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ロスト・リビルダー ―忘却の罪―  作者: げこきち
二章 永劫の理想郷
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共依存

 物音を立てないよう細心の注意を払い、部屋の窓から静かに外へと抜け出した。今朝の重苦しい空気とは打って変わって、夜の森の空気は冷たくて妙に落ち着く。


 村のやつらに見つかったら一発でアウトだ。 


 俺は昨日、ルナネアのところへ辿り着いた時のルートの記憶を引っ張り出し、原生林の暗闇を縫うようにして走った。


 やがて、生い茂る木々の隙間から、パッと視界が開ける。

 そこは、昨夜と全く変わらない静かな岩場だった。


 月明かりに照らされた岩の上に、ひざを抱えて座っている黒髪の少女――ルナネアの姿が見える。


「――ファイ?」


 俺が草を踏みしめる音に気づいたんだろう。 

 ルナネアは勢いよく顔を上げて、その翠色の瞳をぱあっと嬉しそうに輝かせた。


「俺だ、ルナネア」


「来てくれたんだ」


 ルナネアは岩からぴょんと飛び降りると、小走りで俺の目の前まで駆け寄ってきた。

 けれど、俺の顔や身体の包帯をじっと見つめると、すぐにその表情をごくんと曇らせる。


「……今朝、村の方で騒ぎが起きてなかった?遠くからでも、皆が怒ってる空気みたいなのが伝わってきた……。ファイ、ひどいこと言われなかった?大丈夫……?」


 胸の前で自分の両手をぎゅっと握りしめて、本気で俺を心配してくれている。

 今朝、あの双子の母親に吐き捨てられた言葉の刃が、ルナネアのその純粋な言葉だけで、じわじわと溶けていくような気がした。俺はルナネアを安心させるために、軽く笑ってみる。


「大丈夫。少し村の人たちを驚かせちゃっただけだよ。――それより、良い報告があるんだ」


「良い報告……?」


「あぁ。今朝、村長と話したんだ。それで、怪我が治るまでの七日間、この村にいてもいいって許可が下りた」


 俺がそう告げた瞬間、ルナネアは驚いたように丸い目をさらに大きくした。


「えっ……」


「一緒にいたやつが上手く言い訳してくれただけだがな。ともかく、あと一週間は毎晩、こうしてここに来られる」


「一週間も……」


 ルナネアは夢でも見ているかのようにその言葉を繰り返すと、一拍置いて、パチッと弾けたような眩しい笑顔を見せた。


「す、凄いよ、ファイ!じゃあ、明日も、その次の日も、毎日話せるんだ!」


 今までで一番目を輝かせて、ちょっと興奮気味に喋るルナネア。


 あまりの嬉しさに、俺の手を掴もうとして、ハッと息を呑み、慌てて両手を後ろに隠して一歩後ろに下がってしまった。一拍置いて、彼女が急に冷静になる。


「あ……ご、ごめん。わたし、少し興奮しすぎちゃった。ファイはまだ怪我人なのに、はしゃいだりしたら迷惑だよね……」


 上目遣いで、おずおずと俺の顔色を窺ってくるルナネア。


 指先をモジモジと動かしながら、どこか申し訳なさそうに声を落とした。


「それに、ここに来るのって、その……ファイの気分次第だし。無理に毎日来てほしいなんて、そんなの、わたしのわがままだから……もし、来られたらでいい。ううん、来られそうにない時は、部屋でゆっくり休んで」


「いや、約束するよ。毎日ここに来る」


「……っ。本当、に?」


 ルナネアはそう言って、照れくさそうに、でも本当に嬉しそうに笑った。

 村の誰もが拒絶する、人間の俺と、村の誰もが存在を拒絶する、エルフのルナネア。


 周りは敵だらけだけど、この場所だけは俺たちの味方だ。


 こうして、俺とルナネアの、少し歪で特別な七日間の夜が始まった。



 その夜、俺たちは岩場に並んで腰掛け、本当にたくさんの話をした。


 話すことなんて何もないと思っていた。だけど、ルナネアは俺が話す外の世界の些細な出来事――要塞都市の市場の賑わいや、なんてことのない日常の話に、毎回「凄い……!」と声を弾ませて、子供のように目を輝かせて耳を傾けてくれた。


 村の誰もが彼女の存在を拒絶する中で、こうして誰かとただ言葉を交わすこと。それが、彼女にとってどれだけ特別なことなのか、その弾むような声を聞いているだけで痛いほどに伝わってくる。


「人間の街って、そんなにたくさんの人がいるんだ……。なんだか、お祭りが毎日続いてるみたい」


「まぁ、うるさくて面倒なことも多いけどな」


 そう言って笑うルナネアの横顔は、今朝、あの村で傷ついた俺の心を、驚くほど簡単に癒していく。ツンとした香木の匂いも、エルフたちの凍りつくような刺す視線も、ここにはない。


 ルナネアと話している間だけは、自分が何も成せず生き残ってしまっただけの、敗残兵だという残酷な現実を、忘れられるような気がした。


 ――いや、違う。


 ふと、胸の奥で冷たい楔が打ち込まれたような感覚がした。


 俺は今、ルナネアという傷ついた少女を都合のいい隠れ蓑にして、現実から逃げているだけじゃないのか?


 村で浴びせられた罵倒から目を背け、自分の過去の罪から目を背け、この優しくて静かな時間に逃げ込んで、必死に心の平穏を保とうとしている。


 ……最低だな、俺は。


 そんな自分自身の女々しさと、卑怯さに、強烈な自己嫌悪が込み上げてくる。


 ルナネアを救いたいだなんて、どの口が言うんだ。救われているのは、現実逃避をして傷を舐め合おうとしている、俺のほうだ。


「……ファイ?どうしたの?ボーっとしてる。どこか、傷口が痛む……?」


 ルナネアが覗き込んでくる。その吸い込まれそうなほど純粋な翠色の瞳に、歪んだ自分の心が映り込んでいるようで、胸がズキリと痛んだ。


「……なんでもないよ。ちょっと、ほんのちょっとだけ、考え事をしてただけだ」


 俺は自分の醜い思考を必死に抑え込み、無理に笑みを作って現実逃避の檻に鍵をかける。


 今はまだ、この偽りの平穏を手放すわけにはいかない。そうしなければ、俺の心は一瞬で崩壊してしまうから。


「そう?無理しないでね、ファイ」


「あぁ、無理しないよ」


 楽しい時間ほど、過ぎていくのは残酷なまでに早い。

 夜風の冷たさが一段と増し、月が頂点に達した頃、俺たちの会話にふと短い沈黙が訪れた。


「……そろそろ、戻らないと」


 俺が重い腰を上げようとすると、ルナネアがハッとしたように顔を上げる。


「うん。今日もありがとう、ファイ。とっても楽しかった」


 ルナネアも立ち上がり、寂しさを隠すように無理に笑ってみせる。けれど、その細い指先は、まだ俺の服の裾を名残惜しそうに微かにかすめていた。


「じゃあ、また明日。……でも、体調が悪かったら無理はしないで」


 おずおずと、こちらを心配してくれるルナネア。


 自分の存在が明日には消えてしまうんじゃないかと怯えるような、そんな儚い響きが混ざっていた。現実逃避だろうと何だろうと、今の俺には、ルナネアのこの手を振り払うことなんてできなかった。


「大丈夫だ。村では大人しく過ごすし、明日も、その次の日も、必ず来るよ」


 俺がまっすぐ目を見て答えると、彼女はホッとしたように胸をなでおろし、今日一番の、柔らかくて温かい微笑みを浮かべた。


「明日もここで待ってる、ファイ。……気をつけて帰って」


 小さく手を振るルナネアに見送られながら、俺は再び暗い原生林の闇へと足を入れた。

 帰り道、身体の傷は相変わらずズキズキと痛んだけど、不思議と足取りは軽かった。



 部屋の窓からこっそりとベッドへ戻り、布団に潜り込む。


 明日もまた、あの息の詰まるようなエルフたちの視線に耐えなければならない。けれど、胸の奥に灯った確かな温もりを必死に抱きしめながら、俺は静かに、だけど深い安堵と共に、ゆっくりと意識を眠りへと沈めていった。

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