理解の外側
頭上で不気味な軋み音を立てて広がる漆黒の亀裂を見上げたまま、呟いた。
「我にもあれが尋常ならざる事態であることくらいは解る」
ヴレイヴァは鼻を鳴らしつつも、いつもなら浮かべる余裕の笑みを消し、神妙な面持ちで空を見つめている。あの横柄な男が警戒を露わにしているという事実が、さらにこちらの危機感を煽る。
「何、これ……」
目の前で巻き起こる天変地異のような光景に、ルナネアは蒼白な顔で肩を震わせている。
「落ち着け、ルナネア。俺たちがここで怯えていても何も始まらない」
己の動悸を必死に抑え込みながら、前に乗るルナネアの肩を静かに叩く。
「ヴレイヴァ、どうする?正面から突入するのは警戒していたんだが……こうなった以上、様子を伺っている余裕はない」
「愚問だな。敵が天であれ地であれ、退く選択肢など我には存在せん。むしろ、この混沌こそが我の降臨に相応しい舞台ではないか」
「頼もしいよ。……ルナネア、怖いか?」
「……ううん。怖くない」
一瞬の後、ルナネアが再び口を開く。
「嘘。少し怖い。でも、大丈夫。ファイと一緒だから」
不安を押し殺し、まっすぐに見つめ返してくる翠の瞳。
「よし。……行くぞ!」
馬の腹を蹴り、崩壊した入り口へと駆け出す。
頼む、無事でいてくれ……リシェラ、ゼクフィス。
胸の奥を刺す痛みを振り払い、俺たちは一直線に門へと向かう。
――間近で見る門の惨状は凄惨極まりなかった。
先ほど砕け散ったのは、重厚な鉄で作られた巨大な鉄の門だ。その頑丈な鉄の板が、まるで紙くずのように無残に破られている。
「衛兵が……一人もいない……?」
門周辺を警戒しているはずの衛兵たちの姿は消え失せていた。残されているのは、壊れた門の残骸だけだ。
崩れ落ちた鉄門を通り抜け、第一区画の内部へと足を踏み入れた瞬間、凄まじい喧騒と悲鳴が俺たちの鼓膜を刺す。
「きゃあぁぁぁっ!逃げろ、逃げろおぉっ!」
「空が割れてるぞ!世界の終わりだっ!」
「押し通せ!外へ出ろ!」
街道はパニックに陥った住民たちで溢れかえっていた。門を目指し、押し寄せてくる大群衆。家々の隙間からは黒煙が立ち上り、何箇所もの建物が何らかの力により破壊されて瓦礫の山と化している。
そして何より――遠くから、不気味な衝撃音が断続的に響いてきていた。どこかで激しい戦闘が続いている証拠だ。
「これじゃ馬で進むのは無理だな……」
「見て!みんな門に向かって走ってくる!」
押し寄せる避難民の波に呑まれそうになり、馬が暴れかける。手綱を引き絞りながら、素早く周囲を見回す。
「ヴレイヴァ!馬をこのまま連れて行くのは危険だ。どこか安全な場所に避難させよう!」
「仕方がない。では、影に潜ませるぞ」
「路地裏だな!」
街道の脇、崩れた倒壊家屋の影にある小さな路地に馬を引き入れ、強固な木箱に手綱を固く結びつける。
「よし、ここなら逃げ惑う人波に巻き込まれずに済むはずだ。……ルナネア、馬から降りてくれ」
「うんっ」
ルナネアを地面へ降ろす。
「まずは状況把握だ。どこで何が起きているのか突き止めないと動きようがないからな」
「あの破壊された鉄門の上へ行くぞ」
ヴレイヴァが、ひしゃげて倒壊した巨大な鉄門の残骸を指差した。
「あそこなら、この区画全体を見渡せる高所のはず。あそこから戦火の元を突き止める」
「了解だ」
「分かった」
俺たちは瓦礫とひしゃげた鉄くずの山と化した巨大門を、足場を探しながらよじ登り始めた。鉄の角が鋭く突き出し、一歩足元を滑らせれば大怪我では済まない。
荒い息を吐きながら鉄の頂上へと辿り着き、第一区画の全貌を見下ろした瞬間――息をのんだ。
「どう、なってんだ……」
視界に広がっていたのは、壮麗な第一区画の街並みではなかった。
いくつもの建物が崩壊して炎と煙を上げており、空の亀裂からは黒い粒子のようなものがチラチラと降り注いでいる。
そして何より、第一区画の中心では、何かが今も、戦い続けていた――
――第一区画が絶望に飲み込まれる、少し前。
その女がこの街に足を踏み入れたのは、ほんの数日前のことだった。
『神子屠殺典』幹部――シャルヴィエラ。
組織の老人から与えられた命は、要塞都市に潜入し、末端であるソフーテを殺した者を特定・排除するとともに、都市内部の情報を取り探るという『極秘裏の密偵行動』。
気怠げに深いフードを目深に被り、市井の雑踏に紛れていたシャルヴィエラだったが――今、その偵察はあまりにも身勝手な形で終わりを告げようとしていた。
他人に一切の興味がないシャルヴィエラにとって、行き交う人間たちのくだらない会話を盗み聞きし続ける時間は、正気でいられる限界を超えた苦痛でしかなかったのだ。
そして――事件は、第一区画の薄暗い路地裏で静かに、そして突発的に引き起こされた。
深いフードを目深に被り、シャルヴィエラは第一区画の薄暗い路地裏を歩いていた。
「つまんないわぁ……」
何度目になるか分からない溜息を吐く。
「要塞都市に潜入し、ソフーテを殺した犯人を突き止めつつ情報収集せよ」。組織の老人から命じられた任務を忠実に実行しようと、数日間この街の市井に紛れてみたものの、シャルヴィエラの忍耐はすでに限界を迎えていた。
行き交う人間たちの、くだらない愛憎劇。無意味な日常の雑談。今回も収穫なし。何か知ってそうな衛兵たちの話しも、基本は下らない雑――
「――ねえねえ、お姉さん?そんな暗い路地で一人で何してんの?」
思考を遮るように、下品なへらへらとした声が横からかけられる。
シャルヴィエラが振り向くと、酒臭い息を撒き散らした若い男が、ニヤけた顔で肩に手を伸ばしてくるところだった。
「ねえ、フード取って顔見せてよ。俺たちと良いこと――」
「今急いでるのぉ」
足早に立ち去ろうとするシャルヴィエラ。だが、若い男が道を塞ぐ。
「そんなこと言わずにさ、ちょっとだけだよ」
「うるさいわぁ」
次の瞬間、言葉は途絶えた。
刃が肉を断つ音すら遅れて届く。
シャルヴィエラの腕から金属音が響いたと思うやいなや、男の首からは鮮血が噴き出し、頭部が静かに地面へと転がり落ちていた。
「ひっ……!?ぎゃあぁぁぁぁっ!?」
物陰で様子を伺っていた男の仲間たちが、喉を潰したような悲鳴を上げる。
「殺した……!あいつ、一瞬で首を……っ! た、助けてくれぇ!衛兵!衛兵ぇっ!」
逃げ惑う男の叫び声が路地裏に木霊する。シャルヴィエラは気怠げに、腕にぐるぐると厳重に巻きつけられた細い漆黒の鎖と、その先に繋がれた二本の凶悪な短剣を指先で弄んだ。
「あらぁ、仲間がいたのねぇ」
数分も経たぬうちに、甲冑の重厚な足音が路地を埋め尽くした。
通報を受けた数十名の第一区画の衛兵が、長槍と盾を構えてシャルヴィエラを完全に包囲する。
「貴様!動くな!おとなしく投降しろ!」
「不審者め、フードを脱げ!」
衛兵たちの殺気立った声が響く。だが、シャルヴィエラは逃げる素振りすら見せず、むしろ心底心強そうな、晴れやかな溜息を吐く。
「敵の偵察ってぇ、敵が皆死んだらする必要ないわよねぇ」
「なに……?」
シャルヴィエラがゆっくりと両腕を広げると、ジャラァァンッ!と重厚な金属音が爆ぜた。
腕に巻きついていた無数の鎖が解き放たれ、蛇のように地を這う。同時に、深く被っていたフードが滑り落ち、金髪と美しい顔立ち、そして――二本の禍々しい角が露わになった。
「ま……魔族……!?敵――」
衛兵が叫び終える前に、空を切る快音が響く。
両手の鎖にしなやかに結びつけられた二本の短剣が、まるで生き物のように円軌道を描いて乱舞する。
遠距離から一瞬で間合いを詰めた短剣は、衛兵たちの強固な鎧ごと胴体を断ち切り、さらに周囲の建造物を豆腐のように易々と切り刻んでいく。
「やめっ――」
「こんな――」
短剣の舞に追従する鎖が、死の嵐となって路地裏を、そして街道を飲み込んでいく。
ひと振りのたびに家が、道が崩壊し、衛兵ごと第一区画の市街地が切り裂かれていく。
「やっぱり、壊すのが一番手っ取り早いわぁ」
シャルヴィエラは狂気を含んだ微笑みを浮かべると、鎖を大きく振りかぶった。




