地獄の前触れ
昼間の温かいひだまりとは正反対の、静謐で優しい夜の世界。たった一人でこの景色に向き合い、孤独を癒してきたルナネアの痛みを思うと、胸の奥がじりじりと焼けるように軋む。
俺は少し躊躇ってから、彼女の繊細な指先に触れないよう注意して、そっと声をかけた。
「ルナネア」
「どうしたの、ファイ」
長い髪をさらりと揺らしながら、彼女が不思議そうにこちらを振り返る。月光を吸い込んだような瞳に見つめられ、一瞬だけ気後れしたけれど、俺は昼間から脳裏にへばりついている疑問を思い切ってぶつけてみることにした。
「……今日、村の大人たちが揃って出払ってたみたいなんだ。ルカーパ……俺の知り合いも、少し大きな儀式があるからみんな忙しいんだって言ってた。『贄の式』、とかいう名前のやつらしいんだが……何か知ってるか?」
その単語を口にした瞬間、空気が凍りついた。
「……っ」
きらきらと星を映していた瞳が大きく見開かれ、その綺麗な横顔に暗い影が落ちた。
「ルナネア?」
「……ただの、ただのちょっと古い行事」
両手を小刻みに震わせながら、ルナネアは引きつった笑みを無理やり唇に貼り付けた。あからさまに視線を泳がせ、上ずった声で言葉をまくしたてる。
「村の皆が、数十年に一度、昔からの神様にご飯をたくさん届けるだけの、ただのお祭り。だから、ファイが気にすることなんて、なにもない。大丈夫」
「お祭り……」
見え透いた嘘だった。ルカーパが見せたあの怯えと、ルナネアのこの動揺。この村の連中が余所者を激しく拒絶し、裏で血眼になって準備しているその儀式には、確実に何かが隠されている。
「それよりも、ファイ……」
俺が問い詰めようとするのを遮るように、ルナネアはぎゅっと自分の胸元を掴んだ。そして、消え入りそうな声で俺を見上げる。
「明々後日はここに来たら駄目」
「来たら、駄目?」
「うん。……明々後日は、ここには来たら駄目なんだ。明々後日は村行事の日。行事の日の夜は、村の偉い人以外は外に出たら駄目だから」
切なげに眉をひそめ、縋るような目を向けてくるルナネア。
明々後日――それが、あの『贄の式』が執り行われる当日らしい。
村中から爪弾きにされているルナネアも、その日だけは外出を厳しく禁じられている。それが何故なのか、俺には分からない。
答えをくれない彼女の代わりに、俺の脳裏には昼間に見たピピとリュリュの無邪気な笑顔が浮かぶ。
――「儀式の時はね、大人は皆、ご飯をたーくさん集めるの!」
何も知らない子供たちと、全てを隠そうとする大人たち、そして怯えるルナネア。
俺たちの間に、冷たい夜風が吹き抜ける。水際の青い花々がザワザワと波打ち、まるで破滅へのカウントダウンを刻むように不気味に揺れていた。
「……分かった。ルナネアがそう言うなら、明々後日は大人しくしてるよ」
俺はあえて深く追及せず、努めて穏やかな声で微笑んでみせた。
ここでルナネアを問い詰めて、心を閉ざされてしまうのは絶対に嫌だ。
「うん……ありがとう、ファイ」
ルナネアはホッとしたように胸をなでおろしたが、その表情にはまだ拭いきれない不安がへばりついていた。
――タイムリミットは明々後日。
傷を癒し、この村の隠された狂気の正体を暴くための猶予は、あと二日しかない。
「……じゃあ、明後日までは、ここでたくさん話そう」
「うん!明日も、面白い話、いっぱい聞かせて」
少しだけ明るさを取り戻したルナネアの横顔を静かに見つめる。
何があっても、この少女の笑顔を引き裂かせるわけにはいかない。
ルナネアの細い肩を見つめていると、不意に、脳裏の奥底に澱んでいた記憶が、泡のように浮かんでくる。
困惑に支配される顔。血に染まった泥。
そして――かつて俺の手の隙間から滑り落ちていった、ある少女の姿。
――もういいんだ。
心の中で激しく首を振り、こじ開けられかけた記憶の蓋を全力で、無理やり叩き閉める。
今それを思い出したところで、胸をかきむしるような後悔に呑まれるだけだ。
――もう、諦めた。全部がどうでもよくなった。
――約束も、何もかも、俺には荷が重すぎるものだった。
奥歯を噛み締め、思考を強引に今へと引き戻す。
「約束する。とっておきの話を準備しておくよ」
胸の内のざわつきを一切見せず、俺はいつものような笑みを浮かべてみせた。
「……ファイ?」
ルナネアが、覗き込むようにして俺の顔をじっと見つめてくる。
隠し通せたと思ったはずだった。だけど、ルナネアの澄んだ瞳は、俺の唇の端のわずかな引きつりを見逃してはくれなかった。
「また、そんな風に笑うんだ」
「え……?」
「ときどき、ファイはすごく苦しそうな顔をする。笑っているのに、心が泣いてるみたいに、遠くを見てる」
ルナネアのまっすぐな言葉が、無理やり蓋をしたはずの胸の傷に、優しく、けれど深く突き刺さる。
ルナネアは鋭いわけじゃない。ただ、俺のことをそれだけ必死に、真剣に見つめてくれているからこそ、嘘の笑みが剥がれ落ちる瞬間が見えてしまう。
これ以上、自分の暗い過去に彼女を巻き込むわけにはいかない。何より、今は彼女自身の危機の方が重大だ。
これ以上追及されるのを防ぐため、慌てて視線を動かし、強引に話を濁す。
「……いや、なんでもない。それより、ルナネア。あそこに見えるのって、島か?」
俺が指さしたのは、澄んだ湖のちょうど真ん中あたりだった。
波一つない鏡のような水面の奥、満月の光を遮るようにして、ぽつんと小さな影が浮かんでいる。周囲を飛び交う青い花の光も、あの場所の周りだけはどこか薄暗く、吸い込まれていくかのように見えた。
「あ、うん。あれは……孤島だよ」
突然の話題転換に一瞬またたきを返したルナネアだったが、俺の意図を察してくれたのか、それとも島そのものへの警戒からか、その表情を引き締めて湖の奥を見つめた。
「あそこには、とっても小さな古い神社があるだけなんだ」
「神社?」
「うん。でも、村の人も誰も近づかない。……ううん、近づけない。あそこには、大昔からずっと棲みついている、すごく悪い魔獣がいるらしいから」
ルナネアは、まるで怪談を語る子供のように、声をひそめて自身の服をきゅっと掴んだ。
「その魔獣は、とっても獰猛で、近づくものをみんな噛み砕いちゃうんだって。だから、ファイも絶対に、あそこへ行こうとしちゃ駄目」
「あぁ……分かってる。わざわざあんな不気味な場所まで行く元気はないしな」
俺は小さく息を吐きながら、湖の奥に佇むその島を凝視した。
――悪い魔獣が棲む、誰も近づかない神社。
「教えてくれてありがとな、ルナネア。危ないところには近づかないって約束する」
「うん。ファイが怪我しちゃうの、わたし、絶対に嫌だから」
ルナネアはそう言って、心からの、柔らかく美しい笑みを咲かせた。




