不思議な夜
最初から居場所のないルナネア。
五感に刺さる夜の空気よりも、彼女の言葉の端々に滲む諦念の方が、ずっと酷く俺の胸を苛む。
ただの少女が、どうしてこんな森の片隅で、ひっそりと息を潜めていなきゃならないんだ。
そんなの、間違っている。彼女を一人に、孤独にした現実に怒りを覚える。
けれど、目の前で静かに夜風に震える彼女を前に、これ以上みっともなく取り乱しているわけにはいかない。
「俺は……ファイだ」
俺はようやく自分の呼吸を取り戻し、そう名乗った。
「ファイ……良い名前」
ルナネアは、膝を抱えたまま少しだけ小首を傾げ、微笑む。
その細い肩は、夜風に吹かれて頼りなく震えている。
「ありがとう」
「うん……」
ルナネアは、膝に顔をうずめるようにして視線を落とした。
「ねぇ、ファイ、もう少し話せる?」
「あぁ」
俺が短く返すと、ルナネアは膝に置いていた小さな手を、そっと岩の表面へと滑らせた。
自分のすぐ隣をぽんぽんと軽く叩き、ほんの少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「そこの丸太、座り心地悪そう。こっちに来て」
「いや、俺はここで――」
「お願い。……せっかく、話せる人ができたから」
そう言われてしまっては、断る理由がなかった。
俺は苦笑交じりに腰を上げ、ルナネアが座る大きな岩の上へと這い上がる。
驚くほど近くから、彼女の気配が伝わってきた。
長い黒髪の隙間から覗くルナネアの長い耳は、ルカーパたちのような尖った形ではなく、俺たち人間とあまり変わらない、柔らかな丸みを帯びている。
たったそれだけの違いで、彼女はこの世界の全てから拒絶されてきた。
「……本当に、人間と同じなんだな」
思わず視線を注いでしまった俺に、ルナネアは嫌がる風でもなく、自嘲気味にその耳に指先を触れた。
「うん。エルフの誇りを踏みにじる、忌むべき姿なんだって。……でもね、わたしは自分のこの耳が、そんなに嫌いじゃない」
「嫌いじゃ、ない?」
「だってこれは、大切な人を思い出させてくれるものだもの」
一拍置いて、ルナネアは続ける。
「それに、この耳だから……あなたの……ファイの傷の痛みがわかる。この目だから、ファイのその、苦しそうな顔に気づけた」
ルナネアがこちらを見据える。
「……ッ」
不意打ちのような言葉に、反応が遅れる。
「俺は……傷ついてなんか……」
「ううん。分かる」
ルナネアはそう言うと、岩の上に体育座りしたまま、じっと俺の横顔を見つめてきた。
責めるような強さはどこにもない。ただ、夜の闇に迷い込んだ子供をそっと見守るような、毛布みたいな温かさ。
「強がって、平気なフリをして、でも本当は今にも壊れちゃいそうな顔。……だって、わたしと、同じだから」
「それは……」
「隠さなくていい。ここでは誰もあなたのことを責めないし、誰も追ってこない。……わたしとファイしか、いないんだから」
その声は、耳の奥に心地よく染み渡るほどに優しかった。
自分の弱さを指摘されているはずなのに、不思議と嫌な気分にはならない。むしろ、張り詰めていた心の糸が、ルナネアの言葉によって一本ずつ丁寧に解かれていくような感覚だった。
全てを失って、ただ生き延びただけの情けない俺を、ルナネアの言葉が静かに全肯定していく。
ルナネアは夜空から目を離し、まっすぐに俺を見た。
澄んだ翠色の瞳が、月光を反射してきらきらと輝いている。
「たった一人でも、わたしの名前を呼んで、対等に話してくれる人がいた。……それだけでわたし、自分が認められた気がする。……ごめんね。会ったばかりなのにわけの分からないこと言って。でもね、本当に嬉しかった」
ルナネアが儚い笑みを浮かべる。
「……謝るなよ。わけが分からないなんてことはない。傷つくのは、辛くて、怖いことだから……」
格好悪い強がりを全部見透かされて、なのにこんなにも心が軽いのは何故だろうか。
俺の言葉に、ルナネアは嬉しそうに目を細めた。
「もし、何か話したくなったら、吐き出したくなったら、いつでも言って。……わたし、明日の夜も、ここで座ってるから。ファイの荷物を、半分くらいなら持ってあげられると思う」
「……ありがとな、ルナネア」
それから、俺たちはぽつり、ぽつりと、他愛のない言葉を交わし合った。
お互いの過去に深く踏み込むようなことはしなかった。
ただ、この森の夜風が冷たいこと。見上げる月が、灯りがあるところより綺麗に見えること。
そんな、どうでもいいような小さな会話が、凍りついていた俺の心をじんわりと溶かしていく。
頭上の月がゆっくりと傾き、夜がその深みをいっそう増してくる。
「……そろそろ戻らないと。ルカーパが心配する」
名残惜しさを胸に押し込みながら、俺が岩の上で身を起こすと、ルナネアも小さく頷いた。
「うん。……またね、ファイ」
「ルナネアは寝る場所、大丈夫なのか?」
「大丈夫。近くに小さな家を作ってる」
俺の問いかけにルナネアは間を置かず答える。
「風邪、引かないようにな」
「ファイも気をつけて」
最後にそう言葉を交わし、岩から飛び降り、歩き出した俺の背中に、彼女の穏やかな声が届く。
振り返ると、月光に照らされたルナネアが、小さく手を振っていた。
最初に出会った時の、物事に諦めきったあの深い孤独の影は、もう今のルナネアにはなかった。
「またね」
「あぁ、またな」
俺は一言だけ残し、今度は迷わずに、村へと続く暗い夜道へと足を踏み出した。
森の切れ間を抜け、村の外縁へと戻ってくると、途絶えていた原始的な松明の灯りが再び視界を赤く染めた。
現実へと引き戻される感覚。けれど、胸の奥にはまだ、あの静かな月光の温かさが残っている。
ルカーパの家の扉を開けると、中には腕を組んで床に座り込んでいる彼の姿があった。
「戻ったか」
低く、どこか呆れたような声。ルカーパは鋭い視線を俺に向ける。
「随分と遅かったじゃないか。まだまともに動けない身体で、どこをうろついてたんだ?」
「……ちょっと、散歩してただけだ。夜風に当たりたくてな」
ルナネアのことは口にしなかった。あの秘密の場所と、彼女と交わした言葉は、誰にも触れられたくない俺だけのものにしておきたかったから。
そんな俺の誤魔化しを見透かしたのか、ルカーパは小さく鼻を鳴らす。
「散歩、ね。この森の奥がどれだけ危険か、人間のお坊ちゃんには分かってないらしい。……まあいい。無事に戻ったなら文句は言わん」
ルカーパはよっこらしょ、と重い腰を上げて立ち上がると、寝床の毛布を顎で指した。
「さっさと寝とけよ。明日は朝一番で、村長に会ってもらうことになっているからな」
「村長に……?」
聞き捨てならない単語に、俺は眉をひそめる。
このエルフの村のトップが、人間に何の用があるというのか。嫌な予感が、胸の奥で小さく燻り始める。
「そうだ。いくら俺が許可をとったとはいえ、村長が一瞥すらせずに村に置いとくってのは話が通らないからな」
「……なるほどな」
ルカーパはそれだけ言うと、自分の寝床へと引っ込んでいった。
家の小さな窓から、遠くの夜空をそっと見上げる。
あの大岩の上で、ルナネアも同じ月を見ているのだろうか。
――「明日の夜も、ここで座ってるから」
彼女の残した言葉が、暗い霧のようだった俺の心に、小さな、だけど確かな道標のように灯っていた。
明日、何があっても。俺は明日の夜、またあの場所へ行く。
俺は深く息を吐き出すと、静かに目を閉じた。




