宿命
「『納める』……?」
その言葉の裏にある凄惨な意味を反芻し、俺の思考が一瞬フリーズする。
生贄。要するに、村の平穏と引き換えに、誰かを怪物に喰わせるということ。
「……あ……っ」
部屋を包んだ重苦しい沈黙の中で、ルカーパが唐突にハッと我に返った。
自分が口にしてしまった内容の恐ろしさに顔を極限まで引きつらせ、血の気を完全に失った唇を震わせる。
「……俺は、今……何を……」
ルカーパは頭を激しくかきむしり、逃げるように俺から距離を取ろうと後ずさった。だが、背後は閉ざされた扉だ。行き場を失った彼は、必死の形相で俺の肩を掴んでくる。その手は、まるで氷のように冷たかった。
「聞かなかったことにしてくれ!頼む、ファイ!今の言葉は全部忘れてくれ!!」
「ルカーパ――」
「言ったらお前も殺される!!村長たちに知れたら、余所者のお前なんて一瞬で消されるぞ!」
俺の胸ぐらを掴み、血走った目で懇願してくるルカーパ。
その瞳に宿っているのは、村への裏切りに対する恐怖と、ほんのわずかな……俺やルナネアに対する罪悪感だった。彼自身も、この不条理な狂気に心を削り取られそうになっているのだ。
ルカーパは何度も荒い息を吐き出しながら、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「お前が……お前が夜中に抜け出してルナネアに会っていたことは、俺は気にしない。村長たちには黙っておく。だが……明日だけは駄目だ。明日の夜だけは絶対に、この部屋から一歩も出るな!」
「やっぱり、贄っていうのはルナネアなんだな」
「……っ!そう、だ……。でもファイ、分かってくれ。これは仕方のない運命なんだ」
叩きつけられたその言葉に、胸の奥がカッと熱くなる。
運命。たったそれだけの言葉で、あんなに心優しい少女を暗い闇に突き落とそうとしているのか。
「運命だと……?ふざけるな!あんな健気なやつが、どうしてそんな目に遭わなきゃならないんだ!」
「俺だって……俺だって苦しいんだよ!俺は狩人なんだ。森を歩けばたまにルナネアに会うことだってある!」
ルカーパは叫びながら、己の頭を激しくかきむしった。
「あいつが……あいつがどんな目で俺たちを見てるか知ってるか!?怯えて、でもどこか縋るような目で……!俺だって分かる!村の大人たちが揃ってあんな優しい子を、バイ菌みたいに弾き出して、孤独に追いやられてるのを見て……何とも思わないわけないだろ!」
血走った目から、ボロポロと涙がこぼれ落ちる。
「話しかけたことなんて一度もない!掟だからって自分に言い聞かせて、視線を逸らして、通り過ぎるのが精一杯だった!助けたい……助けてやりたいって、何度も思ったよ!でも……でも俺には家族がいる!村を守らなきゃいけないんだ!あいつ一人を庇って、村全員を魔獣の餌食にするなんて……そんなこと、俺にできるわけない!!」
胸をかきむしりながら、その場に崩れ落ちそうになるルカーパ。
――こいつ……こんな顔をしてたか?
激しい怒りで血が上っていた俺の思考が、ふっと冷や水を浴びせられたように冷えていく。
――目の前にいるのは、村の共犯者じゃない。
歪んだ村のルールと、村人たちの命と、少女ひとりの命。その耐えがたい天秤の重さに押し潰され、いまにも精神が狂い破綻してしまいそうな、ただの、哀れで弱い一人の人間だった。
ルカーパの顔に刻まれた酷い影と、絶望に歪む表情を前にして、俺は握りしめていた拳の力をふっと抜く。
「……ルカーパ」
「助けてやりたかった……」
床に膝をつき、嗚咽を漏らすルカーパ。
俺は深く、深く息を吐き出し、煮え滾る怒りを静かに胸の奥へと沈めた。
目の前の男と揉めたところで、誰も救われない。この男もまた、村の狂気と魔獣の脅威に怯える被害者の一人なのだから。
「……ごめん。無神経なことを言った」
「ファイ……」
「頼む、ルカーパ。今夜だけでいい。最後にもう一度だけ、ルナネアに会わせてくれ」
「……!」
「明日からはお前の言う通り、おとなしく部屋に籠もる。逃げ出したりもしない。だから……今日だけだ。あいつに、最後のお別れを言わせてくれ」
「ファイ、お前……」
「命の恩人のお前に、これ以上迷惑はかけない。一度だけだ。頼む」
俺は頭を下げた。
ルカーパは息を呑み、苦しそうに眉間にしわを寄せたまま、長すぎる沈黙に沈んだ。
やがて、ルカーパは諦めたように大きく肩を落とし、吐き捨てるように呟いた。
「……今夜だけだぞ。誰かに見つかったら、俺もお前も終わりだからな」
「あぁ……感謝する」
――静まり返った夜の森。
月光が静かに差し込むけもの道を、俺とルカーパは影のように潜みながら進んでいた。
ルカーパは終始、周囲を警戒してソワソワと首を振っている。村全体が明日への恐怖と緊張で張り詰めているのが、遠くから漏れる松明の微かな光や、冷たい風の匂いからも嫌というほど伝わってきた。
「ここから先は一人で行け。俺はここで見張ってる。……一時間で戻ってこい。来なかったら、引きずってでも連れ戻すからな」
「わかってる。待っていてくれ」
森の暗がりに身を潜めるルカーパを残し、俺は走り出した。
――樹木の隙間を抜け、開けた小高い丘が見えてくる。
そこに佇む、古い石造りの小屋。
小さな窓からは、今夜も消え入りそうな暖かなランプの光が漏れていた。
ハァ、ハァと荒い息を整えながら、俺は木製の扉をトントンと軽く叩いた。
「ルナネア、俺だ」
一瞬の沈黙の後、パタパタと小さな足音が近づき、ギィと音を立てて扉が開く。
「ファイ……!?」
そこに立っていたルナネアは、驚きに目を丸くしていた。
薄暗い光の中で見る彼女の肌は、どこか青白く、夜の冷気に怯えるように細い肩を縮めている。
「大丈夫……?そんなに息を切らせて」
「……ごめん。どうしても、お前に会いたくて」
「……!」
俺の言葉に、ルナネアは一瞬だけ切なげに目元を歪めたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべて扉を大きく開けてくれた。
――狭い小屋の中に入ると、懐かしい木の香りとランプのぬくもりが身体を包み込む。
ルナネアは前のように唯一の木製椅子を俺に譲ろうとしたが、俺は首を振ってそれを断り、彼女を椅子に座らせた。自分はすぐ前に膝をつく。
「ファイ……?何かあった?」
俺の異様な真剣さに気づいたのか、ルナネアの瞳に不安の色が混ざりはじめる。
俺は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「ルナネア。……本当に、明日の行事はただのお祭りなのか?」
その問いに、ルナネアの身体がぴくりと強張った。
ランプの橙色の光を受けながら、彼女は視線を下に向ける。繊細な指先が、膝の上でぎゅっとスカートの布地を握りしめていた。
「……うん。ただの、お祭りだよ。村のみんなが、昔からの神様にお祈りをするの」
「嘘だ」
俺はまっすぐに彼女を見つめた。
「村のやつから聞いた。……明日の夜、何が起きるのか」
「っ……!」
ルナネアが弾かれたように顔を上げた。
その綺麗な瞳が激しく揺れ、ポロポロと涙が溢れ出しそうになるのを、彼女は唇を噛み締めて必死に耐えている。
「……聞い、たんだ。……そっか。ファイ、知っちゃったんだ」
「あぁ。知ったよ。あいつらは、お前をあの湖の魔獣に捧げようとしてるんだろ?村を守るための……生贄として」
言葉にすると、怒りで声が震えた。
だが、ルナネアは責めるような素振りも見せず、ただ寂しそうにポツリと言った。
「生贄……」
「逃げよう、ルナネア」
「ファイ……」
ルナネアの細い手首をそっと握りしめる。冷たくて、今にも折れてしまいそうなほど華奢な腕。
「今すぐ俺と一緒にここを出よう。怪我ならもう大丈夫だ、歩ける。村の奴らに見つからないように、遠くの街まで逃げるんだ。俺が絶対にお前を守るから!」
必死の呼びかけ。だが、ルナネアは静かに首を振った。
「ううん。逃げられない、ファイ」
「どうしてだ!あんな冷たい連中のために、お前が命を捨てる必要なんてどこにも――」
「わたしが逃げたら……村のみんなが死んじゃうから」
澄んだ声が、狭い部屋に静かに響いた。




