脱兎の如く
――引き返す。引き返す。今来たパイプの森を、なりふり構わず、無様に這いずりながら戻っていく。
先ほど曲がったはずの分岐までどうにか辿り着き、俺は濁流に足を取られながらも、もう一方の薄暗い闇の奥へと身体を押し込んだ。
「う……っ!」
呼吸はとうに限界を迎えている。肺が焼けつくように熱く、喉の奥からこひゅーと情けない音が漏れた。
痛みが走る背中を丸め、ほとんど四つん這いに近い醜い格好で、泥水を跳ね上げながら進む。
もう、衛兵への恐怖も、ネズミへの嫌悪感も、全てがどうでもよくなっていた。
ただただ、生きたいという剥き出しの執念だけが、まともに動かない肉体を前へと突き動かす。
どこに向かっているのかも分からない。また行き止まりかもしれない。そんな絶望的な思考が頭をよぎるたびに、俺は頭を振ってそれを打ち消した。
壁にボロボロの手を突き、何度も滑って膝を打ち付け、泥水を顔から被りながらも、ただひたすらに、必死に闇を掻き分けて進んだ。
どれほど醜く足掻き、彷徨い続けたろうか。
不意に、えぐ味のある下水道の臭いの中に、わずかな夜の冷気が混ざるのを感じた。
「は、あぁ……っ」
泥水まみれの顔を上げる。
通路の先、崩れかけた古い排水口の向こうに、濁った闇ではない、本物の夜空が広がっているのが見えた。
俺は最後の力を振り絞り、もつれる足でその出口へと這い寄った。
排水口の先は、地上へと直接繋がっているわけではなかった。そこは建物の基部か、あるいは外壁の隙間なのか――石造りの壁から不自然に突き出た、ちょっとした出っ張りの横だった。
その細い隙間に泥まみれの身体をねじ込み、出っ張りの横から這い出るようにして、ついに俺は外の世界へと頭を突き出した。
「出ら、れた……ッ!」
冷たい夜風が、汗と汚水に濡れた全身を容赦なく叩く。その寒さが、たまらなく愛おしかった。
床に手をつき、荒い息を吐きながら周囲を見回す。
目の前に広がっていたのは、見慣れた理想郷の華やかな中心地ではなかった。
そびえ立つ巨大な防壁の影、そして遠くに見える、厳格な境界線。
――間違いない。
ここは――中央区画の外だ。何故中央区画だと思ったのか、それは簡単だ。この暗さでも分かる荘厳さである。
檻を抜け、ネズミの這う泥の底を這いずり回り、俺はついに、あの歪んだ場所の支配から一歩、外へと踏み出したのだ。
――出られた。本当に、あの地獄を抜け出したんだ。
じわり、と視界が滲む。だが、感傷に浸る時間は一瞬も許されていない。
ガタガタと震える膝に両手を置き、俺は無理やりその場に立ち上がった。一歩を踏み出すたびに、全身の打撲痕が、肉を引き裂くような激痛となって脳髄を殴りつけてくる。
「……止まるな、動け。ここで倒れたら、何のために逃げてきたか分からないだろ……っ」
自分を呪うように声を絞り出し、俺は前へと足を向けた。
目指すのはここではない。この都市の、中央区画の支配が一切届かない遥か遠く。
見つかりさえしなければ、まだ生き延びる道があるかもしれない。
華やかな理想郷の光を背に、俺は夜の荒野をただひたすらに歩き続けた――
――中央区画の巨大な防壁が遠ざかり、周囲の景色が完全な闇と静寂に包まれていく。
冷たい夜風が吹き抜ける中、聞こえるのは自分の荒い呼吸と、草を踏み締める衣擦れの音だけだ。
「くそ……森しかないな」
ふと口を突いて出た言葉に、胸の奥がキリキリと痛む。怒りと、それでもまだ完全に消し去れない過去の記憶が混ざり合い、吐き気がした。
頭を振って雑念を追い払い、ひたすら影のように暗闇を進む。
――その時だった。
「……ッ!?誰だ!」
前方の茂みから、ガサリと不自然な音が響いた。
身を硬くし、息を殺して闇を睨みつける。衛兵の追っ手か、それとも飢えた魔獣か。ボロボロの今の俺には、どちらにせよ戦う力など残されていない。
「……あれ?人間の、男……?」
茂みを分けて現れたのは、意外な人物だった。
ボロを纏った、小柄な耳の長い緑髪の少年。その大きな耳が、警戒するようにピクリと動いている。手には、夜の薬草摘みにでも使っていたのか、小さな鎌とカゴを握りしめていた。
「お前……」
「うわ、近寄らないで!泥だらけだし、血の匂いがする……!お前、まさか犯罪者なの!?」
少年はあからさまに嫌悪感を剥き出しにし、一歩、また一歩と後ずさりする。
その怯えた、だが汚いものを見るような目は、都市で俺を糾弾したやつらの視線と重なって見えた。胸の奥から、ドス黒い感情がせり上がってくる。
「犯罪者……?違う、俺は……。いや、何でもない」
「な、何だよお前!わけわかんないよ!」
叫んだ瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
限界を超えていた肉体が、ついに悲鳴を上げる。頭から地面へ倒れ込みそうになるのを、どうにか片膝をついて堪えた。
「マズイな……っ。クソッ!動けよ……っ!」
「ひっ……!き、狂人だ……!助けて、戦士様――!」
少年は悲鳴を上げ、カゴを放り出して暗闇の奥へと脱兎のごとく逃げ出していった。
「待ってくれ……っ。逃げるな……!」
伸ばした手は空を切り、俺はそのまま荒野の土の上へと倒れ伏した。
視界が急速に狭くなっていく。だが、あの少年が最後に叫んだ言葉が、かすかに耳に残っていた。
――戦士様。
「村か?衛兵ではなさそうだし……。でもあの耳は――」
俺が呟き終わるより前に、遠くからこちらへ近づいてくる、規則正しい足音が聞こえた気がした。
――足音が、近づいてくる。
草を踏み鳴らすその音は、理想郷の衛兵が履く鉄靴の重々しい響きとは明らかに違っていた。軽やかで、それでいて地面に無駄な振動を伝えない、洗練された足取り。
視界の端がチカチカと暗転していく中、俺はただ、泥にまみれた顔を辛うじて上げてその影を睨みつけた。
「……なんだこれ。パルが血相を変えて戻ってきたから何事かと思えば、ずいぶんとボロ雑巾な狂人が転がっているな」
低く、どこか涼やかな声が頭上から降ってくる。
ぼやける目を必死に凝らすと、そこに立っていたのは、月光を背に、その端整な顔を丁寧に対照化してる髪型の男だった。
先ほどの少年と同じ、頭から突き出た長い耳、そして緑髪。しかし、その佇まいは先程の少年とは違う。
背中には見事な装飾の施された弓を背負い、腰に手を当てて俺を見下ろしている。
「あいつが……ゴホッゴホッ……勝手に、怯えて、逃げたんだ……っ」
喉の奥が張りつき、掠れた声しか出ない。
男は俺のボロボロの衣服や、下水道の汚水と血にまみれた身体をじっと検分するように見つめ、ふっと小さく息を吐いた。
「お前、その格好に傷……。なるほどな、あの中央区画から命からがら這い出てきたわけか。その傷、よく我慢できたな、人間」
「お前は、俺を……突き出すか……?都市のやつらに引き渡して、ご立派な報酬でも貰うかよ……っ」
奥歯をガチリと噛み合わせ、俺は精一杯の虚勢を張って男を睨み返した。どうせもう一歩も動けない。殺されるなら、せめて最後まで無様に命乞いだけはしたくなかった。
だが、男は俺の刺々しい言葉に怒る風でもなく、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「都市のやつらに引き渡す?笑わせるなよ。俺らエルフが、何であんな歪んだ都合につき合わなきゃならないんだ。やつらの法律も、やつらの言う正義ってやつも、この林森の先には一歩も届かんさ」
「じゃあ……俺を、どうする気だ……」
「どうするもこうするもない。言ったろ、俺はただパルに頼まれて見に来ただけだ。「お化けみたいな人間が出た!」って大泣きされたからな」
男はそう言うと、背負っていた弓の位置を軽く直して、俺の前に屈み込んできた。その鋭い眼光が、まっすぐに俺の濁った瞳を射抜く。
「お前が何をしたかは知らん。だが、その身体でここに転がっていれば、明日の朝には冷たい置物だ。……生きる執着だけは一丁前にあるようだが、どうする?」
「どうする、って……っ」
「少し歩いたところに、俺らの村がある。……来ないか、と言ったら?」
「……は?」
予想もしなかった言葉に、一瞬、思考が停止した。
村。エルフの、村。
その言葉が、朦朧とする脳裏にじわじわと染み込んでいく。だが、すぐに裏切られた記憶が頭をもたげた。
「……なんで、助ける……。俺は、犯罪者、かもしれないんだぞ……。裏切られることだって――」
「お前を助けるのが善意だとでも思ったか?勘違いするなよ、人間。ただ、そのボロボロの身体でそれだけギラついた目をしているやつが、どんな理由で都市を這い出てきたのか、少し興味があるだけだよ」
男は立ち上がり、呆れたように、しかし微かに口元を不敵に歪めた。
「もちろん、お前に拒否権があるような状態には見えないけどな。どうだ?ここで野垂れ死ぬか、それとも俺についてくるか。選べよ」
罠かもしれない。都市とは違う地獄が待っているだけかもしれない。だけど――ここで終わるわけにはいかないんだ。
「……行くに……決まってるだろ……。俺は、まだ、死ねない……っ!」
生き延びる。その信念が、その信念だけがただ、俺の口を無理やり動かした。




