命
「いい返事だ。根性だけは合格点をくれてやるよ」
男が満足げに呟いたのを最後に、俺の緊張の糸はぷつりと切れ、意識は今度こそ完全な闇へと沈んでい――かない。
「まだ、信用したわけじゃないぞ……」
いつ不意打ちを食らうか分かったものじゃない。今はひたすら、意識を保ち前へ進む。それが、今の俺に出来る唯一のことだから。
「頑固だな。まぁいいか」
男が笑う。
「さ、エルフの村へ行こうぜ」
男はくっくっと喉を鳴らして笑うと、躊躇なく俺のボロボロの腕を掴み、その身体からは想像もつかない力で俺の身体を引きずり起こした。
「う、お……っ!?」
膝が折れそうになるのを、男の肩に体重を預けることでどうにか踏みとどまる。
「気を失わないのは大した根性だが、足元がクラついてるぞ。ほら、パル!突っ立ってないで、お前もそっちの腕を支えろ」
男が暗闇の奥に向かって声をかけると、茂みの陰から、ビクッと長い耳を震わせたあの少年――パルが顔を出した。
パルは放り出していたカゴを大急ぎで拾い上げ、俺の泥と血にまみれた姿を見て、あからさまに顔をしかめる。
「えっ……!?嫌だよルカ兄!なんでそんな怪しい人間を助けなきゃいけないのさ!汚いし、すっごく変な臭いがするもん!」
「馬鹿言え、お前が戦士様助けて!って泣きついてきたから俺がここまで来たんだろ。連れて帰るって決めたのは俺だ。いいから手を貸せって」
「うぅ……っ。僕は、退治してって言っただけで、連れてきてなんて言ってない……!」
「いいから。ほら、そっち持て」
「……わかったよ。はぁ、ルカ兄のお人好し……」
パルはぶつぶつと不満を零しながらも、ルカ兄と呼ばれた男の言葉には逆らえないらしく、おそるおそる俺の左側に歩み寄ってきた。
だが、俺の身体に触れる寸前でぴたりと手を止め、結局、衣服の端を指先でつまむようにして、気休め程度に俺の身体を支える。
「……おい、人間。変な動きしたら、本当に倒すからね」
小さな声で、パルが俺を鋭く睨みつけてくる。その目はまだ、俺を完全に不審者として警戒している。
「震えてるぞ」
「な、なんだって……っ!僕の手は震えてなんかないぞ!」
「ムキになるなよ。お前ら、喧嘩する元気があるならしっかり歩けるな。行くぞ」
ルカ兄が強引に俺の身体を引っ張り、俺たちは夜の荒野を歩き始めた。
――一歩ごとに、足の裏から頭のてっぺんまで鋭い痛みが突き抜ける。意識は朦朧として、油断すればすぐにでも暗闇に引きずり込まれそうだ。それでも俺は、隣を歩くエルフの男と、少し離れて歩く少年の気配に神経を尖らせ続けた。
「なぁ、人間。お前、名前は?聞いておかないと村の入り口には入れないんだ」
沈黙に耐えかねたのか、ルカ兄が前を向いたまま軽い調子で訊ねてくる。
「……ファイ・ニアスだ……。あんたは?」
「ファイ、か。いい名だな。俺はルカーパ・テササフ。ここの警備を任されてる狩人の一人さ。で、そっちの生意気なのがパル・テササフ。一応、魔呪綴師の見習いだ。……ほらパル、挨拶くらいしろよ。大人のマナーってやつだぞ」
「……僕は人間と挨拶する気なんてないもん」
パルはぷいっと顔を背け、俺と目を合わせようともしない。ただ、衣服を掴む指先にぎゅっと力がこもる。
「まだまだガキだな、お前は」
「僕は人間が嫌いなんだ!都市のやつらはみんな嘘つきで、僕たちの森を荒らすことしか考えてないって、村長も言ってたもん!だから……この人とも、おしゃべりしたくない!」
パルの言葉には、子供らしい純粋な敵意と、根深い拒絶が混ざっていた。
それを聞いて、俺の胸の奥で、怒りの感情が笑う。
人間ってだけで一括りか。
吐き捨ててやりたかったが、今の俺にはそのための体力すら惜しい。代わりに、喉の奥から乾いた声が漏れる。
「俺も、都市のやつらは嫌いだ……」
「え……?」
俺の呟きに、パルが小さく耳を揺らしてこちらを見た。ルカ兄――改めルカーパもまた、前を見据えたまま、少しだけ真剣な声で言葉を続ける。
「お前の事情は、話したくなったら話してくれよ」
「ルカーパ……」
「いいから前を見て歩け。ほら、もうすぐそこだぞ」
ルカーパの言葉の意味を考える余裕は、もう残っていない。
ひたすらに足を動かす。ただそれだけのことが、今の俺にとっては、世界と戦うことと同義だ。
不意に、目の前の視界を遮っていた深い木々が左右へと開けた。
夜の静寂の中に、ぽつり、ぽつりと、原始的な松明の灯りが幻想的に浮かび上がってくる。背の低い木造の家々と、中央にそびえ立つ巨大な大樹。
「ほら、着いたぞファイ。歓迎はできないが、ここが俺たちの村だ」
ルカーパの声が、耳の奥で心地よく響く。
――村。本当に、辿り着いたんだ。
見知らぬ異境の灯りを見つめた瞬間、頭の先から全身の緊張がドッと崩れ落ちていくのが分かった。
張り詰めさせていた執念の糸が、限界を迎えてぷつりと切れる。
「おい、ファイ!?おい、しっかりしろ!」
「うわわっ!ちょっとルカ兄、倒れてくるってば!重いよ人間……っ!」
ルカーパとパルの慌てた声が、遠く霧の向こうへ消えていくように霞んでいく。
地面へと倒れ込む身体。だけど、不思議と恐怖はなかった。
檻を抜け、ひたすら歩き、俺は確かに生き延びてみせた。
倒れながらも脳裏に浮かぶのは、様々な顔。
胸の奥で燻る何かを絶やさないように、俺の意識は今度こそ、深い闇の底へと沈んでいった。




