幸せと不幸の収束
月光が木々の隙間からスポットライトのように差し込む、細いけもの道。
ルナネアの姿が闇の中に浮かび上がり、まるでおとぎ話の精霊を追っているような錯覚に陥る。彼女は時折振り返っては、俺がついてきているかを確かめるように優しく微笑みかけてくれた。そのたびに、俺の心は静かに満たされていく。
「ここ、夜になると、葉っぱが月の光を吸って、ほんの少しだけ光るんだ。見て」
ルナネアが指さした先には、確かに微かに青白く縁取られた奇妙な形の植物があった。昼間、双子と見た淡い青の花とはまた違う、静謐で、どこか寂しげな光。
「綺麗だな」
「一人で見るのも好きだけど……こうしてファイと並んで見ると、いつもよりずっと綺麗に見える」
ルナネアの飾らない言葉が、俺の胸の奥を優しく締めつけていた――
――やがて、けもの道はなだらかな斜面を登りきり、少し開けた小高い丘へと繋がっていた。
「あそこがね、わたしの住んでる場所」
ルナネアが立ち止まり、少し照れくさそうに指をさした。
その視線の先を見て、俺は思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、村の立派な木造建築群とは明らかに異なる、ひっそりと佇む小さな石造りの古い小屋だった。壁には蔦が絡まり、まるで森の一部として忘れ去られたかのような、寂寞とした空気を纏っている。
けれど、その小さな窓からは、消え入りそうなほど微かなランプの灯りが漏れていた。
ルナネアは毎夜、あの誰も来ない孤立した場所から、この暗い森を眺めていたのだろうか。
村のエルフたちの差別に耐えながら、たった一人で。
「本当に、小さくて古い場所。でも、住めば都?みたいなもの。今はすごい気に入ってるんだ」
少し嬉しそうに俺の顔を覗き込んでくるルナネアの横顔を見つめながら、俺は胸の奥が熱くなるのを覚えた。
昼間聞いた『贄の式』の不気味な噂。村を覆う狂気。
それがどんなものであれ、この小さな灯りの中で健気に生きている彼女を、俺は何があっても見捨てない。いや、見捨てられない。
「いい場所だな。静かで、何より、良い景色だ」
俺がそう言うと、ルナネアは心底ほっとしたように、夜の闇に溶けてしまいそうなほど甘く、美しい笑みを浮かべた。
ルナネアが「よいしょ」と小さな声を漏らしながら古い鍵を開けるのを、俺は少し後ろから見守っていた。
近くで見るその家は、思っていた以上に年季が入っている。石壁の隙間にはびっしりと苔がついているし、屋根の木板もところどころ歪んでいて、お世辞にも立派とは言えない。村の中心にあったあの小綺麗な家々と比べたら、まるで森の隠れ家だ。
だけど、丁寧に掃き清められた入り口や、窓辺にひっそりと飾られた一輪の野花が、彼女がここで健気に暮らしている証拠のようで、なんだか胸がくすぐったくなる。
「入って。……本当に、何もないところだけど」
ルナネアがはにかみながら扉を開け、手招きする。
「お邪魔する」
頭をぶつけないように身を屈めて中へ入ると、そこは外観から想像するよりもずっと狭く、こぢんまりとした空間だった。
使い込まれた小さな木製の机と椅子が一つずつ。部屋の隅には、簡素な布が敷かれただけの小さなベッド。窓辺の机の上で、小さなランプが「チリチリ……」と微かな音を立てて橙色の炎を揺らしている。
他には、彼女が森で拾ってきたのだろうか、奇妙な形をした木の実や、綺麗に洗われた色とりどりの小石がいくつか棚に並べられているだけだった。
「本当に、ファイの言う通り静かでしょ?夜はね、風が木々を揺らす音しか聞こえないの」
ルナネアは机の上のランプの芯を少しだけひねり、部屋を暖かな光で満たすと、唯一の椅子を俺の方へと押し出してきた。
「ファイ、身体、まだ痛むんでしょ?そこに座って」
「いや、でも、これはルナネアの椅子だろ?俺は床でも――」
「駄目。ファイは怪我人なんだから、わたしの言うことを聞くこと」
可愛らしく怒るポーズをとるルナネアに圧され、俺は苦笑しながら椅子に腰を下ろした。木製の座面が「ギィ」と小さな音を立てて俺の体重を受け止める。
ルナネアは満足したように微笑むと、自分はベッドの端にちょこんと腰をかける。
狭い部屋の中に、俺とルナネアの二人だけ。
ランプの灯りに照らされた彼女の肌は、月光の下で見るよりもさらに白く、どこか儚げに透き通って見える。村の連中が彼女をどれだけ冷遇しようが、この温かい光の中にいる限り、彼女はただの、心優しい一人の少女だ。
「ルナネア。お前はいつも、ここで一日を過ごしてるのか?」
何気なく尋ねると、ルナネアはランプの炎を見つめながら、小さく首を振った。
「ううん。昼間は、もっと森の奥に行くことが多い。村の人たちも、あんまり奥までは来ないから……。あ、そうだ!ファイに、わたしの一番お気に入りの場所を見せたい」
ルナネアは名案を思いついた子供のように目を輝かせると、ベッドから飛び起きて俺の手をそっと引いた。
「すぐ裏手にある。……歩けそう?」
「あぁ、これくらいなら全然問題ない。案内してくれ」
再び外に出ると、ひんやりとした夜の空気が、火照った身体を心地よく冷やしてくれる。
ルナネアの後を追って小屋の裏手へと回ると、そこはなだらかな崖のようになっていて、視界が一気に開けた。
「見て、ファイ」
彼女が両手を広げて示した先を見て、俺は声もなく息を呑んだ。
「これは……凄いな……」
小屋の裏手から見下ろすその場所には、広大な森に抱かれるようにして、ひっそりと澄んだ湖が広がっていた。
驚くべきは、その水面だ。波一つないその鏡のような水面に、空に浮かぶ満月と満天の星々が、一寸の狂いもなく美しく映り込んでいる。
それだけじゃない。昼間、双子と見たあの淡い青の花が、湖の周りを埋め尽くすように群生していて、それらが一斉に、夜の闇の中で神秘的な光を放っていたんだ。
上を見上げれば降るような星の海。下を見下ろせば、青い光に縁取られたもう一つの星の海。
まるで、世界の境界線が溶けてなくなってしまったかのような、圧倒的な美しさがそこにはあった。
「綺麗でしょ。ここから見る夜の景色、わたし、世界で一番大好きなんだ」
ルナネアは湖から吹き上げる微風に長い髪を遊ばせながら、宝物を見つめるような目で水面を見つめていた。その瞳の中にも、きらきらと青い光が反射して踊っている。
「悲しいこととか、寂しいことがあっても、夜にここに来て、この景色を見ていると……なんだか心がとっても静かになる。森が、お父さんやお母さんみたいに、わたしを優しく包んでくれるの」
「ルナネア……」
それは、ルナネアがどれだけの孤独をこの場所で癒してきたかという、切ない告白でもあった。
村の誰からも言葉をかけられず、存在を否定され、たった一人でこの美しさに縋って生きてきたのだ。
胸が、押し潰されるように痛む。
隣に立つルナネアの肩は、驚くほど細くて、小さくて……今にも夜風に拐われてしまいそうだった。




