タイムリミット
「明日はここに来るよ」
しばらく後、ルナネアと別れる。
ルナネアの屈託のない笑顔に見送られ、俺は名残惜しさを覚える足をどうにか前へと進めた。
来た時と同じ暗いけもの道を、月光だけを頼りに一歩ずつ歩いていく。
静まり返った夜の森は、昼間の暖かな陽光が嘘のように冷えきっていて、静寂が鼓膜に痛いほど響く。けれど、身体に残る微かなぬくもりと、背後に感じる小さな灯りの気配が、俺の足を優しく支えてくれていた。
村の境界線を抜け、あてがわれた宿屋の粗末な部屋に戻ると、俺はそのまま吸い込まれるようにベッドへ倒れ込んだ。
――明々後日、村を覆う『贄の式』。
――決して誰も近づけない、湖に浮かぶ魔獣の棲む島。
脳裏に去来する数々の不穏な影が、泥のような疲労感と一緒に混ざり合い、思考を重く沈めていく。
「……絶対、奪わせない」
暗闇に向かって潰やいた低く小さな誓いは、夜の静寂の中に静かに溶けて消えた。
――翌朝。すっきりと晴れ渡った空とは裏腹に、村の空気はどこか余所余所しく、妙な緊張感に包まれていた。
大人は誰もが引きつった面持ちで何かの準備に追われ、余所者である俺と視線が合うやいなや、咎めるような目つきで露骨に背を向けられる。ルカーパの姿もどこにもなく、村全体が触れれば弾けそうな不気味な密室と化していた。
「あ!ファイお兄ちゃんだー!」
「ファイお兄ちゃん、あーそーぼ!」
そんな淀んだ空気を吹き飛ばすように現れたのは、双子のピピとリュリュ。
無邪気に駆け寄ってくる二人の笑顔に、俺は思わず肩の力を抜く。村の大人たちがどれほど黒い企みを抱えていようと、この幼い命たちに罪はない。
「お前たち、今日も元気だな。足の怪我?あぁ、昨日よりずっとマシになったよ」
二人に引かれるまま村外れの草むらへ移動し、俺たちはまた時間を忘れて遊んだ。
木の実を拾って飛ばしっこをしたり、川の浅瀬で跳ねる小魚を追いかけ回したり。ピピがすっ転んで泣きべそをかけばリュリュが一緒になって泣き出し、俺が慌てて二人をあやす羽目になる。
大人たちの暗い企みなど露知らず、ケラケラと無垢に笑い転げる双子。その眩しさに触れるたび、胸の奥で小さな温もりと、それ以上に鋭い痛みが交差した。
――この子たちも、何も知らされないまま、何かに利用されようとしているのだろうか。
背中に冷や汗が伝わるのを感じながらも、俺は必死に頼もしいお兄ちゃんの顔を演じ続けた。
――そして、日が沈み、森が青黒い闇に呑み込まれる頃。
俺は再び、あの静謐なけもの道を通ってルナネアの住む小さな石造りの小屋へと向かった。
「ファイ!」
小屋の灯りの下で俺を待っていたルナネアは、俺の姿を認めるなり、パッと花が咲くような笑顔を見せた。
昨日と同じ小さな木製の椅子に腰掛け、オイルランプの暖かな光に包まれながら、俺たちは言葉を交わす。
「今日は、こんな風に木の実を削って、小さな人形を作ってたんだ」
「器用だな。……そうだ、約束通り、今日はとっておきの話があるんだ。魔呪綴で動く、泥の衛兵の話だ」
「泥の衛兵……?そんなの、本当にいる?」
ルナネアが真ん丸な瞳を輝かせ、身を乗り出して俺の言葉に耳を傾ける。
――俺の狭い世界の中で話せる最大限を、拙い語彙力でひとしきり語って聞かせた後、俺たちは昨夜見たあの裏手の神秘的な湖へと足を運んだ。
満天の星空と、水面を埋め尽くす青い花々の光。
冷たい風が二人の頬を撫でる中、俺たちは並んで腰を下ろし、静かに寄り添った。
「ファイと一緒にいると……時間が、あっという間に過ぎちゃう」
「そうだな。なんだか、時間が溶けていくみたいだ」
「明日も、また……来てくれる?」
「あぁ、勿論だ。約束する」
湖の中央に浮かぶ孤島の影を気に留めつつも、俺は彼女の温もりを確かめるように、そっと隣に居続けた。
――そして、タイムリミットの前日。最後の猶予の日がやってきた。
村の異様さは、いよいよピークに達していた。
村には誰一人として出歩いておらず、どの家の窓も固く閉ざされている。まるで村全体が息を潜め、巨大な怪物の胎内で解体されるのを待っているかのようだ。
結局、この二日間、手ぶらで指を咥えていたわけじゃない。
昼間、双子のピピとリュリュと遊ぶ合間を縫って、俺はそれとなく『贄の式』や湖の孤島について探りを入れていた。
「なぁ二人共、あの湖の真ん中にある島って、行ったことあるか?」
「ダメだよファイお兄ちゃん!あそこはね、悪いお化けがいるから見ちゃダメってお爺ちゃんに言われてるの!」
無邪気な反応から分かったのは、子供たちにも徹底して、恐怖による口止めがなされているということだけだった。
さらに、村の大人たちにも遠目から探りを入れようとしたが、まるで存在しない亡霊でも見るような冷たい視線を浴びせられるか、露骨に扉を閉ざされるのが関の山。ルカーパに至っては、ここ二日、雑談することができていなかった。
何も掴めないまま、刻一刻と刻まれるタイムリミット。
宿屋の狭い室内で、俺は苛立ちを紛らわせるように拳を握りしめていた。
明日には『贄の式』が執り行われる。
ルナネアは「式当日は外に出られない」と言っていた。村中から隔離され、差別に耐えてきた彼女も、村の最大の行事の日に限って自室に閉じ込められる。
――いや、本当に閉じ込められるだけなのか?
思考が不吉な方向へ傾きかけたその時、ギシ……と低い足音が廊下に響き、粗末な木製扉がノックされた。
「……ファイ。起きてるか」
――重く沈んだ声。ルカーパだ。
扉を開けると、そこには盆に載せた冷めた麦飯とスープを抱えた彼が立っていた。だが、その顔色は土気色で、目の下には酷い隈が落ちている。明らかにまともな精神状態ではない。
「……飯だ。食ってくれ」
「ありがとう。……ルカーパ、少し話せるか?」
ルカーパは一瞬足を止め、逃げるように視線を切ろうとした。だが、俺は素早く彼の腕を掴み、強引に部屋の中へと引き入れた。そのまま扉を閉め、背中で打って背後を塞ぐ。
「……おい、ファイ。俺は忙しいんだ。明日は――」
「明日が『贄の式』だから、だろ」
俺の低い声に、ルカーパの身体がびくつりと跳ねた。掴んだ腕から、彼の激しい震えが伝わってくる。
「ルカーパ。俺は命の恩人であるお前たちを疑いたくはない。……だが、村のこの異常な空気は何だ?皆が怯えてる、式の正体は何なんだよ」
「……言えるわけがないだろ。余所者のお前には関係のないことだ」
「関係なくない!」
俺は思わず声を張り上げた。
「俺は見たんだ。村の外れ、あの湖の畔で……たった一人で暮らしているルナネアを。彼女は明日、式の時は部屋から出たら駄目だと言っていた。何故だ?何故偉い人以外は式の時、部屋から出たら駄目なんだ?それに湖の孤島の噂や、贄の意味もだ。何だ?お前らは何を隠してる?」
「っ……!」
『ルナネア』という名前を耳にした瞬間、ルカーパの瞳に決定的な恐怖と絶望が走った。彼はカッと目を見開き、掴まれた腕を振り払おうと暴れ出す。
「お前……っ!部屋を……村を出たのか!?それに『ルナネア』だと……!?」
約束を破ったことへの追及など、今の俺にはどうでもよかった。一度溢れ出した疑問と怒りは、もう誰にも止められない。
「答えてくれ、ルカーパ!あの『贄の式』ってのは……まさか、本当に誰かを……犠牲にするためのものなのか!?」
「違う!犠牲なんじゃない、あれは『納める』んだ!そうしなければ、あの湖の魔獣が目覚めて村が滅びるんだよ!!」
――ルカーパの叫びが、狭い部屋に虚しくこだました。




