涙の足跡
その光は、救いでも神罰でもない。
ただ眼前に存在する生命を無差別に消去していく、理不尽の化身だった。
「……ファイ」
耳元で、かすれきった声が落ちる。
恐怖で思考が焼き切れ、地面に顔を叩きつけたまま動けない俺のすぐ側。膝をついたのは、ルカーパだ。
その整った顔立ちからは、かつての誇り高さや静寂が削ぎ落とされている。
あるのはただ、目の前で崩壊していく理を理解してしまった者の、絶望的な諦観。
「くそっ……!」
ルカーパに服を捕まれる。拘束が解かれた。
「……え?」
「逃げろ。ルナネアを連れて」
「な……何、言って――」
「立てッ!ファイ!!」
ルカーパの手に胸ぐらを捕まれ、強制的に視界を動かされる。
その先――崩壊した社の片隅、ガタガタと震えているルナネアの姿があった。
「お前が言ったはずだ。「あいつの命は安くない」と……!ここにいれば数分と持たずに全員切り刻まれて終わる!どれほど部外者でも関係ない……今、動けるのはお前だけだッ!」
「お前は!?長老たちはどうするんだよ!?」
叫ぶ俺から、ルカーパは静かに視線を外す。
その先には、足を吹き飛ばされ、腹を抉られ、血の海の中で惨めに這い回る長老たちの残骸。
「俺はこの村の狩人――いや、戦士だ。どんだけ辛くても、絶対逃げない」
ルカーパは背中から弓を静かに取り出す。
「生きている長老たちを助けて、少しでも光の意識を逸らす。……それが、俺にできる最後のあがきだ。……ほら、分かったら、行けッ!」
俺を突き飛ばすと同時に、ルカーパは凄惨な殺戮の渦中へと飛び込んでいく。
「あ……ああああっ!!」
歯を打ち鳴らし、血混じりの液体を吐き出しながら、這い進む。
立ち上がる恐怖すら失い、ただ四つん這いで、赤黒い血の雨が降り注ぐ泥の地獄を必死に這う。
「ルナネアッ……大丈夫か!?」
「ファ……イ……?」
祭壇の影で呆然としていたルナネアの元へ辿り着き、その細い肩を強く抱き寄せる。
瞳から光を失い、焦点の定まらないルナネアの顔を、正面から見据える。
「今すぐにここを離れるぞ!」
「……村長が……皆、が……」
「俺たちはまだ助かる!!」
俺の必死の叫びに、ルナネアの瞳にわずかな光が宿る。
「うん……。そう」
頷くルナネアと共に立ち上がり、地鳴りの轟く境内を疾走する。
「ルカーパ――ッ!!」
叫び声に応ずるように、血の煙の奥から影が飛び出してきた。
瀕死の長老一人を肩に担ぎ、全身に血を浴びたルカーパだ。持っている弓は半ばから折れ、極光の不規則な跳ね返りを命がけで受け流してきたことを物語っていた。
「二人とも……無事みたいだな」
荒い息を吐きながら、ルカーパが俺たちと合流する。
境内に残された生者は、もう俺たちと、ルカーパが担ぐ長老の一人だけだ。
「こうなった以上、儀式どころじゃない……あの化物が島を完全に覆い尽くす前に、村へ戻るぞ!」
切迫したルカーパの言葉。
村へ――その一言が、俺の脳裏に最悪の泥濘を呼び覚ました。
「駄目だ……ッ!!」
気づけば叫んでいた。
「村に戻るなんて駄目だ!村は、もう……」
「何?何言ってんだ、ファイ!今、余計なことは――」
「余計じゃない!村の方にはメラリカが……俺たちを殺そうとしてるやつがいるんだ!」
「何の話だ!?どういうことだよ!」
必死の議論。感情のぶつかり合い。
――それが、致命的な隙だった。
思考が村とメラリカへと削がれ、目の前の極光への警戒がコンマ一秒、途切れる。
パキッ。
頭上ではない。
俺の真横。空間が、歪んだ。
「あ――」
死線が、胸元を真っ直ぐに指し示していた。
回避は不可能な距離。光の速度に、人間の神経が追いつくはずもない。
思考がスローモーションに引き伸ばされ、死の訪れをただ受け入れようとした、その瞬間――
ガァンッ!!
視界が、強い衝撃とともに横へと吹き飛ぶ。
「がっ……!?」
俺の身体が泥の上に強く転がる。
ルナネアの悲鳴。不快な熱風。
何が起きたのか分からないまま、血と泥に塗れた顔を上げ、後ろを振り返る。
「ル……カーパ……?」
そこに、立っていた。
ルカーパが、俺と光線の間に割り込む形で、呆然と佇んでいた。その右手には、折れた弓だけが握られている。
風が吹き抜ける。
静寂が、再び境内を支配した。
ルカーパの体が、ゆっくりと、力無く傾いていく。
「あ……」
ルカーパの腰から下――お腹のあたりから先が、ぽっかりと消え去っていた。
抉り取られたのではない。
そこにあったはずの肉体、骨、内臓、衣服のすべてが、極光の通り道に沿って、綺麗に、無へと変換されていた。
ジュッ……!
一瞬遅れて、残された上半身の断面から湯気が立ち上る。
ボトッ。
上半身だけになったルカーパが、泥の上に無造作に落ちた。
「ル……カーパ……?おい……ルカーパ……ッ!?」
這い、ルカーパのもとへ行く。
上半身だけになった男の胸を抱き起こす。軽すぎる。人間の上半身がこれほど軽いなんて、知りたくもない。
ルカーパの瞳が、ゆっくりと俺を見つめる。
そこに痛みすら感じていないような、透明な静けさが――
死ぬな。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ!
「駄目――」
「……逃げろ……ファイ……」
口端から、かすかな赤黒い血が垂れる。
「……ルナネアを……頼む……」
ルカーパが動かなくなる。
光が、また静かに空間を跳ねる。
ルカーパの瞳から光が消え、ただの命のない肉塊となって俺の腕の中で冷たくなっていく。
守られた。
俺の愚かな執着と、油断のせいだ。
最後まで誇り高くあろうとした男が、俺なんかの身代わりになって死んだ。
不気味な極光が、惨劇の世界を静かに照らし続けていた。
「嫌だ……頼むから……死ぬなよ……!!」
喉が引き千切れるくらい叫ぶ。
唇を噛み、ルカーパの冷たくなっていく胸に額を押し付けて、惨めに泣き叫ぶ。
返事はない。
二度と、あの声で俺の名を呼ぶこともない。
怒鳴られることも、呆れたようにため息を吐かれることも、もう一生ない。
ルカーパは死んだ。
俺の失態で。俺が余計な議論をして、ほんの一瞬、死線から目を逸らしたそのせいで。
俺が殺したようなもんだ。
パシッ。
どこかで、あの無機質な屈折音が弾けた。
頭が真っ白になるほどの絶望と、胸をかき乱す痛み。
だけど、俺の腕の中で動かなくなったルカーパの瞳だけが、言葉の代わりに俺へ『最後のお願い』を突きつけていた。
――ルナネアを、頼む。




