贄(にえ)
二人との時間を名残惜しく思いながらも、俺たちは傾きかけた日差しに急かされるようにして腰を上げた。
「二人とも、そろそろ戻るぞ。お母さんたちに見つかったら、せっかくの冠を取り上げられるかもしれないぞ」
「えー、もっと遊びたい!」
「ダメだよ、リュリュ。お兄ちゃん困っちゃうよ」
「ぶー」
リュリュが頬を膨らませる。
「じゃあ、一緒にかけっこで帰ろう!」
物分かりのいいピピがリュリュの手を引き、俺より一足先に林の抜け道を走っていく。
「転ぶなよ」
双子の元気な姿を目に刻みながら、俺は必死に双子についていった。
――身を隠すようにして宿へと戻る。
幸い、大人のエルフたちは双子の言葉通り『贄の式』の準備とやらに追われているのか、村は不気味なほど静まり返っており、誰とも出くわすことなく部屋へ滑り込むことができた。
薄暗い室内に戻り、ベッドの縁にどさりと腰を下ろす。
どっと押し寄せてきた安堵感とともに、膝の上に残った微かな花の匂いが、さっきまでの時間が現実だったのだと教えてくれる。だが、息を整えるうちに、胸の奥に燻っていたあの言葉が、再びのらりくらりと現れ始めた。
――『贄の式』
双子は何の疑いもなく「ご飯をたくさん集める」と言っていた。
だが、本当にただの収穫祭のようなものなのか。不吉な文字が頭の裏にへばりついて離れない。
思考の海に沈みかけていた、その時だった。
静まり返った部屋のドアが、遠慮がちな音を立てて小さくノックされる。
「ファイ、入るぞ」
聞き覚えのある落ち着いた声。ルカーパだ。
俺は思考を切り替え、努めて平静を装いながら声を返した。
「大丈夫だ。入ってくれ」
扉が開き、ルカーパが静かに足を踏み入れてくる。その手には、昨日と同じように俺の分の食事と思わしきトレイが握られていた。相変わらず、その表情は柔らかく、何を考えているのか読み取りづらいが、どこかいつもより足取りが重いようにも感じられる。
「体の具合はどうだ?少しは動かせるようになったか?」
ルカーパはトレイを枕元の机に置きながら、視線だけで俺の包帯を確かめるように尋ねてきた。
「おかげさまでな。この通り、指先もそれなりに動く。お前がいなきゃ、今頃どうなっていたか分からない。感謝してるよ」
「それならいいんだが……あまり無理はすんなよ」
ルカーパはそう答えると、何かを言い淀むように視線を落とした。その様子に、俺は今がチャンスかもしれないと直感する。直球で聞けば警戒される。
あくまで世間話の延長を装い、記憶の端に引っかかった程度の温度感で、じわじわと言葉を紡いだ。
「なぁ、ルカーパ。ちょっと気になったんだが……今日は外がやけに静かじゃないか?昨日まであれだけ俺にピリピリしてた奴らの気配が、急に消えたみたいだ。何か村の行事でも、重なってるのか?」
俺の問いかけに、ルカーパの手が一瞬だけピクリと止まった。彼は表情を変えないまま、淡々と部屋のカーテンを閉め直す。
「実はな、少し大きな儀式が控えてんだ。だから皆、その準備に追われていて、今は余所者に構っている余裕がないってこった」
「儀式、か……。エルフの村特有の、伝統的な祭りか何かなのか?」
「……そんなところだな。つっても、ただの古い習わしみたいなもんだよ。そんな気にするほどじゃねぇ」
あからさまに話を切り上げようとする態度。その頑なな様子が、かえって俺の猜疑心を煽る。ただの祭りなら、ここまで隠す必要はないはずだ。
俺はベッドに深く背を預け、わざと自嘲気味な笑みを浮かべてみせた。
「それは良かった。てっきり、村人が揃って消えたから、裏で俺をどう殺すかでも話し合ってるのかと思ったよ。……生贄だか何だか知らないが、余所者を神に捧げる怪しげな儀式なんて、おとぎ話じゃ定番だしな」
冗談めかして言ったその言葉に、室内の空気が、凍りついたように静まり返った。
ルカーパの背中が、目に見えて強張っている。彼は振り返らない。だが、握りしめられたルカーパの指先が、わずかに震えているのを俺の目は見逃さなかった。
「……そんな悪趣味な冗談、二度と口にするもんじゃないぞ」
振り返ったルカーパの声は、低く、どこかひび割れていた。その瞳の奥にあるのは、怒りではない。もっと暗く、深い、怯えのような色だった。
「この村の儀式は、お前が考えているような、そんな軽いものじゃない。……だから、余計なことは考えずに、早く体を治すことだけを考えとけ」
それだけを言い残すと、ルカーパは逃げるようにして部屋を後にした。バタン、と静かに閉まったドアの音が、やけに重く室内に響く。
一人残されたベッドの上で、俺は自分の手のひらを見つめる。
ルカーパのあの過剰なまでの反応。ただの邪推だと笑い飛ばしてくれないその態度が、何よりの答えだった。
平和を象徴するようなエルフの村。その裏で、この村は確実に、何かしらの狂気へと向かって動き出している。確信に近い予感が、冷たい汗となって俺の背筋をつたっていった。
――夜が来る。ルナネアの元へ行く時間が。
すっかり日が落ち、村全体が深い闇と静寂に包まれた頃、俺は音を立てないようにベッドから抜け出した。
ルカーパの言っていた通り、大人たちが『贄の式』の準備で手一杯なのだとしたら、今夜の移動はむしろ好都合のはずだ。窓から音もなく這い出し、昼間とは違う、村の境界線にある鬱蒼とした原生林へと足をそっと踏み入れた。
冷たい夜気を含んだ木々の葉を掻き分けながら、いつもの岩場へと急ぐ。
昼間の子供たちの足音とは違う、自分の足が踏みしめる湿った土の感触と、どこか遠くで鳴く夜鳥の声だけが耳に届く。
やがて、視界が開けた。
月明かりがうっすらと照らすいつもの岩場に、その白い人影はもう佇んでいた。
「ファイ……!」
俺の姿を認めると同時に、ルナネアの顔がぱっと輝いた。まるで世界に二人しかいないかのような、その濁りのない歓喜の表情を見るだけで、日中に溜まった胸の澱がすうっと引いていくのが分かる。
「待たせてごめんな」
「ううん、わたしも今来たところ」
駆け寄ってきたルナネアの髪から、夜の森の涼しい匂いがふわりと漂う。身体は相変わらず痛むが、彼女の前に立つと、不思議とその痛みを忘れられた。
「ルナネア、今日はいつもみたいにここで座って話すんじゃなくて……少し、一緒に歩かないか?あんまり遠くへは行けないけど」
「歩く……?ファイと一緒に?」
ルナネアは驚いたように、真ん丸な瞳をまたたかせた。
「あぁ。ルナネアがいつも、夜にどんな景色を見てるのか、少しだけ知りたくなったんだ」
半分は本音だった。そしてもう半分は、彼女がいつもどんな場所で寝起きしているのか、この目で確かめておきたいという俺の懸念があったからだ。
村のエルフから理不尽に嫌悪されている彼女が、一体どこに身を寄せているのか。
「うん……!じゃあ、わたしの秘密の通り道を案内する」
ルナネアは嬉しそうに微笑むと、俺の歩幅を気遣うように、ゆっくりとした足取りで歩き出した。




