エルフの村
重い瞼をどうにか押し上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れない木目の天井だった。
ふわりと鼻を突く、青臭い匂い。背中や手足の痛みに顔をしかめながら、俺は自分が硬い木のベッドの上に横たわっていることに気づく。
ボロボロだった身体には、驚くほど丁寧に包帯が巻かれていた。あの傷たちは露出せず、薄い毛布の熱が微かに肌に伝わってくる。
「……生き、てるのか」
掠れた声で呟き、上半身を起こそうとしたその時、小気味よい音を立てて木製の扉が開く。
「思ったより早いお目覚めだな、ファイ」
入ってきたのは、背中に弓を背負っていない、少し原始的な服に身を包むルカーパだった。
その長い耳を軽く揺らしながら、ルカーパはベッドの脇へと歩み寄ってくる。
「ここは……」
「俺の家だよ。お前が盛大にぶっ倒れた後、パルと二人でここまで担ぎ込む羽目になってな。つっても、あいつは途中で重いだの汚いだの文句ばかり言っていたが」
ルカーパは部屋の隅にある丸椅子を引きずってくると、そこに腰をかけ、品定めするような目を俺に向けてきた。
「一応、お前が寝ている間に村長には話を通しておいた。外から来た人間を無条件で受け入れるほど、うちの村も温かくはないんだがな。……俺の顔に免じて、傷が癒えるまでの間しばらくここで休んでいいという許可は貰ってやったぞ」
「……村長に?」
俺は包帯の巻かれた自分の手を見つめ、それからじっとルカーパを睨み据えた。
理想郷での裏切り。誰も俺を信じなかったあの糾弾。人間の言う正義の醜さを知った俺の胸の奥で、闇を纏う猜疑心がまた鎌首をもたげる。
「なんでそこまでしてくれる……。お前のその信頼は、一体どこから来るんだよ。俺が、本当に凶悪な犯罪者だったらどうする気だ」
鋭く突き放すような俺の問いに、ルカーパは気を悪くする風でもなく、ただ面白そうに口元を歪めた。
「あのなぁ、さっきも言ったが、俺がお前を助けたのはただの善意じゃないぜ。興味があるだけだよ」
「見返りは……?」
「求めない」
「おめでたいやつだな」
鼻で笑ってやると、ルカーパは呆れたように大袈裟に肩をすくめた。
「言ってくれるな。まぁでも、その減らず口が叩けるなら、これの食い甲斐もあるってことか」
ルカーパが傍らの棚から持ち上げてみせたのは、木製の皿とコップだった。
部屋の中に、先ほどの青臭い薬草の匂いをかき消すような、香ばしく肉の焼ける匂いが一気広がる。
その瞬間、俺の腹がグゥ、と情けない音を派手に鳴らした。
「……っ」
「ははっ、正直な身体だな。ほら、動けるか?」
「動ける」
ルカーパのからかい兼心配に手短に応じながら、俺はゆっくりとベッドから足を下ろした。
まだ全身が悲鳴を上げている。だが、下水道を這いずり回っていた時に比べれば天と地ほどの差だ。
部屋の中央にある小さな木製のテーブル。
そこにルカーパは、棚に置いてあった皿やコップを並べる。
「毒は入ってないだろうな」
「入れるわけないだろ。失礼なやつだな。ま、座れよ」
ルカーパに促され、俺は椅子に腰を下ろす。
手渡された木のフォークで肉を切り取り、おそるおそる口に運んだ。
「……っ」
美味い。第三区画で食っていた洗練された高級料理とはほど遠い、野性味溢れる大雑巾な味。だが、冷え切った身体の芯に、その温かさが暴力的なまでの美味さとなって染み渡っていく。
俺が狂ったように肉を食い、飲み物を飲むのを、ルカーパは自身の皿に手を付けながら静かに見つめていた。
「それで、ファイ。ここから先の話をしよう」
ルカーパがスプーンを置き、少しだけ真面目なトーンに声を落とす。
「さっきも言った通り、村長の許可は取った。だがそれは、あくまで、傷が癒えるまでの暫定的なものだ。この村のエルフの多くは、お前たち人間を心底嫌っている。それはパルの態度を見ていれば分かっただろ?」
「……あぁ」
「あいつだけじゃない。村の連中にとって、人間ってのは、森を脅かす強欲な侵略者でしかないんだ。だから、お前がいくら無実を訴えようが、ここに長居すればそれだけ反発が強くなる」
ルカーパは冷めた目で窓の外、原始的な松明が灯る村の景色へと視線を向けた。
「お前が都市のやつらにはめられたって事情、俺は信じてやってもいい。だが、村の全員が同じように優しくしてくれると思うなよ。お前がここで生き延びるためには、極力目立たず、早く身体を治して次の行き先を決めることだ。……分かったか?」
ルカーパの言葉には、どこか現実を直視させる、嫌な真っ直ぐさがあった。
やっぱり、ここも俺の居場所じゃない。理想郷を追われ、辿り着いた先もまた、別の排他的な檻に過ぎないのだ。
「……言われなくても、長居するつもりはない。身体が動くようになれば、すぐに出ていく」
俺は残った飲み物を乱暴に飲み干し、コップをテーブルに置いた。
「ならいい。お前は居候なんだから、あんまり面倒事は起こしてくれるなよ?」
ルカーパはそう言って、皮肉げに、だがどこか見守るような笑みを浮かべ、手元の皿を片付け始めた。
「後始末は俺がやっておく。お前は少し、外の空気でも吸ってこいよ」
ルカーパは空になった皿を手際よく重ねながら、顎で扉の方を指し示した。
「ずっと狭い部屋に引きこもってちゃ、治る傷も治らないからな。……言っておくが、あんまり村の連中にはちょっかいかけるなよ?余計な摩擦を生むだけだからな」
「……分かってる」
念を押すようなルカーパの言葉に短く応じ、俺は立ち上がった。まだ身体の節々が痛むが、歩く分には支障はない。
木製の扉を開け、外へと一歩踏み出す。
肌を撫でる冷たい夜風が、体内に残る飯の熱を心地よく冷ましてくれた。
見渡す限りの闇、そして点々と灯る松明の光。改めて自分の目で見るエルフの村は、驚くほどに質素だった。
そびえ立つ大樹の周囲に、自然の形を崩さないようにして建てられた背の低い木造の家々。
第一区画のような、俺らは金持ちですと主張するような建物も、夜を昼に変えるような灯の輝きもない。泥の匂いと、木々の呼吸がそのまま満ちているような場所だ。
「不思議なもんだな……」
あまりの文明の格差に、胸の奥で奇妙な乾いた感情が湧き上がる。
ここのエルフたちが、強欲な侵略者と人間に敵意を向ける理由が、この景色だけで痛いほどによく分かった。交わるはずのない二つの世界だ。
俺は極力目立たないよう、松明の光が届く境界線の、さらに影になっている暗がりを選んで静かに歩き始めた。
家々の窓から漏れる細い光の向こうには、時折、長い耳を持った住人たちの影が動くのが見える。彼らがこちらに気づく様子はない。ルカーパの言う通り、人間である俺がここにいるだけで、彼らにとっては不愉快な嵐の種でしかないのだろう。
「どこにいっても俺は煙たがられるってわけか……」
これからのこともまともに決められない状況を思い出し、自嘲気味に呟きながら、俺は土を踏みしめ、村の外縁へと向かって、あてもなく少しずつ足を運んでいった。




