絶望に最も近い場所
静かに、けれど逃れられない重みを持って投げかけられたその言葉に、息が止まる。
ルナネアの瞳を見つめ返しても、そこには絶望も、村人への憎しみもなかった。ただ、己の運命を受け入れた者だけが持つ、痛々しいほどの清廉さがあるだけだ。
「……っ」
握りしめた彼女の手首から、熱が奪われていくような錯覚に襲われる。
ここで熱くなって説得を続けても駄目だ。今のルナネアは「自分が死ぬことで村が救われる」という犠牲のロジックに縛られている。
無理に引きずり出せば大声を出されるかもしれないし、外で見張っているルカーパに感づかれれば、即座に連戻される。
――落ち着け、ファイ・ニアス。冷静になれ。
胸の奥で渦巻く荒波を必死で押し殺し、俺はゆっくりと握りしめていた手を解いた。
「……そうか。お前がそこまで覚悟を決めてるなら、俺がそれ以上言う権利はないよな」
「ファイ……?」
急に折れた俺の態度に、ルナネアが拍子抜けしたように目を丸くする。俺は努めて穏やかな、そして諦めを含んだ笑みを無理やり口元に作った。
「ごめんな。俺みたいな余所者がしゃしゃり出て、変なこと言って。……本当は、お前を助け出すのがヒーローなんだろうけど、俺にはそんな力もない」
「そんなことない!ファイがそう言ってくれただけで……わたし、すごく嬉しい」
ルナネアは泣きそうな顔で、でもどこか安心したように笑った。
「……もう、行って、ファイ。これ以上ここにいると、お互いに辛くなるから……」
「あぁ。……元気でな、ルナネア」
「うん。元気で、ファイ」
背中で扉が閉まる音を聞きながら、俺は暗い森へと足を踏み出した。
約束の場所で待っていたルカーパは、俺の姿を見るなり影から飛び出してきた。
「ファイ!……どうだった。余計なことは言わなかっただろうな?」
「あぁ……最後のお別れをしてきただけだ」
俺は深く頭を垂れ、肩を落として力なく歩く。
「あいつの覚悟を見たよ。……俺なんかがどうこうできる話じゃなかった。……言われた通り、明日はおとなしく部屋にいる」
「……そうか。分かってくれたならいいんだ」
ルカーパの表情に、あからさまな安堵の色が浮かんだ。俺の意気消沈した様子を見て、完全に毒気を抜かれたと踏んだのだろう。
「帰ろう。明日になれば、全部終わる……」
吐き捨てられた言葉を背に、俺はただ黙って村への道を歩いた。
もちろん、諦めるつもりなんて毛頭ない。
表向きは納得したフリをして警戒を緩めさせ、明日の夜、隙を突いてルナネアを奪い去る。それしか方法はないのだから。
――翌日。
朝の光が小窓から差し込んでも、俺はベッドの上から動かなかった。
無気力を装うためだ。天井の木目をひたすら見つめ、思考を張り巡らせる。
村の警備はどうなっている?式は何時に始まる?ルナネアが小屋から連れ出されるタイミングはいつだ?連れ去った後、追手を撒いてこの森を抜けるルートは――
ぐるぐると渦巻く思考の中、昼前に一度、扉が薄く開いた。
ルカーパが隙間から覗き込んでくる。手に弓を持ち、狩人の装束を整えているところを見るに、『贄の式』に向けた村の警備や準備で駆り出されているのだろう。汗ばんだ額と、焦燥に満ちた目が俺を捉えた。
「……ファイ、体調はどうだ」
「……最悪だ。身体が重くて起き上がれない」
俺は顔すら向けず、背を向けたまま投げやりな声を返した。
ルカーパはしばらく無言でこちらの様子を探っていたが、俺がピクリとも動かないのを確認すると、深く息を吐き出した。
「……余計なことを考えるなよ。今日は村中がピリピリしてる。外に出たら本当に命はないぞ」
「わかってるよ……」
短く吐き捨てると、ルカーパは言葉を残さず扉を閉め、鍵をかける音が響いた。
一度、二度とルカーパは様子を見に来たが、そのたびに俺は「無力感に打ちひしがれて何も手につかない男」を演じ続けた。ルカーパの警戒心は着実に薄れていっているはずだ。
作戦は順調だ。そう自分に言い聞かせながら、俺は暗闇が訪れるのをじっと待った。
――やがて、部屋の中が濃紺の闇に包まれた。
夜だ。儀式の時間が刻一刻と近づいている。
心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、俺はベッドの上で浅い息を繰り返していた。いつでも動けるよう、全身の筋肉に意識を集中させる。
ガチャリ、と扉の鍵が開く音がした。
「ファイ、入るぞ」
入ってきたのはルカーパだった。その手には、湯気を立てる木製の深皿と、水が入った水筒が乗ったトレイがある。
「……なんだよ。そっとしておいてくれって言っただろ」
「朝も昼も何も食べてないだろ。……これを食え。こんな状態のまま死なれたら、俺の後味が悪い」
ルカーパはトレイをテーブルの上に置くと、俺を睨みつけるように言った。皿には、根菜と干し肉を煮込んだ温かいスープが入っている。
「食欲なんてない」
「食え。お前がここで倒れでもしたら、俺が村長たちに何を言われるか分かったもんじゃない。頼むから、一口でもいいから腹に入れてくれ」
ルカーパの声には、切羽詰まったような強い響きがあった。
――なるほどな。
ここで頑なに拒否し続けて余計な疑いを抱かせるのは得策じゃない。それに、今夜ルナネアを連れて逃げるには体力が不可欠だ。朝から何も口にしていない身体に、このスープは都合が良かった。
「……分かったよ。食えばいいんだろ」
俺はノロノロと起き上がり、テーブルの前に腰掛けた。
木製のスプーンを取り、熱いスープを口に運ぶ。出汁の効いた素朴な味が、空っぽの胃に染みわたっていく。空腹だったこともあり、俺は言われるがままにスープを喉へと流し込み、水筒の冷たい水を一気に飲み干した。
「……全部食ったぞ。これで満足か?」
空になった皿を示しながらルカーパを見る。
ルカーパはトレイを引き寄せながら、どこか引きつったような、複雑な表情で俺を見つめていた。その瞳には、昼間までの焦燥とは違う、暗く重いなにかが宿っている。
ルカーパが立ち上がり、扉へと向かう。
その背中に向けて、俺は抑えきれなくなった問いを投げかけた。
「……ルカーパ。お前、本当にこれでいいのか?」
ルカーパの足が止まる。
「ルナネアをあんな目に遭わせて……村を守って。お前は本当に、これからも笑って生きていけるのか?」
ルカーパの反応を見ようとした。彼が振り向き、どんな怒りや葛藤の表情を浮かべるのか、確かめようとしたんだ。
だが――
「……ッ!?」
視界が、急激にぐにゃりと歪んだ。
踏み出そうとした足から、一瞬で全ての感覚が消え去る。まるで全身の骨が突然粘土に変わってしまったかのように、急速に身体から力が抜けていく。
「な……に、が……」
ドサリ、と音を立てて床に倒れ込んだ。
手すらに力が力が入らない。指一本動かすことすら叶わない。そればかりか、猛烈な重圧のような眠気が、津波となって脳髄を呑み込んでいく。
まぶたが、鉛のように重い。
「……悪いな、ファイ」
頭の上から、ルカーパの低く、震えた声が降ってきた。
歪む視界の果てで、ルカーパが振り返り、俺を見下ろしているのが見えた。その顔は悲痛さに歪み、苦渋に満ち満ちている。
「お前が……納得したフリをしてるなんて、最初から分かってたよ。お前みたいな目をした奴が、あの子を見捨てて大人しく引き下がるわけがない」
「ル……カー……パ……お前……っ」
「お前は優しい奴だ。だから……ルナネアを助けに行こうとするはずだ。でもな、行かせたらお前は殺される。村の連中に見つかって、ルナネアと一緒に贄にされる……!」
――スープだ。
――あるいは、あの水か。
ルカーパは俺の意図を見抜き、最初から逃亡を阻止するために、食べ物に強力な睡眠薬――いや、狩人が獲物を痺れさせるための痺れ薬の類を仕込んでいたのだ。
「俺は……誰も無闇に死なせたくないんだ……」
ルカーパの声が、遠く、遠く聞こえる。
「く……そ……っ!動け……動けよ、俺の身体……っ!!」
必死に歯を食いしばり、指先に力を込めようとする。だが、脳からの命令は糸が切れたように全身へ伝わらない。
意識が急速に暗度を増し、思考の糸がぶつぶつと途切れていく。
――行かなきゃ……ルナネアの……ところに……
助けるんだ。あの小さな肩を抱きしめて、こんな狂った村から連れ出すんだ。
心の中でどれほど叫ぼうと、抗いようのない深い闇が俺の意識を完全に塗りつぶしていった。
「……眠れ、ファイ。今日で……全部、終わるから……」
扉が閉まり、施錠されるカチャリという残酷な音が、途切れる意識の最後に聞こえた音だった――




