贄(にえ)の式
月光を跳ね返す死の銀刃。その平坦な瞳が、暗闇の中でぞっと据え置かれる。
「これで終わりにしましょう」
投擲――ッ!!
真空を断ち切る鋭烈な風切り音が、夜の湖面を一直線に引き裂いた。
一丁は水面スレスレを滑り、俺の脚を胴体から削ぎ落とす地を這う必殺の一閃。もう一丁は弧を描いて上空へと跳ね上がり、逃げ場を殺す旋風となって頭上から降り注ぐ。
水に足をすくわれ、圧倒的に不利なのはこちらのはずだった。
――だが。
「ぐ、あぁぁッ!!」
ぐねり、と脳裏で狂暴な生存本能が弾けた。
回避動作なんて綺麗事は通用しない。水圧に逆らい、泥を強引に踏み荒らして身体を前へと倒し込む。
ズバァンッ!!
脚を狙った一丁が、俺の直前で派手な水柱を打ち上げた。
水飛沫が視界を遮り、水底を薙ぎ払う刃が俺の右太ももの肉を浅く切り裂く。
「いッ!?」
直後、上空から降り注いだ二丁目が、倒れ込む俺の左肩をかすめた。
皮膚が裂け、焼けるような痛みと共に鮮血が夜の湖へと飛び散る。
だが――浅い。
重く濡れ透けたメイド服のせいで、メラリカの投擲の初動に僅かなブレが生じていた。普段の完璧な状態なら、一瞬で俺を肉塊に変えていたはずの攻撃が、ほんの少し、軌道を狂わされたのだ。
「当たりませんか……」
水柱の向こうで、メラリカの鋭い声が聞こえた。
跳ね返る二丁のブーメランが彼女の手元へと戻っていく隙を突き、血を撒き散らしながら必死に前へ前へと突き進む。
「ハッ……ハッ……あぁッ!」
激痛で右脚が引きつり、左肩から血が吹き出す。
それでも動く。死にたくない。メラリカの刃で切り刻まれて、村の皆みたいに転がされるのは嫌だッ!
バシャッ、バシャバシャッ――!!
泥を蹴り、水を掻き分け、なりふり構わず這い上がる。
足元に、ぬかるんだ土の感触が戻ってきた。
「は……ッ!」
孤島の岸辺へと力任せに打ち上げられた。
全身血と泥まみれ。太ももと肩からの出血が止まらない。膝を折り、爪に泥を詰まらせながら地面を這い進む。
振り返ると、水圧と服の重さに足を取られながらも、なおも二丁の刃を構えて湖を渡ろうとするメラリカの姿があった。その顔からは完全に丁寧さが消え失せ、不快感だけが張り付いている。
追ってくる。追いつかれる。時間が……時間がない。
「ルナ……ネア……っ!」
立ち上がろうとして、足が激しく引きつり、派手に転倒した。顎を地面に打ち付け、血の味が口内に広がる。
惨めだ。救いようがない。
「俺は……俺は何のためにここに来たんだ……?」
泥を舐めながら、支離滅裂な思考が頭を殴りつける。
ルナネアを助けるため?
「俺は……俺は……っ!」
自責と恐怖が胸をぐちゃぐちゃに掻き乱す。自分が何のために動いているのかすら分からない。
けれど、動かなきゃ死ぬ。立ち上がらなきゃ、メラリカに背後から首を叩き切られる。
「ルナネアッ!!」
答えの出ない狂気と絶望を叫び声に変え、俺はふらつく脚を力任せに叩いて立ち上がった。
ふらつく足に喝を入れ、力任せに太ももを殴りつけながら、俺は這い上がるようにして孤島の森へと飛び込んだ。
ザッ、ザザッ、とぬかるんだ土を踏みしめる音が響く。
この島の森は、先ほどまでいたエルフの村の森林とは明らかに異質だ。
天を突くほどに巨大で樹齢数百年の古木たちが、密集して夜空を覆い尽くしている。太くねじ曲がった枝葉が月光を完全に遮断し、視界は粘着質で濃厚な闇に包まれていた。
まるで、巨大な怪物の胎内を這い進んでいるかのような――窒息しそうなほどの閉塞感。
「血、が……!」
太ももと肩からあふれ出す血が、衣服を伝って地面へボタボタと垂れ落ちる。
その赤黒い痕跡が、背後の追撃者に自分の居場所を教える目印になっていることなど、百も承知だった。だが、拭う余裕も、気配を消す術もありはしない。
背後――静まり返った湖の方角から、水面を激しく叩く音が微かに届く。
メラリカだ。重いメイド服に足を取られ、不快感を露わにしながらも、彼女は確実にこの島へと足を踏み入れようとしている。死神の足音が、刻一刻と迫っている。
それにしても――静かすぎる。
異様だった。
この森には、生き物の気配が一切ない。虫の羽音も、夜行性の小動物が草むらを分ける音も、風が葉を揺らす音すら存在しなかった。ただ、俺の荒い喘ぎ声と、足元の泥を噛む不快な音だけが響いている。
まるで、世界からこの島だけが切り取られてしまったかのような、気味の悪い絶望的な静寂。
その静寂の真ん中――森の奥深くに、刺すような不快感が渦巻いていた。
胃袋が裏返るような凶悪な気配。理性が「そこへ行くな」と叫び、本能が「引き返せ」と悲鳴を上げる。
かつてないほどの嫌な予感。だが、俺に引き返す選択肢なんて存在しない。背後にはメラリカがおり、前方にしか俺の生き残る道――あるいは、俺が自分を誤魔化すための言い訳が存在しないのだから。
「はぁッ、はぁッ……ルナ、ネア……ッ!」
巨大な大木の根を飛び越え、覆い被さる茨の枝を顔面で受け止めながら進む。
枝が頬を切り裂き、血が追加で吹き出すが、痛みを感じる神経はすでに麻痺していた。
吐き出す息は熱く掠れ、肺の奥が焼き切れたように痛む。粘つく血の匂いが喉から鼻腔へと逆流し、己の生臭い傷口の臭いと混ざり合って強烈な吐き気を催させる。
人間らしさも、プライドも、何もかも捨て去った。
今の俺は、ただ死神から逃げ回る最低で無様な生者だ――
――樹木の隙間から、不自然な開けた空間が視界に飛び込んできた。
そこは、島の中心部だった。
森の木々が輪を描くように途切れ、ぽっかりと空いた円形の場所。その真ん中に、異質な構造物が鎮座していた。
それは、小さな神社のような社だった。
古びた木材で作られた、人間の背丈ほどしかない粗末な建造物。エルフの村の質素な建築とは異なる、異国の匂いが漂う不気味な佇まい。
その前には、まるで仏壇や祭壇を思わせる、供物や生贄を捧げるための小さな木製の台座が据え置かれている。
そして――その台座の前に。
静かに、微動だにせず座り込んでいる影があった。
「……ルナ、ネア……?」
喉の奥から、掠れた声が漏れ出た。
そこにいたのは、ルナネアだった。
月光がわずかに差し込む境内で、彼女は冷たい泥地面の上に、美しく、そして痛々しいほど完璧な姿で正座をしていた。
美しい黒髪が夜風に揺れ、上質な衣装は泥ひとつ汚れていない。
その背中は、これから自分が引き受ける『贄』としての運命を受け入れたかのように、恐ろしいほど静まり返っていた。
「ルナネア……ッ!あ、会いた……探したぞ……ッ!」
俺は膝を折りそうになりながら、血塗れの身体で彼女のもとへと歩み寄る。
だが――ルナネアは振り返らない。
俺の叫び声も、血の匂いも、荒い呼吸音も、まるで届いていないかのように、彼女はただじっと社を見つめ、微動だにせず正座を続けていた。




