異物
村の外縁へと近づくにつれ、原始的な松明の灯りは完全に途絶え、周囲は気持ち悪いほどの夜の静寂に包まれていった。
ただ、自分の足が土を踏みしめる乾いた音だけが耳に障る。そんな暗闇の中――
――カサリ。
不意に、すぐ近くの木々の奥から、小さく葉が擦れるような音が鼓膜を震わせた。
「……ッ」
俺は瞬時に足を止め、身体を低くして気配を消す。
要塞都市で培われた警戒心が、未だに身体の芯から抜けていない。
この音、ルカーパの言っていた、エルフに敵意を持つ都市の連中か、あるいは狂暴な魔獣か。
痛む身体を宥めながら、極力音を立てないようにして、うっそうと生い茂る木々の隙間を静かに縫って進む。
そして、視界を遮る大きな葉をそっと手で退けた瞬間――俺は思わず息を呑んだ。
頭上から木漏れ日のように差し込む、冷たくて鋭い月光。
それが、ぽっかりと開けた森の切れ間に佇む、一つの大きな岩の表面を白く幻想的に照らし出していた。
――そこに、一人の少女が座っていた。
月光を浴びて淡くきらめく、絹のように細い黒髪。
衣服こそ村の他の連中と同じく質素なものだったが、岩の上で小さく膝を抱え、ただじっと夜空を見上げるその姿は、暗闇の中でそこだけを切り取った絵画のように美しく、そしてどこか現実離れして見えた。
エルフ特有の、すっと通った鼻筋に、どこか儚げな横顔。
だが、その表情には、村の松明の下では決して見えないような、物事に諦めきった深い孤独の影がべっとりと張り付いている。
「……」
その姿に、理想郷を追われ、世界のどこにも居場所のない自分自身の影が、嫌というほど重なる。
張り詰めた夜の空気を壊さないよう、俺はただ立ち尽くし、木々の陰からその少女をじっと見つめることしかできなかった。
じっと見つめていたその時、夜風がふわりと木々を揺らした。
ざわざわと葉が鳴り、彼女の長い黒髪が月光の中で大きく乱れる。
――しまっ、と俺が思った時には、もう遅かった。
少女の顔が、ゆっくりとこちらを向く。
前髪の隙間から覗いたのは、夜の闇に溶ける黒髪とはあまりに対照的な、吸い込まれるほどに澄んだ翠色の瞳だ。
「……誰?」
平坦で、穏やかな声が静寂に響く。
敵意も、怯えもない。ただそこにいる存在を淡々と確認するような問いかけだった。
「ッ……」
俺は咄嗟に身を翻し、さらに深く木々の影へと隠れようとした。
だが、バサリと大きな葉を鳴らしてしまった自分の無様な音に、すぐに思い直して動きを止める。
今さら隠れたところで意味はない。
ここでコソコソ逃げ回れば、それこそルカーパの言う、面倒事を起こす不審者そのものだ。
それに、彼女のあの諦めきった翠の目に、妙な親近感を覚えてしまったのも事実だ。
俺は小さくため息をつくと、隠れるのを諦めてゆっくりと木陰から姿を現す。
「……驚かせるつもりはなかった」
極力警戒させないよう、両手を軽く上げて見せながら、月光の差す開けた場所へと足を踏み出す。
少女は岩の上に座ったまま、その翠の瞳で、歩み出てきた俺の姿をじっと見つめていた。
月光の下、俺と少女の間に奇妙な沈黙が流れる。
少女は岩に座ったまま、小さく膝を抱える腕に少しだけ力を込めた。怯えているというよりは、人間という存在をただ観察しているような、そんな静けさだ。
じっと俺の身体に巻かれた包帯や、まだぎこちない足取りを翠の瞳で見つめていた少女が、ぽつりと短く言葉を紡いだ。
「何で人間がここにいるの?」
「けがしてたところをその……助けてもらったんだ」
「そう……」
少女は小さく息を吐くよう呟くと、再びその翠の瞳を夜空の月へと向けた。
「あんまり村から離れない方がいいよ。夜は暗いから」
「お前は帰らないのか?」
「……うん。あそこにいると息が詰まるから。ここにいる方が、ずっと楽」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼女の言う、あそこが、あの質素で排他的な村を指していることなんて、聞かなくても分かる。
「喧嘩でもしたのか……」
俺が何気なく口にすると、少女は感情の薄い瞳をほんの少しだけ揺らし、小首を振った。
「ううん。そうじゃない」
少女は自嘲気味にすらならない、ただ事実を淡々と並べるような口調で言葉を続けた。
「わたしは、村の誰とも話さないの。皆に嫌われてるし、あの中にわたしの居場所はないから」
「居場所がない……?」
「エルフのくせに耳が丸いだの、エルフのくせに人間の目をしているだの、皆に言われる。だからわたし、村で過ごしたことがほとんどないんだ」
同じ村に住むことすら出来ない。それが、彼女がこの村で強いられてきた孤独の深さだった。
村で過ごすことすらできず、冷たい月光の下で一人、膝を抱えることしか許されない少女。
「……そう、か」
俺は小さく息を吐き出し、彼女が座る岩の少し手前、手頃な丸太に腰を下ろした。
「なら、ちょうどいい。俺もあの村の連中には歓迎されてない身だ。お互い、煙たがられ者同士ってわけだな」
俺の言葉に、少女は驚いたようにその翠の瞳を大きく見開いた。じっと俺を見つめるその無垢な視線が、何故か今の俺には、鋭い刃のように胸に突き刺さる。
――居場所。
彼女の呟いたその言葉が、俺の脳内で嫌な音を立てて蘇る。
この村に来てから、痛む身体の治療やルカーパとのやり取りを言い訳にして、出来るだけ考えないように蓋をしてきた記憶。
それが、一気に決壊して頭の中に流れ込んでくる。
脳裏に浮かぶのは、『幻憶の森』や第一区画での光景。
信じていた仲間たち。そして――リシェラ。
あの時、彼女が浮かべた絶望の表情が、突きつけられた現実の冷たさが、生々しい熱を持って蘇る。
あそこには、俺の全てがあったはずだった。命をかけて守ろうとした絆も、確かにあったはずだった。
なのに、何故俺は今、こんな見知らぬ異境の森の片隅で、傷だらけの身体を晒して生き延びている?
「……ッ」
突然湧き上がった負の感情に、激しい眩暈が俺を襲った。
全て投げ出して生き延びた自分への怒りと、何もかもを失った喪失感。そして何より、リシェラたちの顔を思い出すだけで、心臓を直接掴まれたような言いようのない恐怖がせり上がってくる。
ここじゃないどこかへ。
あの忌まわしい過去の手が届かない、誰も俺を知らない場所へ。
一度決壊した思考は、瞬く間に、全てを放り出してここから逃げ出したいという圧倒的な衝動に支配されていった。
「……大丈夫?」
突然様子が変わった俺を不審に思ったのか、少女の微かに動揺を孕んだ声が聞こえる。
だが、今の俺には、その澄んだ翠の瞳を直視することが耐え難い。
「え、あ、何、でもない……」
呼吸がうまくできない。
膝についた自分の手が、みっともないほどに震えている。
彼女がただ、居場所がないと言っただけで、俺の脆い精神は簡単に瓦解してしまった。要塞都市での栄光も、仲間との約束も、全てが重苦しい泥のようになって頭の中をかき乱す。
これ以上ここにいれば、胸の内に溜まった何かを、この無関係な少女の前にぶちまけてしまいそうだった。
逃げなきゃならない。この場所からも、自分の記憶からも。
俺は立ち上がろうとして、しかし、傷む身体に力が入らずに、再び丸太の上へと深く沈み込んだ。
そんな無様な俺の姿を、少女は岩の上から見下ろしている。その瞳に軽蔑の色はなく、ただ、迷子を見つめるような純粋な心配だけが灯っていた。
静寂が、再び俺たちを包み込む。
風が止み、森が息を潜める中、彼女は小さく、本当に小さく息を吸った。
「……ルナネア」
「え……?」
掠れるような声で呟かれたその単語に、俺は思わず顔を上げる。
「わたしの名前。……ルナネアって言うんだ」
少女――ルナネアは、膝を抱えたまま、どこか照れくさそうに、あるいは初めて自分の名を他人に明かす緊張を隠すように、視線を斜め下へと落とした。
「ルナネア……」
口の中でその名前を繰り返してみる。
エルフの村で、人間の特徴を持っていると蔑まれ、孤立してきた少女。彼女がその名を開示してくれたという事実が、激しく波立っていた俺の心を、不思議とほんの少しだけ落ち着かせてくれた。
ルナネアは、俺の様子が落ち着いたのを見届けると、少しだけきまり悪そうに薄い唇を尖らせる。
「……ちょっと、話しすぎちゃったかも」
ぽつりと、ルナネアは本当に小さな声でつけ足した。
「いつもは、こんなに喋らない。あなたにこんな進んで話すつもりなんて、なかったのに」
そう言って、ルナネアは再び前髪の隙間から翠の瞳を覗かせ、俺をじっと見つめる。
「対等に話しかけられたのなんて、凄く久し振りだったから……」
その言葉は、言い訳のようでありながら、彼女なりの不器用な歩み寄りのようにも聞こえた。
月光に照らされたルナネアの横顔は、やはりどこか儚げだったが、先ほどまでの諦めきった孤独の影は、ほんの少しだけ薄くなっているように見えた。




