血海を渡る
「がッ、ァッ!?」
無様に地面を転がり、血と泥を顔面に塗りたくりながら、死に物狂いで突き出した右足。
ガキィンッ!!
一閃。首を狙って放たれたブーメランの側面が、俺の靴底に激突し、不快な火花を撒き散らす。
衝撃で足首があらぬ方向へ折れかけた感覚。
激痛とぬるい自分の血が頬を伝う。
回転を維持したまま、恐ろしい精度で弧を描いてメラリカの白磁の手元へと戻っていく刃。
メラリカは一切の揺らぎなくそれを受け止めると、メイドとしての完璧な立ち居振る舞いのまま、殺意の歩幅を緩めることなく再び前進を開始した。
「……私の射程で、なおも足掻かれるんですね。どこまでも、惨めなお方です」
「くっ……あ、あぁぁぁあッ!!」
泣き叫ぶ余裕なんてない。
ぐちゃぐちゃの顔を泥に擦り付けながら、俺は四つん這いになって血の海を掻き分けた。
逃げる。逃げる逃げる逃げる逃げるッ!!
メラリカから。ピピの死体から。自分が引き起こした――地獄から。
「ファイ様。無駄な足掻きはおやめください。こんなことでは時間稼ぎにもなりません」
背後から追ってくる、静かな衣擦れの音。
そして、無駄のない死の歩調。
泥にまみれ、視界が血で滲む中、俺の狂いそうな脳裏に走馬灯のように道筋が浮かび上がる。
皮肉だ。反吐が出るほど皮肉だ。
昼間、ルナネアの家へ向かうために、あいつの歩調に合わせて何度も行き来した道。
根の張り出し、崩れた岩の配置、足場の悪いぬかるみ。俺の身体はこの道の歩き方を、完璧に覚えてしまっていた。
あの根を踏み越えて……右の崩れかけた岩岩に体重をかけずに滑り込む……!
「う、ッ!」
ドサッと膝を打ち付けながらも、俺は低空で身体を滑り込ませた。
倒木の隙間。樹木の根が複雑に絡み合った、人一人しか通れないような狭い抜け道。
メラリカの足取りが、入り組んだ自然の障害物に一瞬だけ乱れてようだ。無意識に最適解の足場を選んで跳躍する俺と、完璧な歩調を乱されたメラリカとの間に、ほんのわずか――数歩分の距離が開いた。
「……この森の地形をそこまで把握していらっしゃいますか」
「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」
背後から聞こえる刃の風切り音。木々が容赦なく裁断されていく破壊音。
だが、追いつかれない。俺の汚い本能が、ルナネアとの思い出の道を、逃走経路として酷使し、死神の歩みから必死に距離を毟り取っている。
死にたくない。痛いのは嫌だ。死にたくない死にたくない!!
……ルナネア?ルナネアを助けに行くのか……?俺は……?
支離滅裂な思考が、激痛と共に脳を刺す。
違う。ルナネアを助けたいんじゃない。
ただ逃げているだけだ。
ピピの目を、あの血みどろの首を見たくなくて、メラリカの刃から自分の肉体を守りたいだけで……!
「違う!俺は、ルナネアを……あいつを守らなきゃ……ッ!」
「声に出して自分を騙さなければ逃げることもできないんですか」
静謐な声と共に、背後から放たれる二度目のブーメラン。
俺は頭を地面に叩きつけるように伏せ、泥を食らいながら前方へ転がり出た。
ズバァンッ!!
頭上の大木が真っ二つに裂け、豪快に崩れ落ちる。
その煙幕を突っ切り、俺はなりふり構わず走り抜けた。
視界が急激に開ける。
森が途切れ、月光が冷たく降り注ぐ場所――湖だ。
夜の静寂をたたえ、黒く光る水面。
その中央に浮かぶ、不気味な孤島。ルナネアが囚われているはずの場所。
「はっ……が……ッ!」
岸辺にたどり着いた俺は、そのまま引き留める間もなく水の中へと足を踏み入れた。
バシャアッ!
「浅、い……」
冷たい水が膝を叩く。だが、足は底の土にしっかりと届いていた。
泳ぐ必要すらない。思っていたよりもずっと浅い。これなら、このまま歩いて……走り抜けて、あの孤島まで行ける……!
「……っ!!」
バシャバシャと激しく水飛沫を上げながら、俺は湖を渡る。
――何のために?
――ルナネアを救うため?
それとも、ルナネアという言い訳の影に隠れて、自分が生き延びるため?
「分からねぇよ……ッ!俺は……俺は何なんだよッ!!」
あんなに無邪気に笑っていたピピとリュリュを見殺しにして、自分だけが必死に生き延びようとしている。ルナネアを助けに行く英雄のフリをして、本当はただ死ぬのが怖いだけの、最低で、醜くて、救いようのないクズだ。
「ファイ様!逃げ場などどこにもございません!!」
背後、湖の縁に立ったメラリカの声が響く。
ブーメランを回収し、暗闇の中で爛々と狂気の瞳を光らせるメイド。
冷たい水が、俺の身体から温度と尊厳を奪っていく。
絶望と、自責と、ドロドロとした生への執着が混ざり合い、俺は自分が誰のために、何のために水面を蹴っているのかすら分からないまま、ただ狂ったように孤島を目指して足掻き続ける。
バシャッ、バシャバシャッ――!
「ハッ……ガッ……ひゅ……ッ!あぁぁッ!」
冷たい水飛沫が顔面に叩きつけられる。
痺れが残る身体に無理をさせ続けたツケだ。
脚の筋肉がズタズタに引きちぎれるような激痛が全身を苛む。
湖の底の泥は底なし沼みたいに俺の足首を掴み、一歩進むごとに骨が折れるような重みを強いてきた。
水飛沫を上げる自分の無様な脚を見下ろしながら、脳味噌が狂ったように自責の言葉を吐き出し続ける。
ピピの、あの首が。泥と血に塗れ、見開かれた瞳が脳裏にこびりついて離れない。
俺が余計な優しさを見せたから。俺がいい奴みたいにあの子たちに近づいたから。
――二人は死んだ。
それなのに――俺は今、こうして生きたがっている。
「――逃がしませんよ、ファイ様」
静かな、けれど恐ろしいほど明瞭な声が背後から響いた。
ゾクッと首筋の毛羽が立ち、半ば狂乱しながら後ろを振り返る。
湖の縁に立ったメラリカが、躊躇いもなく冷たい湖水へと足を踏み入れていた。その白磁のような顔には、一切の感情の乱れすらない。
「来るな……来るなよ……ッ!」
「どのような言葉を吐かれようと、無駄でございます。あなた様の首を持ち帰らねば、私の失敗は洗い拭えませんので」
「狂ってる……っ、お前は完全に狂ってるッ!」
「狂っているのは、ファイ様のその、お見苦しい命への執着です」
死神が、水面を滑るように追ってくる。
叫びそうになる口を歪んだ歯で噛みちぎり、必死で前を向いて脚を動かした。
――だが。
バシャ……バシャ……、と。
数歩足を進めたところで、背後の足音に僅かな狂いが生じていることに気がついた。
旋風のような速度で距離を詰めていたはずのメラリカの歩調が、目に見えて鈍っている。
「……くっ……」
暗闇の向こうで、メラリカの小さな舌打ちが聞こえた。
「の、ろく、なった……?」
「……少しばかり、この服装がこの環境に適していないようですね」
月光が照らし出したのは、水に濡れて重く足元にまとわりつく、彼女の装束だった。
あでやかな漆黒の生地に、何重にも折り重なった重厚なスカートと純白のフリル。仕立ての良すぎる、隙のないメイド服。
それが湖の冷水を余すことなく吸い上げ、鉛のように重い枷となって彼女の脚にまとわりついていたのだ。
対する俺は、動きやすさだけを追求した薄手の冒険者服。泥に塗れ、破れかぶれになった粗末な布切れは水を含んでも大した重量にはならず、靴も泥を逃がすように作られたものだ。
服の重さ、水圧、底のぬかるみ。
これまでメラリカに圧倒的な優位をもたらしていた、完璧なメイドとしての装備が、この湖の中という極限状態においては、皮肉にも彼女の動きを削ぎ落とす致命的な枷へと変貌していた。
「水を吸ってるのか……」
泣き顔のまま、歪んだ笑みを漏らした。
「……っ」
メラリカの表情が目に見えて強張る。
「仕方ないですね……」
メラリカが静かに、二丁の刃物ブーメランを構え直した。




