傲慢な愚者
「ルナネア……ッ!」
届かない叫びに焦燥感が跳ね上がる。霞む視界を無理やり拭い、引きずる足を騙し騙し一歩、また一歩と前へ踏み出した。
ルナネアのすぐ背後まで詰め寄り、荒い呼吸を吐き出しながら、汚れた手を伸ばす。
「ルナネア!!」
「――ッ!?」
肩を叩く直前、ようやく俺の存在に気づいたルナネアの身体が跳ねるように強張った。
微動だにしなかった背中が激しく震え、彼女がおそるおそる、恐怖に引きつった顔でゆっくりとこちらを振り返る。
社の異様な気配と己の運命に対する極限の恐怖で意識を呑まれ、外部の音すら遮断していたのか。その瞳は狂気的な集中と怯えで細かく揺れていた。
だが、俺の姿を視界に収めた瞬間、彼女の瞳が驚愕で見開かれた。
「ファ、イ……?どうして……どうしてファイがここに……!?」
声が裏返り、可憐な顔が真っ青に染まる。
目の前に立つ俺が、全身泥まみれで、太ももと肩からボタボタと鮮血を撒き散らしている異様な姿だったからだけではない。ここに俺が存在すること自体が、彼女にとってあり得ない悪夢だったから。
「血……!?怪我をしてる……!?ううん、それより……!!ここは、絶対に入っちゃいけない場所ッ!」
驚きと狼狽が交錯し、ルナネアは正座を崩して必死に俺の手を掴もうとした。その指先は凍りつくように冷たく、小刻みに震えている。
「逃げて……お願いだから早く隠れてッ!もうすぐ……もうすぐ『あれ』が来る……!わたしを喰らいに、生贄を受け取りにあの社から現れる……ッ!」
喉をかき鳴らすような必死の悲痛な声。
ルナネアの叫びが夜空に消えかけた、その瞬間だった。
「――何の真似だ!!」
威圧的な怒号が闇を切り裂き、社を取り囲む木々の陰から一斉に影が躍り出た。
松明の赤黒い炎が揺れ、境内を殺伐と照らし出す。
姿を現したのは、村長を先頭にしたエルフの長老たち数人。そしてその脇を固めるように、ルカーパが憂いげな表情で佇んでいた。最初から、ルナネアが逃げ出さないよう周囲に潜んでいたのだ。
「貴様……ファイ・ニアス!!なんてことをッ!!」
長老の一人が激高し、泥と血に塗れた俺の胸倉を掴み上げた。
「ここは神聖なる神事の場!『贄』を捧げ、村の破滅を防ぐための聖域ぞ!部外者の、それも人間の汚らわしい足で踏み荒らしていい場所ではないわッ!」
「がっ……ぁ……っ!」
ガツンッ!!
返事をする隙すら与えられず、別の長老の拳が俺の頬骨を容赦なく撃ち抜く。
すでにボロボロだった身体が抵抗などできるはずもなく、俺は地面へ激しく叩きつけられ、口を噛む。口内に重い血の味が広がった。
「やめて!!やめてください!!」
ルナネアが悲鳴を上げ、俺を庇うように立ち塞がろうとする。
「ファイは……ファイは何も知りません!わたしを、わたしを助けようとして……っ!」
「黙れ、汚物がッ!」
長老の一人が掠れた声でそれを遮った。
「貴様は『贄』としての務めを果たすだけでよいのだ!……それにしても、見苦しいな人間。村の掟を乱し、儀式を穢すか!」
「待ってください!」
重々しい制止の声が響いた。
拳を振り上げていた長老の手がピタリと止まる。
ゆっくりと歩み出てきたのは、ルカーパだった。
ルカーパは殴られて倒れ込む俺を見下ろすと、静かに、けれど逃げ場のない圧迫感でその場を支配する。
「……ルカーパ。しかし、この人間は――」
「分かっています。ですが、今は無駄な血を流す時ではありません」
ルカーパは短く言い捨てると、ゆっくりと俺の前で膝をついた。
泥にまみれ、血の泡を吐く俺の惨めな姿を、ルカーパの静かな瞳がじっと見つめる。
そこにあったのは、激しい怒りでも、狂気でもなかった。
――あまりにも深い、悲哀。
絶望的な愚かさを見るような、落胆と切なさが混ざり合った、静かな悲しい目だ。
「……ファイ。一体何のためにここへ来た」
「ル……カーパ……っ」
「今、自分が何をしてるか分かってるのか……?」
ルカーパの言葉には、刃のような鋭さがあった。
「お前が背負おうとしているのは、ルナネアの命じゃない。お前自身の生への執着だ。……こんな無様な姿でルナネアの前に現れて、彼女の決意を揺るがすことが、お前の望む救いなのか?」
「そうじゃない……!俺は……っ!!」
「言葉はいらない。お前のその瞳が、すべてを物語ってるからな」
ルカーパは静かに立ち上がると、蔑むことすら諦めたような、寂しい眼差しを俺に向けた。
「この島から出ていくんだ、ファイ。これ以上、彼女の運命を穢さないでくれ」
長老たちの罵声と、ルナネアの絶望的な泣き声が、混ざり合って鼓膜を震わせる。
「分かって……分かってるよ……ッ!」
泥を舐めるように突伏したまま、途切れ途切れに声を絞り出した。
痛みで吐いた血と泥が交ざり合い、口からだらだらと垂れて地面を汚す。指先が、まともに動かない。
「分かってんだ……俺が、部外者だってことは……ッ!ルナネアの何にもなれない……ただの居候だって……っ!」
ルカーパの眼差しが、何よりも深く胸を抉る。
そうだ。ルカーパの言っていることが、全部正しい。
俺はこの島に流れ着き、たまたま拾われただけの部外者だ。村の歴史も、掟の重みも、彼女がどれほどの絶望を飲み込んで今夜この社に立ったのかも、本当の意味では何一つ理解できていない。
助けたいなんていうのは綺麗事で、本当は、大切な存在を失いたくない、一人になりたくない、という俺の浅ましい我儘だ。ボロボロの身体で押しかけて、ルナネアの悲壮な決意を不必要に揺さぶり、無駄な恐怖と混乱を与えている。
俺こそが害悪だ。正論はすべて、長老たちやルカーパの側にある。
こんなにも必死に手を伸ばしているのに、自分のやってきたことの愚かさと無力さのせいで、何一つ届かない。あまりにも哀れで、惨めで、救いようがない。
「それでもッ……!ルナネアが死んで……それで解決なんて、そんなの……嫌だろ……ッ!」
「戯言をッ!!」
ドガッ!!と鈍い衝撃が背中に走り、肋骨が嫌な音を立てて軋んだ。
「カハッ……ッ!?」
「この何百年、どれほどの犠牲を払ってこの村が保たれてきたと思っている!たかが一人の命で、村の存続が買えるなら安いものだ!!」
「安く……ない……ッ!ルナネアの命は……安くなんかない……ッ!」
地面に爪を立て、血と混ざった涙をボロボロと零しながら叫ぶ。
どうしてだ。何故、いつも優しく笑ってくれた彼女が、こんな理不尽な目に遭わなければならない?
何一つ変えられず、ただ虫ケラのように殴られ、蹴られ、正論の暴力で惨めに叩きのめされるだけ。
「ファイ、もうやめて……!お願いだから、もう、やめて……ッ!」
ルナネアが悲鳴を上げる。
「ファイは何も悪くない!わたしを……わたしを救おうとしてくれただけ!お願いだから、これ以上ファイを打たないで……ッ!」
「黙れ、汚物!責務を忘れたかッ!」
「嫌……嫌!ファイが壊れちゃう……!お願い、逃げてファイ!わたしなんかのために傷つかないで……っ!」
彼女の悲痛な叫びが夜空に溶けていく。
俺が足掻けば足掻くほど、ルナネアの心は無惨に引き裂かれ、苦痛が増していく。俺は救うどころか、彼女を追い詰めている。己の圧倒的な無力さと無価値さに、胸が焼き切れるような絶望が押し寄せた。
「……もう終わりにしよう、ファイ」
ルカーパが冷たく、悲しい目を向けたまま静かに手を掲げた。
「長老方。儀式を始めてください。刻限です」
「む……うむ!この人間は拘束しておけ!娘の最期を特等席で見せてやる!」
「やめ……やめろぉ……!ルナネア……ッ!!」
数人の男たちに顔を地面に押し付けられ、動かない体でいくら暴れても、指一本分すら進めない。
社の中央、黒ずんだ祭壇の前にルナネアが引きずり出される。
長老が古びた羊皮紙を広げ、粘つくような不気味な呪文を唱え始めた。松明の赤黒い炎が狂ったように揺れ、孤島を満たす冷気が一気に肌を刺す。
「――闇に眠りし魔獣よ!今ここに、清き生贄を捧げん……!」
「いや……嫌だ……頼むから……俺を殺していいから……っ!!」
声帯が切れそうなほど叫ぶが、誰一人として振り向きもしない。
ルナネアがぎゅっと目を閉じ、ボロボロと大粒の涙を零しながら、諦めたように己の運命を受け入れようとした、その時――
ズズズズズズズズ……ッ!!
大気が、物理的な質量を持って重く沈み込んだ。
「な……なんだ!?」
長老の呪文が途切れる。
空気が異様に歪み、足元の固い土が不気味に鳴動を始めた。
「社が……社が砕けるッ!!」
メリメリ……ガコッ!!
次の瞬間、恐ろしい生体破壊音が響き渡った――




