襲撃
死のように深い闇の底から、弾かれたように意識が浮上した。
「……ッ、ハァ……ッ!?」
肺の奥に勢いよく生暖かい空気を吸い込み、猛烈な痺れと吐き気に襲われながら、俺はガバッと跳ね起きた。
視界が不気味に揺れている。全身の筋肉が激しく痙攣し、身体中に重い鉛を流し込まれたような感覚が残っていた。だが――指先が動く。腕に力が入る。
「く……そっ……ルカーパ……!」
舌の奥に残る、痺れるような苦味を唾と一緒に床へ吐き捨てた。
部屋の隙間から差し込む光は、すでに漆黒の闇に染まっている。窓の外からは湿った夜風の音がヒュウヒュウと聞こえるだけだ。静かすぎる。鳥の声も、虫の羽音すら聞こえない。
――時間がない。
脳裏に浮かぶのは、あの湖の中央に浮かぶ孤島。
『贄の式』はもう始まっているはずだ。ルナネアが、今この瞬間にも不気味な魔獣の餌食として差し出されようとしている。
「待ってろ……ルナネア……っ!」
俺はふらつく足取りで立ち上がると、外側から鍵のかかった粗末な木製扉へと身体ごと全力でぶち当たった。
ドガァンッ!と鈍い音が響き、建て付けの悪い鍵が悲鳴を上げる。二度、三度と体当たりを繰り返し、強引に扉を破り倒して廊下へ飛び出した。
宿屋の廊下には、人っ子一人いない。
静寂が耳を刺す。
――村人は全員、家で待機しているのか?
俺は宿屋を飛び出し、夜の冷気が肌を刺す村の通りへと足を踏み出した。
「湖への最短ルートは、村の北側を抜けるあの曲がり角……!」
一刻も早く行かなきゃならない。
ルナネアを救い出し、こんな狂った村から連れ出すんだ。
心臓が破裂しそうなほど早打ちし、焦燥感が全身の血を沸騰させる。足の疼きなど疾走の勢いに塗りつぶし、俺は一直線に角を目指して夜の闇を駆け抜けた。
あと数歩で角を曲がる――その、瞬間。
「――っ!?」
足の裏に、生温かくヌチャリとした嫌な感触が伝わった。
勢い余って角を曲がり切った俺の視界に飛び込んできたのは、月光の下に広がる――鮮血の赤だった。
「な……んだ……これ……?」
喉の奥から、乾いた声が漏れ出る。
そこにあったのは、見慣れた村の通りではなかった。
土の固まった道が、濃い血の海と化し、そこに転がっていたのは――腹を鋭利な刃物で裂かれた、見知らぬ村人の男性の死体だった。
溢れ出た内臓が、夜の冷気に晒されて不気味な湯気を立てている。目は見開かれ、死に際に出したであろう叫びの形を残したまま、男は血の海に沈んでいた。
「っ……!?」
呼吸が止まる。
なんだ、これは。何が起きた?
村人は全員、家の中にいるんじゃないのか?
何故、こんな村の出口の近くで、村人が無残に切り裂かれて殺されているんだ?
吐き気を催す強烈な鉄の匂いが鼻腔を突く。
ピピとリュリュの姿はない。ルカーパの姿もない。ただ、名前も知らない男が一人、無残な肉塊となって転がっているだけだ。
「……冗談だろ?なんだよ、これ……」
脳の理解が追いつかない。
儀式の最中に、村人同士で争いでも起きたのか?
それとも、湖の魔獣が封印を破って村に降りてきたのか?
混乱と嫌な予感が激しい渦となって胸を掻き乱す。
俺は死体を迂回し、震える足で血の海を踏み越えながら、警戒を剥き出しにして前へと歩みを進めた。
静かだ。静かすぎる。
風の音すら消え失せ、自分の荒い呼吸と、ドクンドクンと耳元で脈打つ血流の音だけが響く。
――カツン。
不意に、暗闇の先から小さな音が聞こえた。
――カツン……カツン。
それは、硬い靴底が濡れた地面を叩く規則正しい音。
静寂を切り裂いて近づいてくるその音に、全身の毛羽が立ち、背筋に背筋に寒気が走る。
「誰だ……!?」
暗闇に向かって叫ぶ。だが、返事はない。
ただ、一定のテンポを保ったまま、足音はこちらへと一直線に近づいてくる。
月明かりが、闇の奥から姿を現した、それを照らし出した。
あでやかな漆黒の生地に、純白のレースとフリルがあしらわれた、隙のない仕立てのメイド服。
その主は、まるで夜会にでも出席するかのように優雅な足取りで、血の海の上を歩いていた。
白磁のように美しい肌。きっちりと切りそろえられた紺色の髪。
そして何より――その手には、月光を反射して怪しく光る、巨大な刃物ブーメランが二丁、握られていた。
銀色の刃からは、ポタリ、ポタリと新鮮な血が滴り落ちている。
「……ぁ」
喉から引きちぎられたような声が出た。
知っている。この女を、俺は知っている。
「――探しましたよ、ファイ様」
女は清らかでどこまでも丁寧な声で言った。
普段は感情を伺えないその口元には、慈悲深い聖母のような、けれど瞳の奥には一切の光を宿していない、完璧で気味の悪い微笑が浮かんでいる。
「メラ……リカ……ッ!」
「お久しぶりでございます。第三区画をあのように逃げ出されてから、どれほど心配したかお分かりですか?探すのに少しばかり手間取ってしまいました」
メラリカ。
第三区画で、徹底された、ですます調の丁寧な接客の裏に、狂気的な非人道を秘めていたあの女メイド。
「……なんで、お前がここに……っ」
「理由はお分かりでは?死刑囚の脱獄――元を辿れば、私がファイ様を逃がしてしまったことになっておりますので。責任を取るため、ファイ様が潜んでいそうな場所を片っ端から探らさせていただいていたのです」
メラリカは手に持った刃物ブーメランを軽やかに指先で回した。風を斬る凶悪な音が、夜の空気に鋭く響く。
「このエルフの村に辿り着いた時は、半信半疑でしたけれど……大当たりでしたね」
「じゃあ、この男を殺したのは……お前、か……」
俺が足元に転がる死体を指差すと、メラリカは可憐に首を傾げ、心底不思議そうに目を細めた。
「殺した?いいえ、お尋ねしただけですよ。ファイという男を知らないか、と」
「……な、に……?」
「皆様、あまり聞き分けがよろしくなくて。ファイ様を庇おうとするものもいましたので、少し、説得させていただいただけです」
「説得……?こんな……こんな風に切り刻むのが説得だって言うのかよ!!」
俺の咆哮のような叫びに対し、メラリカは心底当然のように、こちらをしっかりと見据えていた。




