第一区画
――しばらく走った後、馬の規則的な足音が地響きとなって伝わってくる中、そっと片手で自らの右目に触れる。
そこを覆っているのは、ルナネアの家を出る直前、手元にあった端切れで即興で直した眼帯だ。
指先に伝わる布の感触を確かめながら、前に乗るルナネアの背中に問いかける。
「……ルナネア」
「どうかした?ファイ?」
風を切る音に消されないよう、少しだけ声を張って言葉を紡ぐ。
「……俺の、この眼……怖くないんだな」
右眼を覆う眼帯に触れたまま、静かに尋ねる。
異能を宿した己の右眼。かつて多くの者を恐れさせてきたかもしれないその存在を、彼女はどう受け止めているのか。ずっと確かめるのが怖くもあり、けれど聞いておきたかったことだった。
ルナネアは一瞬だけ背中を揺らしたが、すぐにふっと柔らかな息を吐き出し、振り返らずに答える。
「全然怖くない」
迷いのない、澄んだ声だった。
「……どうしてだ?」
「だって、目がどうだろうと、ファイはファイだから。わたしを助けてくれて、こうして一緒にいてくれる……わたしの知ってるファイだから」
ルナネアの手に、ぎゅっと温かな力がこもる。
言葉以上にその確かなぬくもりが、俺の胸の奥の不安をゆっくりと溶かしていくのが分かった。
「……そっか。ありがとな、ルナネア」
「ううん」
ルナネアの言葉を受け取り、前を走る男にも右眼のことを聞くべきか考える。
……いや、ヴレイヴァのやつは「『魔眼』か、格好いいな!」とでも思って面白がってるだけだろうし、聞かなくていいか。
前方を堂々と駆ける男の背中を思い浮かべ、俺は特に言及もせず、思わず心の中で苦笑した。あいつに改めて尋ねる必要なんて、最初からなさそうだ。
冷え切っていた胸の奥に、確かな灯火が宿る。手綱をしっかりと握り直し、果てしなく続く街道の先を見つめた。
――やがて、地平線の彼方に、巨大な建造物の影がぬっと姿を現した。
空を突くようにそびえ立つ重厚な石造りの外壁。そして世界を遮るように威容を誇る、巨大な門。
間違いない。第一区画の表玄関だ。
門が視界に入った瞬間、喉の奥がぎゅっと縮こまるような感覚に襲われた。
脳裏を過るは、痛烈な思い出。
俺のことを完全に忘れ去っていたゼクフィスとリシェラ。かつての会話も、共に乗り越えてきた時間も消え去り、他人を見るような視線。
そして何が起きているのか理解すらできないまま縛り上げられ、暗い牢獄に放り込まれたあの日の屈辱。
「っ……」
無意識のうちに手綱を握る手にぐっと力が入り、馬の歩みがわずかに乱れる。
だが、俺はすぐに頭を振って思考を振り払う。ここで足を止めるわけにはいかない。どんなに胸が痛もうと、拒絶されようと、俺にはもう引き返す過去も、逃げ込める場所もないのだから。
しかし、覚悟を決めた俺の前に、極めて現実的で厄介な問題が立ちはだかる。
……待てよ。俺は第一区画で一回、捕まってるんだ。
あの時、俺を押さえつけた衛兵たちに顔を覚えられている可能性は非常に高い。
人相書きが出回っていれば一発でバレる。正面突破で乗り込もうものなら、門を潜る前に取り囲まれて即・御用だ。
「……ファイ?どこか痛い……?」
俺の指先の震えや馬の歩みの変化を敏感に察したのか、ルナネアが前に乗ったまま、心配そうに首をかしげて振り返った。澄んだ翠の瞳が不安そうに俺の表情を覗き込んでくる。
「いや……怪我とかじゃないんだ。ただ、ちょっと困ったことになってな」
「困ったこと……?何か危険なこと?」
「危険というか、マヌケな話なんだが……」
息を吐き出し、胸の内を明かすことにした。
「前に一度この第一区画で捕まってるんだ。……ゼクフィスとリシェラに俺の記憶がなくて、怪しいやつとしてな。その時に衛兵にも顔を見られてる。今、正面の門から堂々と入ろうとしたら、即捕まる可能性が高いんだ」
「えっ……!?そんな……!」
ルナネアは驚いて目を見開いた。
「じゃあ、ファイは中に入ったらまた酷い目に合う……。どうしよう、裏から入る道とか、壁を登ったりはできない……?」
「外壁は高すぎるし、馬を連れて越えるのは無理だな。となると、遠回りして別の入り口を探すか、夜になるのを待って忍び込むか……」
俺たちが馬の速度を落とし、あーでもないこーでもないと知恵を絞っていると、前方からパカパカと軽快な馬の音が近づいてきた。
先を走っていたヴレイヴァが、俺たちの遅れに痺れを切らして引き返してきたのだ。
「貴様等、何を先ほどからくだらん密談に花を咲かせている?」
漆黒の馬の上で腕を組み、横づけしながらいかにも不機嫌そうに鼻を鳴らすヴレイヴァ。相変わらずの偉そうな態度だが、今はその存在が少しありがたい。
「密談なんかじゃない。切実な作戦会議だ」
「作戦だと……?」
「実はな、ヴレイヴァ――」
かいつまんで事情を話した。俺がこの区画でお尋ね者扱いされている可能性が高いこと、正面から行けば警戒網に引っかかること、そして別ルートの侵入方法を模索中であることを。
「悪い。考えが及ばなかった」
話を聞き終えたヴレイヴァは、呆れたように長髪を整えた。
「……愚かしい。貴様という男は、どこへ行っても余計なトラブルを背負い込む才能だけは一人前だな。まぁ、我が一発暴れてやってもいいが?」
「派手に暴れたら一発で全軍に包囲されるだろ。とにかく、正面を避けて外壁沿いに進んで――」
俺が馬の手綱を引き直そうとした、その時だった。
――ドドンッッ!!
天地を揺るがすほどの激しい爆音が鼓膜を打ち破り、衝撃波が全身を叩く。
「っ……!?」
何が起きた?
考えるよりも先、門が――砕けた。
寸前まで城壁をなしていた巨石の破片が、唸りを上げて空を舞い、目の前へと凄まじい勢いで降ってくる。
「ルナネア、伏せろ!」
手綱を強く引き絞り、前脚を上げる馬を必死で制する。
立ち込める土煙と焦煙の向こうで、崩落した門の残骸が荒々しく転がっていた。
あまりの惨状に絶句していると、不意に横で漆黒の馬を悠然と操る男が、くくっと低く笑いを漏らす。
「……どうやら、貴様の心配とやらは杞憂に終わったようだな」
前髪を整え、煙の巻き立つ門跡地を不敵に見据えるヴレイヴァ。
何が起きた?第一区画で一体何が――
警備体制どころか、門そのものが粉砕されている。
誰かが内部で暴れているのか、それとも外敵の襲撃か――最悪の展開を思考に巡らせていた、その時。
「ファイ、門だけじゃない!空が……っ!!」
前に乗るルナネアが、震える声で叫んだ。
手綱を握る手があまりの力で固まり、彼女が指差す先――第一区画の上空を見上げる。
「な……んだ、あれ……」
息が止まった。
澄み渡っていたはずの青空に、まるでガラスに衝撃を与えたかのような亀裂が入っていた。
黒い光を孕んだ亀裂は、蜘蛛の巣のようにミシミシと音を立てて空全体へ広がっていく。
世界そのものが内側から割れていくような、禍々しく異様な光景。
何が起きているか分からない。だが、一つだけ分かることがある。
「これは、本気でマズいな」




