけど、またすぐに叫んだ。私も叫んだ。
雨が止むまで、私たちは声のかぎり叫んだ。
喉がヒリヒリするほどに、汗が雨に滲むまで。
夕方。真っ赤な太陽が、雲の隙間から漏れていた。
水たまりに、木の葉に、草の露に光が反射して金色に輝いていた。
「朝子ちゃん。今日のことは秘密だからね」
「……うん」
晴太はニコリとまたいつもの調子で笑うと、先に山を降りていった。
その後ろ姿が見えなくなると、私は崖の方に振り返った。
「あー……」
夕焼けに小さく呟いた。少し、こそばゆかった。




