風雷の如く
一瞬前までの気怠げな空気は霧散し、第一区画に漂う空気が鋭利な刃物のように重く澄み渡る。
「……リシェラ、下がってろ」
ゼクフィスが、低く鋭い声で吐き捨てた。
いつもの粗暴な笑みはどこにもない。野獣の如き鋭い眼光を目の前の怪物へ固定したまま、リシェラを片腕で庇うようにして背後へ押しやる。
「コイツはただの雑魚じゃねぇ……。息を吸うのと同じ軽さで人を殺りやがる、本物のバケモノだ」
「ゼクフィス――」
「いいから、疾く、引っ込め。手ぇ出したら一撃で死ぬぞ、テメェ」
リシェラを視界から外すことなく後ろへ下げ切ると、ゼクフィスは腰の鞘へゆっくりと手を伸ばした。
ジャ、と金属同士が擦れ合う硬質な音が静寂を割る。引き抜かれた剣の剣身が、立ち上る粉塵と光を反射して怪しく煌めいた。
呼吸を整え、切っ先をまっすぐシャルヴィエラへと突きつける。
「――『瞬刻の風雷』ゼクフィスだ。テメェ、魔族だろ?何者だ?」
周囲の惨状などどこ吹く風といった様子で、シャルヴィエラはくすくすと喉を鳴らして笑った。
「あらぁ……丁寧ねぇ。名乗りを上げる人間なんて、この街に来てから初めてだわぁ」
シャルヴィエラは短剣を弄んでいた鎖の動きを止め、気怠げに、だがどこか楽しそうに首を傾げる。
「いいわよぉ。乗ってあげるわぁ。――ウチは『神子屠殺典』洗礼の章――『死導赦』シャルヴィエラ・デス・ペラード」
「『神子屠殺典』……なるほど……通りでイカれたことをやってやがんだな」
驚きを押し殺すように、ゼクフィスは獰猛な笑みをその唇に刻み直した。
全身の細胞が警鐘を鳴らしている。一歩でも踏み外せば即座に死が訪れるという極限の緊張感。それが逆に、ゼクフィスの狂暴な戦闘本能を激しく昂ぶらせている。
「まぁいい。することは最初っから決まってるからな。疾く、殺す」
――ガァンッ!
大気を爆砕する凄絶な衝撃音が、緊迫した世界を揺らした。
ゼクフィスの姿が、文字通り消える。
踏み込んだ地面は蜘蛛の巣状に割れ、爆風と化した衝撃波が粉塵を一気に吹き飛ばす。
『瞬刻の風雷』――その異名の通り、目視すら不可能な超高速の足さばき。極限まで高められた殺意と戦闘本能が、雷光の如き一閃となってシャルヴィエラの首元へと肉薄する。
「——死ねッ!!」
視界が置き去りになるほどの極限状態。長剣の軌跡が空中に一本の眩い光の筋を描く。肉を切る手応えすら覚悟したゼクフィスの瞳に、確固たる殺気が宿る。
――しかし。
キンッ、と。
拍子抜けするほど可憐な金属音が空に響く。
「――っ!?」
ゼクフィスの表情が、驚愕へと凍りつく。
踏み込みの勢いのまま固定された長剣の切っ先。それを逸らしていたのは、シャルヴィエラが右手で弄んでいた小さな短剣だ。
超高速の突進。岩をも断つ長剣の斬撃のエネルギーが、僅か数センチの受け流しによって軌道をミリ単位で狂わされ、シャルヴィエラの金色の髪をわずかに揺らして空を切る。
「早いわねぇ……。風みたいだわぁ」
シャルヴィエラはまばたき一つせず、至近距離でゼクフィスを見下ろしていた。
短剣を握るシャルヴィエラの手首は、微動だにしていない。ゼクフィスがどれほどの質量と速度を叩き込もうと、巨大な大樹に止まった一匹の羽虫をあしらうかのような、圧倒的な余裕。
「――でも、一直線過ぎるわぁ」
くす、と笑った瞬間のことだった。
ジャラッ!!
左手に握られた鎖が、まるで意思を持った生き物のようにゼクフィスの首元へと肉薄する。
「チッ……!」
強烈な悪寒が背筋を駆け抜ける。ゼクフィスは強引に踏み込みをキャンセルし、身体を限界まで捻って後方へと跳躍した。一秒にも満たない判断の遅れが死を分かつ。
ゼクフィスが離脱した刹那、首筋があった空間を、鋭利な刃のついた鎖が空を切り裂いて疾走した。
「あらぁ、躱すのねぇ」
「そんな喋ってる暇、テメェにあんのか?」
着地の直後、瞬きすらせず、ゼクフィスは踏み込む。
「付与魔呪綴――『風・刹・雷 刹那!!』」
瞬間、ゼクフィスが消える。先ほどの踏み込みよりも更に速い、圧倒的な速度。
『風・刹・雷 刹那』――極限の加速を自身に付与する、ゼクフィスの最高速。先ほどとは文字通り次元の違う、音すら置き去りにする超神速の領域。
ゼクフィスが選んだ殺傷軌道は、シャルヴィエラの視覚的な死角となる右斜め下からの鋭い潜り込み。
低空を這う蛇のような体制から、シャルヴィエラの右足元を起点に、脇腹から右腕へと駆け抜ける必殺の斜め斬り上げ。
「——ッ!!」
空気が摩擦熱で焦げる匂い。
その超絶的な速度でもシャルヴィエラは己の短剣を駆使――
ズシャッ!!
「――あらぁ?」
鮮血が舞う。
短剣を握るシャルヴィエラの右腕、その白銀の袖口が引き裂かれ、真白な肌に一筋の真っ赤な線が刻まれた。肉を削ぎ、皮膜を切り裂く微かな感触が、剣身を通してゼクフィスの両手に確かに伝わる。
ゼクフィスの瞳に歓喜の光が宿った、まさにその僅かにも満たない直後。
――ギィンッ!!
鼓膜を刺す、あまりにも高音で硬質な衝突音。
「くそがっ……!!」
ゼクフィスの腕に、痺れるような強烈な反動が跳ね返ってきた。
斬り上げたはずの長剣の刃線が、寸分違わず押し戻されている。
浅く血を流したはずのシャルヴィエラの右腕――その手首が、あり得ない速度と精度で翻っていた。掠め切られた直後、痛みすら感じさせない無機質な動作で短剣を滑らせ、長剣の側面を正確無比に叩き弾いたのだ。
「――っく……!」
ゼクフィスの体勢がわずかに崩れる。
シャルヴィエラはその力利用するように、ふわりと羽毛のように宙へ踊り、後方へとバックステップを踏ぶ。血が滴る右腕をさほど気にした様子もなく、着地しながら首を傾げる。
「痛いわぁ……。本当に、風みたいに速いのねぇ」
着地したシャルヴィエラは、傷口から流れる血を指先で一撫でし、ペロリと舌で舐めとった。
「――チッ……!!」
後退ったシャルヴィエラとの間にできた、僅かな距離。
ゼクフィスは足裏で激しく地面を削りながら体勢を立て直すと、低く息を吐いた。
――瞬間、ゼクフィスの脳裏に強烈な違和感が跳ね上がる。
『刹那』は、自身に付与できる魔呪綴の中でも完全な速度特化だ。
だが――目の前のバケモノは、まったく防御の体勢すら取らずに、その一撃をまともに受けた。
わざと?いや違う。ゼクフィスには分かる。
あれはわざと受けたわけじゃない。
だとしたら何か?決まっている。
――油断だ。いや、どちらと言うと動揺の方が近いのかもしれない。
ゼクフィスの行動の何かしらがシャルヴィエラの動揺を誘ったのだ。そこにシャルヴィエラ攻略の鍵があるのではないかと、ゼクフィスは思う。
だが今は――
「まだまだ行くぞ!」
無駄な思考は放棄する。
一度距離が開いた。それはシャルヴィエラにとっては体制を整える隙かもしれないが、ゼクフィスにとっては、更なる加速のための助走距離に他ならない。
「遊んでんじゃねぇぞ、バケモノ……!!」
ゼクフィスは両足の筋肉を極限まで収縮させ、剣身にバチバチとした重厚な放電を纏わせる。
「付与魔呪綴――『風・刹・雷 雷刃!!』」
ドバァンッッ!!
地面が爆ぜ飛び、大気が破裂するような轟音が響く。
だが今度は、直線的な突撃ではない。
直進すると見せかけたゼクフィスの身体が、踏み込みの瞬間に激しくうねる。
雷光の軌道が直角に歪み、崩れかけた建物へと残像を残して消えた。
「あらぁ……?」
シャルヴィエラが首を傾げたその刹那――。
ガキィンッッ!!
左斜め後方、半壊した建物の壁を蹴ったゼクフィスが、瓦礫の陰から雷光となって飛び出し、首筋へ一閃を放つ。
シャルヴィエラは振り返り、右手に握った短剣でそれをで受け止める。
だが、ゼクフィスの攻撃はそこで終わらない。
衝突の反動を利用し、ゼクフィスは空中を捻りながらすぐ横の倒壊した屋根へ足を着地。そのまま跳躍し、死角となる頭上から、落雷の如き唐竹割りを振り下ろす。
ズガンッ!!
シャルヴィエラが頭上に振り上げた鎖が唸り、重密度の威力を受け流す。周囲の石畳が全方向に吹き飛び、粉塵が舞い散る。
受け止められたと悟った瞬間に、ゼクフィスはすでに次へ動いていた。
鎖を蹴って身を翻し、崩れかけの壁、破砕された石像、散乱する瓦礫の山――この場に存在するあらゆる遮蔽物を足場にして、縦横無尽に空間を跳び回る。
ギィンッ!ガンッ!ズバァッ!
東から西へ、頭上から足元へ、斜め後方から右脇腹へ。
視界を埋め尽くす雷の残像。壊れかけの建造物を足場に何度も屈折し、加速を殺さぬまま連続して繰り出される、全方位からの狂乱の連撃。
大気を引き裂く雷鳴と、激しい金属打撃音が、絶え間なく第一区画に響き渡り続けた。




